第14話 逮捕
「あれ? ここにあった書類が無くなってる」
マヤは部室の棚の引き出しを覗き込んで言った。
物的証拠をなるべく残さないという方針は以前から変わってはいないが、活動規模の拡大に伴いどうしても紙の書類が必要な時があった。
この棚にあったのは、以前撒いたビラの原本だった。マヤがタイピングしておいたのを、また必要になった時に備えて保管しておいたのだ。今から捨てようと思って鍵を開けて見てみたのに、引き出しの中身は空っぽだった。
ユリアンとオリヴィアが「え?」と振り向いた。
「誰かが捨ててくれたのかなぁ?」
「勝手に鍵を開けるメンバーがいるとは思えないけど……」
「人数も増えたし、管理が甘くなっているのかも。後でみんなに尋ねましょう。ひとまずここには新しいのを入れておくわね」
引き出しには、オリヴィアの打ち込んだ原稿が収められた。
「私の原稿、盗まれたんでないといいけれど……」
不安がるマヤの手をユリアンが握った。
「おおかた、良かれと思って捨てちゃったんだよ。証拠隠滅のために」
だが、事態はそれだけにとどまらなかった。オリヴィアの原稿も、間もなくして忽然と消えたのだ。
まだ使う予定だったそれが無くなるのは、明らかに不自然だ。
翌日、マヤは不吉な予感を抱えて部室へと急いだ。部屋には既に二十人余りが集って、雑談や討論をしていた。
「おはよう、マヤ。 ……あれ? 今日はユリアンは一緒じゃないの?」
オリヴィアが尋ね、マヤは頷いた。
「『学術研究会』の人に会いに行っているよ。それで、みんなは何て?」
オリヴィアはお手上げだという風に手を上げて首を振った。
「それが、誰も持ち出したところを見ていないというの」
「ということは、どっちも盗まれたのかな」
「そもそも、原本があるかどうかは、毎日私がちゃんと確認していたわ。夜の間に誰かが侵入したとしか思えない」
「……そんな」
「まずいわ……あれをこの部室で保管していたことが知れたら、さすがにもう言い逃れできないわよ」
当局から「スズランの会」に容疑がかかるのは、時間の問題だと思われた。特にマヤとオリヴィアは危ない。配る際に手袋をしていたビラとは違って、原本は素手で触っている。
オリヴィアは肩を落とした。
「念のため、一週間ほど活動を休止するしかないわね。ここへ来るのを禁止にして、しばらく様子を見るの。その間、幹部は別の場所で集まって、対策を練りましょう」
「そうだね。万が一何かあってからじゃ、遅いもんね」
「大丈夫だといいけれど」
「でも、これまでだって、証拠をでっちあげて私たちを捕まえようと思えば、いくらでもできたわけだし。きっと大丈夫……」
言いながらマヤは扉付近の床に目をやった。
橙の帽子のドモヴォーイが現れていて、いつになくピョンピョコ飛び跳ねているのだ。
(どうしたんだろう、このドモヴォーイ。何かを伝えたがっている)
ドモヴォーイは、ぐるぐる回って、跳ねて、短い腕を必死に振っている。
まるでマヤを招いているような動き。
それから正面を向いて、口をぱくぱくさせた。
つ、い、て、こ、い。
確かにそういう口の動きをした。
ドモヴォーイはもう一度、手招きをすると、幽霊か何かのように扉をすり抜けて行ってしまった。
マヤは立ち上がった。
「ちょっと私、お手洗いに行ってくるね」
そう言い置いて、部室を出る。
ドモヴォーイが待っていた。彼はマヤが来たのを確認すると、パッと消え失せて、三メートルくらい離れた位置にまた現れた。マヤがそこまで走って行くと、またパッと消えて別の場所へ現れる。
マヤは、白壁の大学の建造物の間を走り抜け、大学構内の大通りに出て、新緑の並木の道へ出ようとしていた。
(どこまで行くの)
現れては消えるドモヴォーイの姿をきょろきょろと目で追いながら走る。すれ違う学生たちが驚いたように振り向く。
ところが、もう間も無く校門に辿り着いてしまうという辺りで、マヤは急に足を止めた。
(あれって……!)
