第9話 聖誕祭
父を密告した姉のレナが、聖誕祭前夜にマヤに会いたいと寮に電話を入れてきた。電話越しの彼女の声は無機質で、声音もガラリと変わっていて、ああ姉は遠くの人になったんだなと再認識させられた。
マヤは前夜祭のために寮の空き部屋を一室予約した。台所を使う許可も得た。
姉は当日の午前中に、マコヴィエツ(ケシの実入りのケーキの一種)と、高そうなワインを持ってやって来た。
「ワインはこれ、遅くなってしまったけど贈り物。今日と明日はアルコールを飲んではいけない風習だから、開けるのは明後日以降にしてちょうだいね」
「あ、うん」
「食材は買っておいてくれたのね。ありがとう。晩御飯は一緒に作りましょう」
「ええと、はい」
「バルシチ(ビーツのスープ)とピエロギ(練った小麦粉で具を包んだもの)は私が作るから、あなたはコイのゼリー寄せとニシンをお願い」
「分かった」
てきぱきと無言で手を動かすレナを、マヤは懐かしいような新鮮なような複雑な気持ちで見ていた。
二人は言葉少なに調理を続けた。みるみるうちに料理は出来上がり、外は暗くなってきた。一番星が出た頃に、テーブルの上の蝋燭に火を灯して、二人きりの晩餐が始まる。
小さめのコイが丸ごと入ったゼリー寄せに、ニシンのクリーム漬け、そしてキノコのピエロギが浮かんだ真っ赤なバルシチ。
「……いただきましょう」
「うん……」
レナは黙ってコイを食べた。
マヤも黙ってピエロギを食べた。
気まずかった。
マヤは寮には不審なものは持ち込んでいないが、いつレナにマヤの嘘がバレるかと、そのことばかり気にして、ニシンの味など分からなかった。
気づくと、レナが食べる手を休めてこちらをじっと見ていたので、マヤは飛び上がらんばかりに驚いた。
「な、なに?」
「そんなにビクビクしなくても、別に何もしないわよ、私」
「え?」
これは何かの罠だろうか。油断させて何か喋らせようという魂胆だろうか。やはりレナは聖誕祭に家族に会うのを口実に、マヤのことを直接探りに来ていた?
「あ、あはは、そうだよね」
マヤは明るく笑ってみせた。学内保安委員の前ではあんなによく回った舌が、今は思う通りに動かせない。
再び沈黙が降りた。
二人は黙々と魚を食べ進めてゆく。
マヤは、あることに気付いた。
「レナ、コイの肉の部分をもっと食べていいのに」
レナは少し驚いたような顔をしてから、顔を伏せた。
「……別にいいの」
「どうして? 学校、大変なんでしょ。体力をつけなきゃ」
「……ゼリーの部分が好きなだけ。それに私は最近はいいものを食べているから……」
「ふーん?」
それはそうでしょうとも、とマヤは胸の内で言った。
保安局員の卵ともなれば、毎日いい食材が手に入るに決まっている。共産党員や政府側の人間だけが入れる専門店はあちこちにあって、そこには質の良い品物が溢れるほど陳列されているのだ。長いこと行列に並んだ挙句に品切れになって何も手に入らないような、一般向けの店とはわけが違う。表向きには専用店など存在しないことになっているが、パルラントの人間なら誰もが知っていることだ。
何だか腹が立ってきた。
レナのその特権は、父さんを犠牲にして得たものだ。父さんはあれきりどこへ行ったのかも分からないというのに、レナはのうのうと特権を享受している。不謹慎極まりないことだ。
「レナはどうして保安局員になりたいの」
マヤは尋ねた。非難がましい口調を抑えきれなかった。
「……国家の安全を守るため」
レナの声は固かった。
「そうなの? そんなこと今まで一度も口にしなかったのに。確かにお役人になりたいとは言っていたけれど……。お金が入るからって」
「……」
「そうか。保安局員ならもっとお金が入るもんね。詳しくは知らないけど、色んな特権も手に入るだろうし」
レナは暗い笑みを浮かべた。
