第5話 活動


 大学の新しい学期が始まった。

 マヤは無事に寮に入ることができ、三人の他の女子学生と寝起きを共にすることになっていた。

 姉と暮らすよりは安全だけれど、寮でも油断は禁物だった。しばらくは様子を見て、政治的なことに関してはきっちりと口を噤まなければならない。


 そこでマヤは講義に出ている時以外は、もっぱらスズランの会の部室に入り浸って、議論をしたり課題をやったりして過ごした。


 今日は五人ほどのメンバーが集っていたが、主に話を進めるのはオリヴィアとマヤだった。


「民主化運動において厄介な敵は二つだね」

 マヤは言った。

「まずはパルラント政府。それと、ソヴェティア連邦」

「ベネフの提唱した制限主権論は今も強力な抑止力となっているわね!」

 オリヴィアは地図を広げ、パルラントの南に位置する国々を指さした。

「他国の事件が良い例だわ。一九五三年の『ベルリーノ暴動』の時も、一九五六年の『マージャ動乱』の時も、一九六八年の『プラゴの春』の時も、ソヴェティア軍は介入に乗り出して民主化運動を鎮圧している。それらを意味付けたのが、プラゴの時にベネフの言った言葉──『共産主義全体の利益のためには各国の主権は制限されうる』。この言葉は、ソヴェティアのイデオロギーにそぐわない国に対して、ソヴェティアが軍事介入することを、正当化している!」


  マヤは頷いた。


「マージャもプラゴも、共産主義の体制を覆す方向に行っていたらしいから潰されたんだよね。詳しくは報道されていないから、真実は明らかではないけれど。これらを踏まえて考えると、パルラントで改革をする時は、ソヴェティアを刺激しないように、あくまで共産主義の枠組みの中でやるべきなんだろうね」


「そうね。結局ソヴェティアや共産主義がなければ、パルラントは後ろ盾を失って倒れてしまうもの」

 オリヴィアは肩を竦めて、言葉を続けた。

「もう一つ注目したいのは、『マージャ動乱』の始まりがどうやら学生運動だったらしいことと、『プラゴの春』は政府の側からの改革だったということ。いずれの場合もインテリゲンツィア(知識階級)が改革の原動力になっているわ。何かを変えていくに当たってはプロレタリアート(労働者階級)の力は不可欠だけれど、私たち大学生もその役割をしっかり自覚した方がいいわね!」


「うん……。参考までに、パルラントのインテリゲンツィアの活動を調べていくのはどうかな。ここ数年で色々動いていると噂に聞いているし。非合法の地下出版が沢山出ているはずだから、集めてみれば何か分かるかも……」


 マヤは言葉を切った。部室の隅を凝視する。


 今、部屋の角の影から、間違いなくドモヴォーイが顔を出していた。そのドモヴォーイは、小さな指を立てて、「しーっ」と口に当ててから、サッと闇の中に消えた。


「何? 誰か来た?」

 オリヴィアが不安そうに尋ねる

「……そうかも」


 マヤは考え込んだ。


(……ドモヴォーイ。もしかして幻覚じゃなくて、本当にいるの?)


