第13話 任務


 三月一日、レナは保安局に新規入隊した。

 厳めしい制服に身を包むと、心が引き締まる思いがした。

 この黒い衣装は、国民からの畏怖と憎悪の対象なのだ。


 入隊初日からレナは息が詰まる思いがしていた。入隊式が滞りなく行われていた時も、外回りで先輩局員の運転する車に乗せてもらっている時も、必要以上に緊張して、体が強張っていた。

 初めての勤務であるということに加えて、夕方には遂に人を殺すのだという実感が、レナの神経をすり減らしていたのだ。


 ところが、レナが先輩と二人で保安局員専用店に入って昼食を摂っていた時、少し困ったことが起きた。


 パスタと水の乗ったテーブルの上に、緑色の帽子の小さな姿がどこからともなくポコンと現れた。

 カミルだ。

 レナは変わらず食事を続けながら、この優秀なドモヴォーイを睨みつけた。


『家に憑く妖精のくせに、こんなところに出てこないでよ。予言なら一人の時に聞くわ』

『緊急事態なんだよ。早いとこ呼んでくれよな』


 レナは気もそぞろになった。そそくさとパスタを食べ終えて、お手洗いに立つ。

 ようやく一人になれたレナは、腕を掲げてその上にカミルを乗っけると、険しい顔で尋ねた。


『何事』

『マヤが保安局に捕まるかもしれねえんだ』


 レナは硬直した。


『……捕まるって何で。いつ。どこで。誰の密告で。何を証拠に』

『まだ決まったわけじゃねえよ。ただ来月中に証拠が保安局の手に渡るぜ。紙の文書から指紋が検出される』


 遂に、証拠が。

 レナの心臓がきゅっと痛くなった。

 急がなければ。


『カミル、あなたには、その文書の在り処が分かる?』

『いいや?』

『できれば誰かの手に渡る前に先に見つけておいて』

『あい分かった。……ま、後はおいらがうまくやるさ。レナはレナで準備をしておけよ』

『了解』


 カミルがパッと消え失せた。レナはハアーッと長い溜息をついた。

 席に戻ると、先輩局員は怪訝な表情をした。


「顔色が悪いぞ。体調を崩したか?」

「いえ、問題ありません」

「まあ、そう気張らずに気楽にやれよ。……と言っても、難しいか」


 見回りの仕事が終わったら、レナはこの局員に、車で本部に帰るついでに刑務所まで送り届けてもらう予定になっていた。


「特別任務だそうだな」

「はい。光栄の至りです」

「何をやらされるのか知らんが、無理をするなよ」

「お気遣い感謝します」


 その後大した事件も無く巡回を終えたレナは、先輩と別れて、保安局が直接管理を任されている特別な刑務所の前に立っていた。ここには、政治犯がわんさと放り込まれているということだった。

 入り口では上官たちが待ち構えていた。

 胸につけているバッジの種類から、彼らがかなり高位の局員であることが分かった。

 その中から、あの時の教官が進み出てきた。


「レナ・ステンシルくん。よく来たね」

「お久しぶりです、教官」

「これは特別な措置だ。しくじらないようにな」


 レナが敬礼で答えると、「行きなさい」とにこやかに言われる。何重にも鍵がかけられた扉から、刑務所の中へと通された。


 レナと教官の他に三人の局員が、地下へと降りた。薄暗い廊下を行く。リノリウムの床に、革靴の音だけが響く。

 やがて一人の上官が口を開いた。


「奴に関する情報を共有しておく」

「……お願いします」

「昨日の時点で尋問は全て終了した。アルカディウス・バラノフスキ、本名をオーウェン・ブラッドマン、アメリーコ人諜報員だ。結論から言うと、情報源としては奴は使い物にならなかった。西側の連中は奴にあえて重要な情報を持たせなかったようだ。しかし何か知っている可能性もあったため、自白剤の被験体にしてみた」

「自白剤……」

「ソヴェティアから入手した試作品だ。少量の注射で驚くべき効果を発揮した。注射後の奴の証言はほとんど全て整合性のとれるものだった。我々は聞き出せるだけのことを聞き出し、しかるのちに、適正量の五倍の分量を注射した」