「そう思ってくれても構わないわ」
マヤはその笑顔に底知れない何かを見た気がして、背筋がぞわっとした。
「そ……そういう言い方をするってことは、他にも目的があるんだ」
「どうかしらね」
レナは上品に赤いスープをすくった。はっきりしない態度に、マヤのいらいらは募った。
「何が目的なの? 人に言えないようなことなの?」
追及したが、レナが答えてくれることはとうとうなかった。
マヤは諦めて、コイの肉をもりもり食べることにした。
食事が終わり、二人はデザートにマコヴィエツを一切れずつ食べた。
とても甘かった。
砂糖は配給制だから、あまり多くは手に入らないのに。やはりこのケーキも、養成学校生の特権で手に入れたものなのだろうか。だとしたら、美味しいと思ってしまったことが悔しかった。
やがて時計の針が周り、日付が変わる。
「聖誕祭おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「教会にいきましょうか、マヤ」
「はい」
「お祈りをしたら、私はそのまま歩いて帰るから」
「分かった」
雪が降り始めていた。
去年の聖誕祭の日も、雪が降っていた。日付が変わると同時に、家族三人で教会に行った。傍らには父さんが居たし、レナも今のようではなかった。
去年までの何気ない日常が、尊いものだったのだと、否応なく気付かされる。
教会には多くの人が訪れていた。修道士たちがミサをとりおこなっていて、聖歌隊が讃美歌を歌っていた。
一九七九年前のこの日に、遥か遠くの地で救世主が誕生したことを、静かに祝福する夜。
マヤとレナは長椅子に腰掛けて、その様子を見ていた。レナは指を組んで、いつになく熱心に祈りを捧げていた。
まるで何かを
(変なレナ)
マヤはその様子を横目で窺いながら思った。
マヤたちが聖夜に教会に行くのは、いわば一種の行事であって、必ずしもそこに敬虔な信徒としての姿勢があるわけではなかった。
ところが今のレナは、本心から神との対話を試みているようであった。
神に願い事がある時は、単に己の要求を述べればよいというものではない。神の言葉に耳を傾けるところから全ては始まる。その後に願い事を奏上して、その成就によって神の偉大さが示されますようにと、神を讃えつつ祈るのである。願い事は主体ではなく、神との対話こそが主軸である。
(保安局員になりたい本当の目的のために祈っているのだろうか)
マヤは訝しんだ。
(そのためにまずは敬虔な信徒になろうとしている? それとも、罪の告白でもして、死後の救済を望んでいるのだろうか)
何にせよ都合の良い話だった。さんざん罰当たりな真似をしておきながら、神に救われようとしているなんて。
神は全てを知っておいでだという。レナのしでかしたことも、心のうちも、全てお見通し。であれば、真に救われるべきはレナではなく、虐げられた人々なのだと、神はご存知のはずなのだ。
神の奇跡がレナを救うことはないだろう。
最後に救われるべきは、名もなき弱い人々であるべきだ。
マヤの気が変わった。今日ばかりは神をきちんと敬い、神の御子の御名において、弱き人々への御加護を祈ろう。パルラント政府やソヴェティア連邦のせいで苦汁を嘗めている人々のために祈ろう。
マヤは目を閉じて、讃美歌に耳を澄ました。
やがて、聖歌隊の歌に合わせて「アーメン」と呟いたレナは、立ち上がった。
「そろそろ帰るわ」
「あ、うん」
「マヤはまだここにいる?」
「いや、私も戻ろうかな」
「夜道には気をつけるのよ」
「……大丈夫だよ。他にも人いっぱいいるし」
「そう。……それじゃあ」
教会を出て、マヤとレナは正反対の方向に歩き出した。
雪は、ほんのりと積もり始めていた。
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