第19話 最善
保安局の権限が制限された。
専用店は廃止された。逮捕や拘束も以前のようには行えない。何人かの政治犯も釈放することになった。
レナの多くの仕事仲間は不平を言っていたが、レナにとってはどうでもいいことだった。
「聯帯」の動きにはレナも興味がある。
最初は期待していた。
彼らがどんどん力を増せば、やがてパルラントの政治を握れるようになるのではないかと思っていた。
そうなればもう何も文句は言うまい。
だが彼らにはそこまでの力が無いということが、分かってきていた。
八月末の「クダンスコ協定」の時点で、彼らは現在の共産党一党独裁政権に代わってパルラントを担うという道を放棄していた。理由はおおかた察しがついている。共産党の背景にはもれなくソヴェティアが控えているのだ。共産党政権の打倒はソヴェティアとの対立を意味する。「聯帯」はソヴェティアを敵に回すことを避けたかったのだ。改革はあくまで社会主義体制を維持したままの範囲に限られた。
それだけではない。
レナは椅子から立ち上がり、帽子を被って、休憩室を出た。
「聯帯」はソヴェティアの覇権を否定しなかった。それにも関わらず、ソヴェティアは既に、パルラントへ圧力をかけ始めていたのだ。
保安局の権力を回復せよ。検閲を強化せよ。共産党の権威を示せ。「聯帯」を、潰せ。さもなくば——軍事力をもって答える。
彼らが暗にそう言っているという情報が、レナの耳には入ってきていた。
発足から二か月足らずでこの有り様。
後は時間の問題だろう。
「聯帯」は潰れる。プラゴの時のように戦車に轢き潰されるか、そうなる前にパルラント政府が潰しにかかるか。二つに一つだ。
しょせんこの東側の世界は、ソヴェティアの意志ひとつで何もかもが決まる。現ソヴェティア連邦最高指導者のベネフはこう言っているのだ——「共産主義全体の利益のためには各国の主権は制限されうる」。
東側諸国に何か少しでも不穏な兆しがあろうものなら、即座に圧力をかけてくる。これがソヴェティアのやり方。そんなことは、世界が西と東に分かれて以降、何度も実証されてきたことだ。
「聯帯」がパルラントを担うことはない。
なれば、レナに彼らを支持する理由は無い。彼らについても、レナの目的は達成されない。
それに、仮に「聯帯」が凄まじい力を発揮してソヴェティアを退けるようなことがあったら、……まあ、それはそれで都合がいい。身の振り方はそうなった後にでも考えればいいだろう。
だからレナは今日も保安局で働く。
午前中の訓練が終わって、午後は刑務所での勤務だ。一等保安士から三等保安曹に昇格していたレナは、入隊初日の功績からその残虐性を評価され、主に女囚の拷問官を担っていた。
医者と協力して、政治犯たちに「再教育」を施す。
特殊な薬を用いて被験者に苦痛を味わわせ、あるいは思考力を奪い、しかるのちに共産主義を信望することを強要する。
薬の効果は、先の戦争で敵国だったジェルマ帝国による人体実験で、実証されている。彼らが実験を行った強制収容所は多くが占領先であるこのパルラントにあったので、技術は密かに受け継がれていたのだ。
ジェルマによる代表的な収容所であるアウスヴィコは、ちょうど昨年、世界遺産とやらに登録されたわけだけれど……そこでの過去の悲劇を訴える国が、その技術をもって現在進行形で人を傷つけている。
レナは自嘲的に笑った。
分かっている。これは非人道的な所業だ。罪業だ。
人権を擁護すべしという、西側との協定の内容にも違反する。
分かっていても、やる以外の選択肢などない。これは仕事だから。拒めば未来はないから。
白いドアをガチャリと開ける。
「始めるぞ、囚人番号一九一九」
中に囚われていた中年の女性がビクッと飛び上がった。
「ああ、もうやめてください。あれは、もうやめて。おねがいよ」
レナは、そう懇願する女性にコツコツと歩み寄った。胸ぐらを左手で掴み、乱暴に持ち上げる。
