第8話 夜景
教会を出たレナは、思わぬ顔と遭遇した。
「やあ、レナ」
「なっ……!? バラノフスキ?」
「アルカディウスって呼んでくれよ。愛称のアレクでもいいよ」
彼は、初めて会った時のようににこやかに笑いながら言った。レナは後ずさった。
「何故ここにいる」
「君が遅い時間に出かけていくものだから、気になってついてきてみたんだよ。それがまさか、こんなに長いこと教会に入り浸るとは」
レナの方こそまさかと言いたい。この男はレナのあとをつけたばかりか、教会から出てくるまでずっと待っていたというのか。さすが、情報クラスに選ばれるだけあって、変態性がある。
「君、毎日教会に来ているよね。安らかに天国に行けるようにお祈りかい?」
「いや」
レナは目を逸らした。
「ただの日課だ。パルラント人民共和国および同志たる他の共産国の安泰をこの手で守るという、決意表明のようなもの」
「ふむ、素晴らしい信仰心と忠誠心だ。俺も見習いたいね」
「……勝手にしろ」
「でも、神は他の国を見守ってくださるかな? 共産圏で宗教が認められている国はパルラントだけだろう」
「……。パルラントの繁栄は、共産圏の繁栄なくしてありえない。神がパルラントを見守ってくださるということは、共産圏を見守ってくださるということと同義だ」
「そりゃそうだ」
アルカディウス・バラノフスキは、夜空を見上げた。今日は星があまり見えない。星々が最もはっきり煌めいて見えるのは、電力不足による停電が起きた時だ。
「一杯行かないかい?」
突然そう言われて、レナは面食らった。
「は?」
「『文化科学塔』には、党員と保安部員の専用の店があるんだ。他と違って、品揃えも質も良い。酒がまずくないというのは画期的だよ! 展望台で夜景を見ながら飲むのも、悪くないだろう?」
「……訓練生でも、ああいう店に入れるのか」
「何だい、知らなかったのか! もったいないことをしたなあ。じゃあ、今日が、最初の日ってわけだ」
自然な動作でレナを誘おうとするアルカディウスの手から逃れるように、レナはもう一歩下がった。
「折角だが、結構だ」
「おや、どうして?」
──私は悪い人間だから。
胸中によぎった言葉を、レナは振り払った。
「保安局員を志す者が、享楽にうつつを抜かしている場合か。私は帰って勉強する」
「つれないなあ」
そう言って諦めるかと思ったアルカディウスは、しかし、ニヤッと口角を上げた。
「必要な休息も取ろうとしないなんて、さては君は、帰ってから一人で反社会主義の企みをするのに忙しいのかな?」
レナはビクッとした。
「……それは、ずるいぞ」
「ずるい手を使ってでも君とこの夜を楽しみたいのさ。もちろん奢ってあげるよ」
「だから、楽しむつもりなどない」
「いいからいいから。ちゃんとした酒の味を知っておかないと、保安局員になった時に周りから浮いてしまうよ」
「どうでもいい——わっ!?」
レナは声を上げた。アルカディウスが突然レナの腕を掴んだのだ。
「こっち、こっち。それにしても、こんなにやすやすと捕まってしまうなんて、君は訓練が足りていないんじゃないかい?」
「やめろ。黙れ。離せ」
「諦めなって」
「諦めるのはお前の方だ!」
「まあまあ、今回は俺の顔を立てると思ってさ。そんなに嫌がられると、さすがの俺でも悪いことしてる気持ちになっちゃうよ」
嫌がられたくないなら離せばいいじゃないか——と言いかけて、レナは言葉を飲み込んだ。アルカディウスが、存外、寂しそうな顔をしていたからだった。
「分かった。ついていくから、手を離せ」
「本当?」
アルカディウスはパッと顔を輝かせて、レナを解放した。レナはぶすっとしていた。
「……こんな奴より、もっと素敵な娘を誘えばいいじゃないか」
「何言ってるんだい。たった今、素敵な娘さんを誘うのに成功したところだよ」
「寝言は寝て言え。こんなのを誘って何が楽しい」
「とっても楽しいよ」
「どうだか」