 そういえば、レナは幼い頃、うちにはドモヴォーイがいるんだと、何度も言っていた。

 マヤが「いないよ」というと、レナは「どうして見えないの!」と怒ったものだ。「私にはカミルが見えるし、お話だってできるのに」

 父は、「ドモヴォーイを見える子と見えない子がいるんだよ」と言った。「母さんもドモヴォーイは見えなかった。他のお友達にも、見えない子は沢山いるだろうね」

「そうなの?」

「そうだ。レナ、ドモヴォーイのことを簡単に人に話してはいけないよ」

「どうして?」

「見えない子が悲しむからさ。マヤのようにね。だから、ドモヴォーイのことは、父さんとの秘密にしておいておくれ──」

 レナは、分かった、と素直に頷いたのだった。


 今思えば、レナは、空想の友人を作って遊んでいたのではと思う。小さい子が架空の友達と遊ぶということは、稀にあるというから。

 でもドモヴォーイは、こうしてマヤの前に現れた……。


 ガンガンガン、と扉を叩く音がして、みんなはビクッと振り返った。


「学内保安委員会である!」


 メンバーたちは顔を見合わせた。


「はーい」


 マヤはドアを開けた。胸にバッジをつけてしゃちほこばった様子の男子学生が、上がり込んできた。


「抜き打ち検査だ! 今何をしていた?」

「スタリオン批判について話していました」

 マヤはにこやかに答えた。

「何っ!? それは反社会主義的な議論ではないのか!?」

「いいえ全く。良かったら聞いていきますか?」

「うむ、話せ」


 マヤは息を吸い込んで、早口でまくしたてた。


「スタリオニズムは行きすぎた独裁政治でしたが、見習うべき点も多く残されています。まず、スタリオニズムにおいては、ソヴェティア連邦以外の国の人々も多くが個人崇拝を強要され、また、粛清の憂き目に遭い銃殺されたそうですね。それゆえかソヴェティア連邦によりスタリオン批判が発表された後は、東側諸国各国においてスタリオニズムに対する抗議活動が激化しました。特筆すべきはその中には反社会主義に該当するような過激な運動も含まれていたということです。東ジェルマ民主共和国における『ベルリーノ暴動』やマージャ共和国における『マージャ動乱』やチェスコスロヴィオ社会主義共和国における『プラゴの春』はもちろんですが、本国においても暴動が起きてしまっています。いずれの事件も各国政府もしくはソヴェティア連邦による軍事力投入という形でようやく鎮圧することができました。このことが示すのは、スタリオニズムは行きすぎると大きな反動を呼んでしまうこと。そして理想的な社会主義国家を実現するためには、検閲や言論統制などといった規制に加えて、軍事力の投入による引き締めは、引き続き必要であることに間違いはないと──」

「も、もういい」


 男子学生はマヤの繰り出す言葉の激流に圧倒されたかのように後退りした。


「……邪魔して悪かった。引き続き勉学に励みたまえ」

「はい、同志! お勤めご苦労様です」


 バタン、と扉が閉じられた。


 しばらくメンバーたちは、ふうっと息を吐き出した。やがてオリヴィアが笑い始めた。


「アッハッハ。あんな状況でよくそんなに頭と口が回るわね、マヤ!」

「えへへ。ありがとう」

「さあ、危険も去ったわけだし、息抜きに楽しい話でもしましょうか! こんなアネクドートがあるのよ」


 またぞろオリヴィアは面白い話を仕入れてきたらしかった。


「『ガレク第一書記は馬鹿だ!』とヴァソヴィオの広場で叫んだ酔っ払いが、国家侮辱罪で逮捕され、懲役十二年を言い渡された。

『国家侮辱罪で十二年はちょいと長いんじゃありませんか?』

 酔っ払いは言った。

『いや、国家侮辱罪の懲役は二年だ』

 保安局員は言った。

『じゃあ、残りの十年は何だっていうんです?』

 酔っぱらいが訊くと、保安局員は声を潜めて答えた。

『……国家機密漏洩罪だ』」


 わははは、とメンバーたちは一斉に笑った。オリヴィアも「アッハッハッハ」と大きな声で笑っている。

 わいわい話しているうちに、マヤはドモヴォーイのことを忘れてしまった。再び思い出したのは寮に帰ってからだった。


(不思議なことがあったものだな)


 マヤはベッドで寝返りを打った。


(まるでドモヴォーイが、あの男子学生が来ることを教えてくれたみたいだった)


 ドモヴォーイはマヤの幻覚ではないのだろうか。あの妖精は本当にこの世界にいて、マヤのことを守っていた……?


(ううん)


 マヤは首を振って枕に顔をうずめた。


(ドモヴォーイが本当にいるなら、父さんのことも守ってくれたはず)


 だから、あんな幻を当てにしてはいけないのだ。……何かの罠かもしれないし、ドモヴォーイは敵かもしれない。油断させてマヤの懐に入り込もうとしているのかも。

 こうなったら、これまで以上に慎重に行動しなければなるまい。

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