黒い服の集団が、校門から続々と構内に入ってきている。他の学生たちも動きを止めて、こそこそと囁き合った。
「保安局だ……!」
「保安局が取り締まりに来た」
「教授か!?」
「いや、『スズランの会』だろ」
凍りついたように見守るマヤと学生たちの前を、彼らは非常に速い歩調で過ぎ去ってゆく。
「まさか……もう来るなんて」
呟いたマヤは、その集団の中に、軍隊のようなジャケットを着てヘルメットを被った人々が混じっているのを見て、総毛立った。
(民警機動隊……!!)
大変だ。保安局員だけならまだましだった。民警機動隊まで投入されるなんて……奴らは特に残忍で暴力的であることで悪名高い。
ただの学生団体相手に、ここまでするとは思わなかった。まるで、噂に聞いていた、かつての大学改革運動の時のようだ。あの時ほどの騒ぎになる前に、先手を打って叩き潰しておこうという魂胆だろうか。
何ということだろう。想像以上に政府は本気だ。マヤたちはまだ何一つ、暴動も、ストライキも、デモすらも、起こしていないというのに。
もう、ドモヴォーイになど構ってはいられなかった。
マヤは元来た道を全速力で戻り始めた。
ところが、いくら走っても、前をゆく保安局員らに追いつけない。ようやくサークル棟まで駆けつけた時には、検挙はもう始まっていた。
集まり始めた野次馬を掻き分けて、マヤは建物の陰から顔を覗かせた。
「スズランの会」部室周辺は、物々しい雰囲気に包まれていた。中にいた二十名ほどの学生たちが、次々と拘束されていく。
(みんな……)
やがて、ブロンドの女子学生が連れ出されてきた。オリヴィアだ。彼女が僅かに嫌がる素振りを見せると、機動隊の男が容赦なく棍棒で殴った。
(……駄目!)
マヤは思わず飛び出そうとした。だが、右足がやけに重い。
見ると、マヤの脚に、ドモヴォーイがしがみついていた。
「え!?」
幻の妖精に質量や筋力があるとは思わなかった。
蹴っ飛ばしてやろうかと考えたが、ドモヴォーイは全身全霊を込めてマヤに抱き着き、灰色の髪を振り乱していやいやをしてみせた。
「……でも」
マヤが躊躇している間に、倒れ込んだオリヴィアを機動隊員が引きずっていった。他の仲間たちも続々と拘束されていく。
「そんな……!!」
野次馬の数はどんどんと増えてきていた。その中には、マヤの顔見知りもいた。
「ちょっと、マヤ! 隠れて!!」
たちまちマヤは、心ある学生たちの人垣の中に引きずり込まれて、匿われた。壁にぴったりと押し付けられて、その周りを学生たちが囲む。
「ちょっ、見えない!」
「いいから大人しくしていて!!」
こうして、マヤが何もできないまま、幹部含む「スズランの会」会員のうち半数近くが、連れ去られてしまったのだった。
部室が空っぽになってからも、保安局員は周囲を張っていた。野次馬たちは追い払われ、マヤも退散せざるを得なかった。
寮に戻ってから、マヤは呆然としてベッドに座り込んだ。ルームメイトが何事かと尋ねてくる。
「サークル棟の方が騒がしかったけど、まさかあんたたち……」
マヤは黙って頷いて、それからよろよろと立ち上がった。
「他の仲間たちの無事を確認して、知らせておかないと」
「……気をつけるのよ」
「うん、ありがとう」
先程部室にいなかったメンバーが誰だったかを数え上げながら、マヤは部屋を出た。
まずはユリアンを探し出して、今後のことを二人で相談しないと。
「スズランの会」の中核メンバーが誰なのか、まず間違いなく割り出されるだろう。新規加入したメンバーたちをはじめとして奴らの手から零れ落ちるであろう人々も少なからずいるだろうが、マヤやユリアンといった幹部は危うい。捕まるまでに少しでも何か対策をしないと。
男子寮に向かうと、ちょうど戻ってきたらしいユリアンと鉢合わせした。
ユリアンは既にサークル棟を見てきたところらしく、顔色が真っ青だった。
「マヤ……! 無事だったんだね」
ユリアンはマヤを抱きすくめた。
「うん、でも、オリヴィアたちが……」
マヤは言って、ぽろっと一粒涙を零した。
「わああん。みんな連れて行かれちゃった」
「うん……」
「わ、私が……私たちが、しっかりしなきゃ」
マヤはユリアンから離れて、ぐいっと目元を拭った。
「ユリアン、相談に乗って。これからどうするか話し合おう」
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