二人は、高層ビルの合間を縫って歩き、天を衝いて聳えるタワーへ向かって行った。アルカディウスは終始、レナを歩道側に立たせて、自分は車道側を歩いていた。建物に入る時も入場料を二人分払ってくれたし、展望台に上るときもエレベーターに先に乗せてくれた。
地上二百メートルほどに位置する展望回廊の一角に、その店はあった。
ヴァソヴィオの夜景を見下ろせる場所にテーブルがあって、ウォッカやコニャックやワインを注文できた。
街明かりや車のライトが、豆粒のように小さく見える。
レナは、ハチミツで醸したウォッカを、水割りで注文した。
ほんのり甘い香りのそれは、ただ度数が強いだけの他の酒と違って、口当たりがよく上質だった。
「美味しい……」
「だろう? 気に入ったならお土産に瓶を買っていくといいよ」
「アルカディウスは、ここに何度か来ているのか」
「いや? 君と来たのが初めてだよ」
「……そうか」
「ふふふん」
アルカディウスは鼻歌で「インテルナツィア」を歌い始めた。
レナは少し姿勢を正した。ここは大衆酒場ではないのだということをひしひしと感じていた。
人々にとって酒場とはむしろ、政治への不満をこっそりと口にする場所で、それでも誰が聞いているか分かったものではないから、はっきりとは言わずにアネクドートなどで憂さを晴らすのが常だった。そうして作られた面白いアネクドートは、あっという間に国中に広まるのだ。
だがこの店は「体制側」の店だから、アネクドートが流行るはずもない。アルカディウスのように体制を賛美するのが普通なのかもしれない。
「君は不思議な人だね」
アルカディウスは言った。
「僕は最初、君は、特権を得るために保安局を目指している、不届き者なのかと思った」
「失敬な」
レナは若干焦ったが、顔には出さなかった。代わりに怒ったふりをした。
「私は国家の安全を守るために……」
「うん、そうなんだけどね」
アルカディウスはウォッカのグラスをクルクルと回した。
「君には他とは違う何かを感じるよ」
「くだらん」
レナは窓の外を眺めた。
「私には何もないよ」
「嘘だね。君にはどうしても叶えたい夢があるんだろ。パルラントの繁栄とはまた別に」
「酔っているのか? 私はパルラントのことと自分自身のことにしか興味はない」
「本当に自分のことに興味がある奴は、専用店で遊び歩いているはずさ。でも君はそうしていなかった」
「……必要なかっただけだ」
「通うのは教会ばかりで」
「気晴らしに過ぎない」
「家族に一度も会いに行っていない」
「お前は」
レナはグラスを握りしめた。
「何故、私の生活習慣を把握している? 調査でもしているつもりか? 残念ながら私からは何も出ないぞ」
「寂しくないのかなって思っただけだよ」
アルカディウスはふわりと笑った。
「寂しくなどあるものか」
レナは目を合わせずに言った。
──私に、寂しがる資格など。
「悪い、悪い」
アルカディウスは急に口調を明るくした。
「楽しい夜にこんな話題は相応しくないね。もっと面白い話をしようじゃないか」
「楽しい話?」
「聖誕祭前夜はさすがに家族に会いに行くだろう?」
「その予定はない」
「いやいや、晩餐は家族と一緒に……」
「しない」
「してあげなよ。可哀想じゃないか」
「……」
「君が家族をどう思っていようと、家族は君に会いたがっているよ。きっとね」
「……そんなことは……」
「よし、こうしよう。君は聖誕祭前の夜に家族に会いに行く。そのために今ここで好きな酒を選んで、それをご家族のお土産にするといいよ。おーい、バーテンダー」
「待て、何を勝手に……」
止める間も無く、アルカディウスは店主に、試飲のための酒を持って来させた。
「何で……」
「まあまあ」
アルカディウスはにこにことレナを見つめている。
「言ったろう? 必要な休息は取るべきなんだ」
ヴァソヴィオの夜景は、市庁舎を中心に煌々と光り輝き、それを遠く取り巻く郊外の家々の灯りはこじんまりとしていて心細そうだった。
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