第21話 遷移


 旅行から帰って以降、マヤは、何度か昔の夢を見るようになった。


 マヤは幼かりし頃は駄々っ子で、色んなものを欲しがった。レナはそんなマヤのわがままにつきあって、おもちゃを貸してくれたり、おやつを分けてくれたりしていた。父が買ってきたお土産を先に選ばせてくれたし、勝負事ではよく勝ちを譲ってくれていた。

 そんな自分が恵まれていると気がついたのは、確かマヤが六歳、レナが十歳の時だった。

 マヤは父とレナと三人で、レナの服を買うために店に訪れていた。ただ付き合わされただけのマヤは、ぐずった。

「マヤはこれが欲しい」

 白いワンピースの前でマヤは訴えた。当時は教授の地位になく収入も乏しかった父は、困った顔をした。

「マヤ、今日はレナの服を買いに来ているんだ。マヤはもうたくさん持っているだろう」

「やだ! だってマヤの服は、レナのお下がりばっかりだもん。マヤにも新しいのを買って」

「そんなわがままを言っては駄目だよ」

「父さん」

 レナは決めていた服をハンガーに掛け直した。

「やっぱり私、これいらないわ」

「レナ? 前から欲しいと言っていたじゃないか」

「やっぱりやめた。また気に入ったのがあったら言うから」

 そう言って有無を言わさずマヤの指差していたワンピースを手に取った。

「マヤ、こっちにおいで。これ着てみよう」

「あ……」

 マヤは急に後ろめたい気持ちに襲われて、レナを窺い見た。

「どうしたの、マヤ。着てみないと、似合うか分からないわよ」

 レナはマヤの手を引いて試着室に誘った。マヤはおずおずとついていった。

「レナ、マヤのために我慢をしなくてもいいんだよ」

「別にいいのよ、父さん。いつもマヤの方が我慢しているんだから」

 レナは本当に気にしていないという風だった。

 マヤは結局、白いワンピースを買ってもらった。いつもだったらマヤははしゃぎ回って、父に「こら、レナにありがとうを言いなさい」とたしなめられるのだが、この日マヤは自分から「ありがとう」と言った。

「どういたしまして」

 レナはどこかぎこちない笑顔で、マヤの頭を撫でた。笑うのが苦手な姉が、わざわざ笑顔を作ってくれた。

「素敵な服をもらえて良かったわね」



 マヤはむくりと起き上がった。夜はまだ明けきっていなかった。そして、緑色の帽子の小さな頭が、ベッド下から、マヤを覗き込んでいた。


「ドモヴォーイ」

 マヤは手を伸ばして、ドモヴォーイを抱き上げた。

「どうしたの。最近はよく現れるけど」

 ドモヴォーイは口をぱくぱくさせた。

 レ、ナ。

「え? あなたレナの所にも行ってるの?」

 こくんとドモヴォーイは頷いた。マヤは目を丸くした。

「な、何で? 私のこと、見張っていたの?」

 今度はドモヴォーイは首を横に振った。それからまた口をぱくぱくさせた。

 レ、ナ、マ、ヤ、す、き。

 マヤは苦笑した。

「それはあなたの勘違い」

 ドモヴォーイは悲しそうにしゅんと項垂れた。

 それから青色の目で上目遣いにマヤを見上げた。

 マ、ヤ、レ、ナ、す、き?

「まさか。嫌いだよ」

 マヤは言ったが、ドモヴォーイは首を傾げた。

 ほ、ん、と?

 マヤは頷いた。

「本当。でもね、昔は好きだった」

 ドモヴォーイはニッと笑った。それから、何かペチャクチャと一生懸命に喋り出した。

「え、何? 分からないよ」

 マヤが戸惑っていると、ルームメイトが「何、マヤ?」と寝ぼけ声で言った。マヤは慌てて口を塞いだ。

 ドモヴォーイは手を振ってから、フッと消え失せた。


 マヤは再び枕に頭を乗せた。


(レナもドモヴォーイを見ているってことかな)

 目を閉じると、夢の中のレナの笑顔がよみがえってきた。

(そういえば小さい時からレナは、ドモヴォーイがいるって言っていたっけ。あれは本当のことだったの?)

