第25話 再会


「マヤ!」


 レナは必至でその名を呼んだ。


 妹は腹部から大量に出血している。これでは助かる見込みは——。


「マヤ……!」


 レナは素早く応急処置を施した。傷口を強く押さえると、レナの手指も血に染まっていった。

 止まらない。止まってくれない。最愛の人の命が、絶対に守り通してみせたかった人の命が、どんどんと流れ出て行ってしまう。

 一縷の望みに頼って、足元のドモヴォーイを見た。だがカミルは、悲しそうに俯いているだけだ。


 ああ、もう、本当に駄目なんだ──!


「ああああ! 何で、何で何で!」


 レナは、半狂乱になって絶叫した。


「お願い、死なないでマヤ。私、何でもするから! 私が代わりに死んであげるから! お願いお願いお願い……!」


 無我夢中でマヤの体を抱き寄せた。涙が止まらない。


「あああ父さんごめんなさい……父さんが命をかけて守ったものなのに……私、何を犠牲にしても、この子だけは守るって誓ったのに!!」

「レナ……」

「何だってしてきたのに。私の全てを捧げたのに。この子のために全部。それでもまだ足りないの。私はどうすればよかったの。ああ頼むから行かないでマヤ……」


 そう、何だってしてきた。

 父を保安局に売ったのは、他でもない父の指示だった。カミルから予言を聞いて、一家三人が拷問で死ぬことを知った父が、自分を娘に売らせることで娘二人を助けようとした。

 レナは当然反対した。だが父はレナに、マヤを頼むと言ったのだ。レナは託されてしまった。妹まで死なせるわけにはいかなかった。だからせめて、妹のためならどんなことだってしてみせる覚悟をしたのだ。

 父を売ることで、自分と妹の疑いを晴らした。同僚を殺すことで、家族の安全を保障される特権を得た。賄賂を使って、マヤが処刑される可能性を潰した。マヤがまた危機に陥った場合に備えて、他人を拷問して地位に留まり続けた。

 全て全て全て、マヤの命のために。

 そんなこと、この子は知らなくてよかった。自分のために父が犠牲になったことを知ったら、優しいこの子は傷つくだろう。何も知らないままでいい。レナが父親を殺したことを許さなくていい。レナのことを恨んだままでいい。

 それは独りよがりだったのだろうか。レナがマヤを守るためにここまでしたのだと知っていたら、マヤは危険を冒さずに家でじっとしていてくれた? いや、そんな保証はない。だったら、泥も血もみんなレナ一人がかぶればそれでいい。それが一番いい。


 だからマヤの前では嘘をついた。何も悟らせないために。

 神の前では切に祈った。どうか妹が幸せに生きていて欲しいと。


 ――そこまでしたのに、この子は行ってしまうのか。


『マヤ……レナ……』

 カミルがおろおろと、レナとマヤの間を駆け回っている。


「レナ」


 マヤが声を絞り出した。


「ごめんなさい。本当はレナのこと好きだった……」

 レナは虚を突かれた。

 レナはこれまでマヤに対して、あんなに突き放した態度を取ってきたのに、この子は……。

「あ、謝らないで。悪いのは私なのに」

 マヤは薄く笑った。

「レナ、私ね、決めてたの。レナが元の優しいレナに戻ったら、仲直りしようって。でも不思議だなあ……こうして見ると、レナはずっと優しかったみたいだなあ……」

 レナの目から新たな涙が溢れ出た。

「マヤ……ごめんなさい」

 レナは涙声で懺悔した。

「私、あなたを守りたくて、ずっと嘘をついていたの……。本当はあなたのことが大好きなのに、ひどいことを沢山言ってしまったわ。本当にごめん……ごめんなさい」

 マヤはレナの顔に手を差し伸べた。

「いいの。レナはこうしてマヤのところに戻ってきてくれたんだもん」

 マヤの声が、急速に、小さく弱々しくなっていく。

「また会えて、すごく、うれしかった、よ……レナ……」


 ぽとり、とマヤの手が力を失って地に落ちた。


「……!」


 レナは、声にならない叫び声を上げて、マヤを揺さぶり、抱きしめ、胸に耳を当て、それから慟哭した。


「あああああああああ!!」


 どうして。どうしてこんなことに。こんなの信じたくない。

 死んでしまった。命をかけて守ると誓った、たった一人の大切な家族が、死んでしまった。

 間に合わなかった。なすすべもなかった。未来を変えることができなかった。どんなに悔いても足りない。


「こんなことになるのなら、あの時、一家三人で死ねば良かったあぁ……!」


 憎い。神が憎い。国が憎い。自分が憎い。

 ひどいひどいひどい。こんなのってない。あんまりだ。耐えられない。

 絶対に許せない。


 胸が引きちぎれそうだった。地面が足元から崩れ去ってしまいそうだった。絶望は海よりなお深く、悲痛は宇宙よりなお大きかった。

 もうレナには何もなかった。何も残されてはいなかった。殺して捨てて喪って、空っぽだった。レナはたったひとりになってしまったのだ。


 身も世も無く泣き崩れるレナの背後に、続々と到着するものがある。

 保安局の黒い車だ。

 民警機動隊の面々がどよどよと道を譲った。

 車から降りてきた一人の局員が、規則正しい歩調で、レナに歩み寄る。彼は厳しく叱りつけるように、こう言った。


「職務怠慢および公務執行妨害により一時的に拘束する。神妙にしろ、レナ・ステンシル」


 レナは何の反応も示さずに、マヤをぎゅっと抱いたまま、ただ嗚咽を漏らしていた。


「おい」


 苛立った声が降ってきた。局員はレナを立ち上がらせようとしたが、レナは頑として動かなかった。


「立て」


 他の局員もやってきて、マヤをレナの腕から奪おうとする。


「やめて!」


 レナは甲高い声で怒鳴った。うるさそうに顔をしかめた局員は、レナの背中を容赦なく蹴飛ばした。


「うっ」


 レナがマヤを抱えてうずくまる。更に多くの局員が、寄ってたかって、マヤとレナを離しにかかった。

 レナは必死で抵抗したが、多勢に無勢、敵うはずもなく、マヤはレナの腕の中から引き剥がされてしまった。

 まだ温もりの残った体が、手から離れていく。


「いやっ、いやあっ、返して! マヤ! マヤぁ!!」


 マヤは、道路の上に粗末に捨て置かれた。

 カミルが駆け寄って、マヤに縋り付くのが見えた。

 レナはずるずると引きずられて、車の中に連れ込まれてしまった。


「嫌だ嫌だ嫌だ!! うわあああああ!!」


 レナは髪を振り乱して喚いた。

 マヤの元にデモ隊の人々が駆け寄ってくる。それを見たのを最後に、車の扉は無情にも閉められた。


 世界は、暗闇に閉ざされた。

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