第3話 小人


 父親を失踪させてから二日後のこと、レナは保安局庁舎の近くにある寄宿舎に移住していた。

 鉄格子のついた窓。コンクリートの壁。鉄の棒で組まれたベッド。どこかにあるはずの盗聴器。

 ここは管理された部屋。迂闊なことをしないように、更には己が模範生であることを示せるように、気を引き締めねばならない。


 九月から始まる養成学校で半年間きちんと訓練を積んで試験に合格すれば、晴れてレナは保安局の一員になれる。

 こんなにぎりぎりになってここに入る者は珍しいと、寮母に言われた。しかも女の子は少ないのだと。それはそうだろう。こんなことになるだなんて、レナは自分でも驚いている。


 実の父親を密告した功績と、大学の教育学部での成績などを見込まれて、レナは保安局からスカウトを受けた。元々は役所で働こうと思っていたレナだったが、こんな千載一遇の好機を逃すわけにはいかなかった。

 父親を犠牲にしてまで手に入れた、予想外に大きな見返り。滅多に得られない地位だ。とことん活用させてもらいたい。


 大事なのは、気を抜かないこと、誰も信じないこと、忠誠心を示すこと。共産主義を崇拝し、体制維持のために身を捧げる覚悟を持つこと。……少々残酷な仕打ちであっても、躊躇なく行うこと。これからは拷問や殺しも視野に入ってくるだろう。大手を振って暴力を行使する民警機動隊と違って、秘密警察の仕事内容はその名の通り公には知られていないが、おおかた、こっそり人を抹殺しているに違いないのだ。


(……殺し)


 正直、怖い。悍ましい。だが、うまくやれば、この窮屈な社会において信じられないほどの恩恵を手に入れられる。もちろん失敗したらただでは済まないが。


 レナはベッドに腰掛けて、心の中で語りかけた。


『出ておいで、カミル』


 やがて部屋の隅から、灰色の長髪に橙の帽子を被った小さな頭が、ヒョッコリと現れた。


『はーい、レナ』


 ステンシル家に憑くドモヴォーイ。名をカミルという。レナが彼の姿を見たり、彼の声を聞いたり、彼に無言で意思を伝えたりできるという事実は、周囲には秘密だった。どうやら先祖代々の遺伝らしきこの能力は、マヤには備わっていない。他所の家の誰かに備わっているという話も聞いたことがないし、他所のドモヴォーイの姿を見たこともない。


 カミルはフムフムと部屋中を見渡した。ピョンピョコ床を飛び回ったかと思うと、やおら口を開けた。


『ここが新しい家? つまらない場所だなあ』


 あけすけな第一声に、レナは顔をしかめた。


『文句を言わないで。それよりも、何か予言はある?』


 ドモヴォーイは己が家族に関する吉事や凶事を予言することがある。ただそれだけの無力な存在だ。伝説では、一家が危機に見舞われると恐ろしい力を発揮して敵を討つだとか、ドモヴォーイを蔑ろにすると一家を不幸が襲うだとか、色々言われているものの、実際のところはちょっぴり未来を教えてくれる程度だ。少なくともステンシル家のドモヴォーイはそうだ。

 だがそれでも、レナはカミルに大いに助けられていた。父親が失踪する羽目になったのも、元はと言えばこのドモヴォーイの予言のおかげなのだった。


『うん。予言があるよ』

 カミルは自慢げに胸を張った。

『おいら、エリックのところに行ってみたんだ』

『……! 父さんのところに』


 詳しい方法は不明だが、ドモヴォーイは家族のもとであればどこにでも顔を出せるらしかった。ステンシル家の人間は戦争やら病気やらでみんな死んでしまったから、生きているのは長女のレナと、妹のマヤと、父親のエリックだけだ。