 変な気分だった。

 二人の心は離れてしまったのに、同じ秘密を共有している。伝説の妖精を見るという、摩訶不思議な現象を。

(仲直りできたら、ドモヴォーイについて話せるだろうか。私も見えるようになったんだって……)

 今は顔も見たくないけれど、もしレナが昔のように優しくなって、また二人で話すことがあったら。

(革命がこのままうまくいけば、もしかしたら)


 だが、雲行きはだんだんと怪しくなってきていた。


 「聯帯」の勢いは、坂を転がる雪だるまのように大きくなっている。あちこちでストライキが頻発し、ただでさえ困窮していた経済を更に悪化させていた。今や「聯帯」は政府と交渉できるほどの力を持っているというのに、ストの嵐は止まなかった。


 都市の機能がしばしば停止する。学内から出ることの少ないマヤでさえ、ちょっとした買い物に行くたびに、どこかの店が営業停止しているのを目にするようになった。交通機関も止まるようになった。以前から稀に起こっていた停電は目に見えて増え始めた。

 三月末には、ヴァレンサ含む各方面からの制止も虚しく、労働者たちによるゼネラルストライキが決行された。国内のほとんどの労働者が、丸々四時間の間、労働を拒否した。店頭から商品は消え去り、工場は稼働を停止した。


 これには「スズランの会」の仲間たちも困り果てた。

 ストライキとは時機を見て計画的に起こすからこそ効果が出るものであるはずなのに、今やパルラントはストライキこそ正義であるという空気になりつつある。

 果たしてこれは、民主化への近道なのか?

 パルラント政府は確かに「聯帯」の勢力を持て余し、腫れ物のように扱っている。だが同時に、ソヴェティアからの圧力も強まっているということは、マヤたちも感じ始めていた。


 ゼネストの直後、もはや信頼を取り戻せなくなったパルラント共産党第一書記のガレクは、とうとう辞任した。代わってヤーゼルという軍隊上がりの男がその座についた。ヤーゼルは「聯帯」議長のヴァレンサと互いに歩み寄る姿勢を見せていた。


 だが、「聯帯」内の民主化強硬派たちは、ヴァレンサが政府に歩み寄ることを良しとしなかった。「聯帯」はもう歯止めが効かないほどに膨れ上がり、民主化を求めて暴走を始めていた。


 経済は圧迫され、政治は右往左往し、外交は危機に瀕し、混迷は極まった。


 半年後の九月、マヤが大学の四年生になった月、そして「聯帯」が発足してからちょうど一年が経過した月に、「聯帯」は第一回の全国大会を開催した。

 そこで採択された綱領は、パルラント共産党の主権を完全に否定するものだった。人々は、国家の主権を国民に受け渡すように訴えた。

 当然、政府はこの要求を拒否した。「聯帯」による政権奪取は、彼らには到底受け入れられるものではなかった。それは彼ら自身のためでもあったし、パルラントという国家の安全のためでもあった。

 背景にはやはりソヴェティアの圧力があった。


 その事件は、起こるべくして起こった。


 十一月のある日、「スズランの会」の仲間が、青い顔で部室に駆け込んできた。


「大変! 急に!」

「どうしたの?」

「MTO軍が軍事演習を始めた!」

「はあ!?」


 MTOとはマスクヴァル条約機構の略称で、東側諸国の結んでいる軍事同盟だった。その基地はパルラント内にも置かれていて、各国の部隊が派遣されていたのだが、そこで突如として軍事演習が始まったのだという。

 マヤは勢いよく恋人の方を振り返った。


「ユリアン、これって」

「うん。『プラゴの春』の時と酷似している」


 かつてチェスコスロヴィオで『プラゴの春』と呼ばれた民主化運動が起きた際、ソヴェティアの号令でMTO軍は軍事演習を行い、チェスコスロヴィオ国民を威嚇した。それでも屈しなかったチェスコスロヴィオに、ソヴェティアは大量のMTO軍を派遣し、首都プラゴの町を蹂躙した。

 今のパルラントの状態を、ソヴェティアは「プラゴの春」レベルの危機だと見做したのだ。これ以上事態が悪化すれば、ソヴェティアは軍事介入も辞さないぞという脅迫。


「このままだとパルラントはチェスコスロヴィオの二の舞になる! ヴァソヴィオは間違いなく標的にされる」

 マヤは頭を抱えた。

「この町にも戦車がやって来るんだ!」

「落ち着いて。確かに状況は似ているけれど、同じではない」

 ユリアンは冷静だった。

「『プラゴの春』はチェスコスロヴィオ政府が主体となって行なった民主化政策だった。それに比べて今のパルラントのこれは、国民が主体だ」

「それってつまり……」

「うん。パルラント政府には選択肢があるんだ。民主化を求める国民に寄り添うか、独裁を強いるソヴェティアに寄り添うか。そして僕は、MTOが攻撃して来る可能性は低いと思ってる。その前に政府が折れるんじゃないかな。ソヴェティアからの圧力に」

「いずれにせよ、望ましい事態ではないよ」

 マヤの声は暗かった。

「『聯帯』の活動は潰される。政府によって潰されるか、ソヴェティアによって潰されるか」


 「スズランの会」のメンバーは肩を寄せ合って相談をした。政府はどのようなことをしてくるか。行動に出るとしたらいつか。それまでに自分たちには何ができるか。

 さまざまな意見が出されたが、事態を打開するような妙案は出てこなかった。誰かがこの民主化運動を潰しにかかっても、屈することなく頑張ろう、という方針だけが一致していた。

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