「……」

「しばらくすると奴の体に変化が現れた。虚脱、神経症、譫妄せんもうなどの作用が見られた。発言も曖昧になり、虚言や妄言も増加した。今も、奴は少々見慣れぬ様子をしている。覚悟をしておけ」

「はっ」


 レナたちは何も書かれていない白い扉の前で立ち止まった。誰も何も言わなかったが、そこが処刑場の一つであることがレナには分かった。レナは拳を握りしめた。


 独特のリズムでのノック、中からの応答、そして扉が開けられる。


 禍々しいほどに冷然とした空気を湛えた、灰色の部屋。


 中にいたのは、見るも無惨に変わり果てた、かつてのアルカディウスだった。

 囚人用の服を着せられ、頬はこけ、金色の髪はぼさぼさに乱れている。以前の快活な性格は鳴りをひそめ、悄然と力無く座っている。レナたちが入ってきても、何の反応も示さない。


「処刑人が到着した。これより囚人番号一七七六、アルカディウス・バラノフスキ改めオーウェン・ブラッドマンの処刑を執り行う。何か言い残すことは無いか」

「……んあ」


 アルカディウスはゆっくりと頭をもたげた。虚ろな薄青の瞳がレナを捉える。途端にその目に光が宿った。


「あ、レナだ」


 はっきりとした声だった。

 レナはぎょっとした。

 先程の憔悴した様はどこへやら、アルカディウスは明朗な表情で喋り出した。


「久しぶりだねえ、レナ。折角の感動の再会だっていうのに、こんな無様な姿ですまないね」

「……」

「もしかして、君が俺の処刑人かい? 保安局も残酷なことをするなあ。まあ君に殺されるなら、俺にとっては悪くない死に方かな」


 やめろ、と思った。

 いっそ廃人にでもなっていてくれれば良かった。

 こんな、普通に、生きて、喋って、自分の名を呼ぶ人間を。

 ──今からただの肉塊にする。


 レナは黙っていたが、アルカディウスは構わずに喋り続ける。


「ごめんよ、君に近づいたのは最初は任務のためだったんだ。でもすぐに君が他の人とは違うと気づいたよ。家族も恋人も無かった俺に、君は光をくれた。礼を言うよ。ありがとう」

「……」


 これは、ただの任務だ。耳を貸すな。余計な感情を持つことは許されない。淡々とやるだけ。

 

「……それが、最期の言葉か」


 乾き切った口で問う。


「うん。あ、でも、もう一つだけ」

「何だ」

「君に会えて良かった、レナ」

「……」


 レナはホルスターからピストルを引き抜いた。

 コツコツと歩み寄って、銃口をアルカディウスの後頭部に当てる。

 手が震えた。

 後ろ手を拘束され、床にひざまずいたままのこの男は、今、どんな顔をしているのだろうか。

 ──いや、何も考えるな。

 レナはいつものように深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。

 冷えていく。

 指先が、全身が、心が、冷え切ってゆく。

 今の私は、死人よりなお冷たい。

 ぐぐっと、銃口を更に強く押し付けた。

 ──さよなら。


 ダァン、と一発。


 アルカディウスの体は衝撃で勢いよく前へ倒れ込み、床に激突した。

 頭部から赤黒い血がじわじわと染み出してくる。灰色の床に血溜まりができてゆく。


 レナは静かにその様子を見つめていた。

 吐き気がした。

 頭がくらくらして、座り込みそうになるのを、ぐっとこらえた。


「よくやった、レナ・ステンシル」

 上官の声がどこか遠くから聞こえてくるようだった。

「恐れ入ります」

 レナは感覚の無い手でピストルを収めて、横たわる死体のもとを離れた。


 後始末は、民警機動隊の特別班がやることになっていた。レナたち保安局員らは、アルカディウスの死亡確認を済ませると、処刑場を後にした。


 翌日、休暇を取ることを許されたレナのもとに、封書が届いた。

 その中には、「一等保安士に任ずる」との辞令と、金色のバッジが入っていた。

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