『どんな様子だったの、父さんは』

『今日から強制労働が始まるよ。何かの土木作業をやらされるらしい。環境はかなり劣悪だったよ。近いうちに病気にかかって死ぬだろうね』

『……そう。父さんが死ぬ未来は確定しているの?』

『確定。……おいらは残念だよ、こんなことになって』


 レナは何も言わずに、外を見た。

 ここは建物の四階で、窓からは昼下がりの街角が見下ろせる。街路樹の梢や、行き交う車の屋根が見えた。


『それと、もう一つ報告』

『何?』

『マヤが、おいらの姿を視認できたよ』

『……は?』


 レナは一瞬、身を強張らせた。


『あなた、余計なことを言っていないでしょうね?』


 マヤには知られたくないことが山ほどある。特に、レナが父親を売った経緯を知ろうものなら……お優しいあの子のことだから、きっと怒り狂うに違いなかった。

 だがカミルは『落ち着けって』と言った。


『何も言ってないよ。マヤにはおいらの声が聞こえないみたいだ』

『……そうなのね』

『そうなんだよ』

『カミル』

『はいはい?』

『これからは、特に気をつけてマヤの様子を探ってちょうだい』

『お安い御用さ』


 カミルは自信満々に頷いてみせた。


『因みに昨日は、大学のサークルの部室で楽しそうにゲラゲラ笑っていたぜ』

『……』


 レナはカミルじっと見つめた。


『そこでマヤが何か変なことをしていた証拠は?』

『まだ見つからないね』

『そう。ありがとう。引き続きよろしく』

『はいよー』


 カミルは手を振って、部屋の隅の影に溶けて消えていった。


 レナはカミルの消えた場所をしばらく眺めていたが、ふっと目を逸らして、新しく買っておいたラジオのスイッチを入れた。

 ザザッと耳障りなノイズの後に、機械的なアナウンサーの声が流れ出す。


「政府の発表によりますと、本国の経済成長は昨年に比べ僅かに下落を見せています。ただしこれはあくまで一時的なものであり、将来的には大きな成長が――」


 レナは気もそぞろに、再び窓の外を眺めた。パン屋らしき店の前には長蛇の列ができている。

 報道には検閲がかかるから確たる証拠は無いのだが、パルラントは今、莫大な借金を抱えているはずだった。西側諸国から借り入れた外資の返済期限が来た頃から、街にはこうした行列がよく見られるようになったのだ。レナとて何度も店頭に並んだ経験がある。現パルラント共産党第一書記ガレクによる経済政策は、大成功だと宣伝されてはいるが、きっと失敗だったのだろう。

 だが今日からレナは店に並ばなくてもよくなる。保安局員養成学校に付属している食堂を使ってもよいという許可をもらったので、食べ物には困らなくなったのだ。父がいなくなったためにあと半年は収入が見込めないから、少しでも出費が抑えられるのはありがたい。妹なら大学の食堂を利用しつつ勝手にやっていってくれるだろうし……。


「あー」


 レナはラジオを切ると、ドサッと枕に頭を乗せた。市場に流通しているものよりずっと肌触りの良い生地だった。


「うー……よし、行こう」


 立ち上がり、鏡の前で身だしなみを整える。髪の毛よし、化粧よし、ブラウスよし、スカートよし。

 そうして鞄を持って歩いて出かけた先は、教会だった。


 白い長方形の外壁に青い尖塔がついた、格式ある建築物。


 家の近くの教会にはたまに通っていたけれど、この教会には数回しか入ったことがないと思う。


 共産主義は基本的に無神論で、神への信仰を禁じている国も多いのだが、パルラントではあまりにも信者が多いことと、教会の権力が大きかったことから、なし崩し的に宗教が認められていた。


 レナは、建物内の中ほどにある長椅子の一角に座った。

 他にもちらほら客が入っていて、各々座ったり、聖書を読んだり、あたりを見回したりしている。


 天井は高く、そこら中に豪華な装飾が施されていた。金の細工にモザイク画。ガラス窓からは日の光が差し込んで、十字架のある祭壇を神々しく照らしていた。


(主よ——。私はきっとうまくやります。どうか見守っていて下さいませ)


 祈りは天に届くだろうか。


 

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