「では貴様は、パルラント共産党およびソヴェティア連邦こそが至高であり絶対の統治機関であることを認め、同志として忠誠を捧げるか?」
「はい、そうします、そうしますから!」
「嘘だな」
右手に持っていた注射器で、素早く薬を打ち込んだ。
女性の顔が恐怖と絶望に歪んだ。
「あああああ!」
レナは女性を床に投げ捨てた。
女性が苦悶のあまり絶叫し始めるのを、椅子に座って無表情で眺める。
何も思わない。もう慣れた。
時折、経過を記録用紙に書き留めながら、待つ。
薬の効果が切れ始めたら、またお決まりの「教育」を始めよう。
外では刹那の自由が花開き始めていても、この特別刑務所という箱の中は何一つ変わっていない。何故なら「聯帯」は目先のことを変える力しか持たないから。
何も変わらない。何も変えられない。変えようとするのは愚かだ。だから、変えられない中でも、最善の努力をしよう。無駄に足掻くことはせず、今できる最大限をやろう。
レナにとって保安局に身を置くことは、これ以上無いほどの最適解なのだ。
たとえ、他の誰かが犠牲になったとしても。
変わらぬ日々を過ごした。
朝起きて、仕事をして、教会へ行って、夜眠る。
それをひたすら繰り返した。
そのうちに、父が死んでから二度目の聖誕祭が近づいてきた。
レナは文具店で絵はがきのコーナーを見ていた。
色とりどりの聖誕祭祝いのはがきが陳列されている。
(去年は聖誕祭をマヤと一緒に祝った)
マヤはどこか緊張した様子だった。秘密がバレやしないかとビクビクしていたのだろう。
(それに比べて、今年は一人か。……それでいい。あの子も私に腹を立てているし)
レナ自身、マヤにどうやって接するべきなのか、分からなかった。頼むから余計なことはしないで欲しいと思うあまり突き放した態度を取ったが、これでも一応、家族だ。家族である以上、何かしてあげるべきなのだろうか。
──してあげなよ。可哀想じゃないか。
故人の言葉を思い出す。
レナは、綺麗に並んだ鮮やかなはがきの中から、一番地味な柄のものを選んで、買って帰った。
万年筆を手に取る。
「マヤへ
聖誕祭おめでとう
体に気を付けるように
レナより」
書いて、眺めた。
一息ついて、真ん中からびりっと破いた。
(私が、今更人間らしい真似をしようなんて)
破いた破片同士を重ね合わせて、また破る。破って、破って、破った。
(あの子は私を恨んでいるもの。こんなものもらったって仕方がない)
粉々にしたはがきを、ゴミ箱に捨てた。
(寂しがる資格などないと思っていたけれど)
こんな日は少し、心が寒い。
『レナぁ』
カミルが悲しそうにゴミ箱を覗いていた。
『あの子はそんなものもらっても喜ばない』
『うん、そうだけど』
『だったら、送りつけるなんて私の自己満足でしかない』
『でも……でも……』
『おいで、カミル。歌ってあげる』
カミルは大きな潤んだ瞳をこちらに向けた。とてとてと小さな足で歩み寄り、レナの膝に乗っかった。
小さな手を、マヤの手の甲に乗せる。慈しむように。愛おしむように。
レナは微笑んで、流行りの歌を口ずさんだ。
星の瞬く真夜中に
君を思って僕は泣く
夢を見たんだ 幸せな夢を
君に出会った日の夢を
Здравствуйте(こんにちは/ソヴェティア語)
はじめまして
星が煌めくあの夜に
僕は君に出会ったんだ
月の昇った真夜中に
君を思って僕は泣く
夢を見たんだ 悲しい夢を
さよならをした日の夢を
До свидания(さようなら/ソヴェティア語)
ありがとう
次の輝くあの夜に
僕は君を失ったんだ
『聖誕祭の夜には、あの子の所に行ってちょうだい、カミル』
歌い終わったレナは、口を閉じて、言った。
『いいのか?』
『……私には一人ぼっちの聖誕祭がお似合いなのよ』
レナは自分の手を見た。
『人殺しの私には』
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