第2話 学生団体


 朝起きたら、レナの姿は無かった。引っ越しの準備のために買い出しに出かけたのだろうか。

 マヤは洗面をして、涙の跡を拭った。着替えをして、黒髪を三つ編みに結って、酸味のあるパンをもそもそと食べた。

 大学の講義に必要なものを鞄に詰めて、家を出て、大学のサークル棟に向かう。


 灰色にくすんだ街中や大学構内には、色鮮やかなポスターが貼り出されている。


『世界に誇れる工業国、パルラント』

『右翼の自由主義者をやっつけろ』

『パルラントは常にソヴェティアと共に』

『明るい未来が待っている──パルラント共産党』


 飽きるほど見てきたそれらのプロパガンダを素通りして、マヤは学生団体「スズランの会」の部室のドアを開けた。


「おはよう」


 中にたむろしていた学生二人が振り返った。


「マヤ! 良かった、無事で」

 オリヴィアが歩み寄ってきた。

「昨日は来なかったけど、何かあったの?」

 ユリアンが遠慮がちに訊いてきた。


 マヤはほっと力が抜ける思いがして、オリヴィアの肩にしがみついた。

「ちょっ、本当にどうしたの?」

「……姉さんが父さんを密告した」

「えっ」


 オリヴィアが凍り付くのが肌で伝わってきた。


「マヤのお姉さんが?」

「うん」

「それで、あなたは何ともないの?」

「うん。尋問されたけど……でもそんなことより、姉さんが……今度、保安局に入るんだって」

「ウッソ!」

「本当」


 マヤは昨日あったことを手短に説明した。


「どうしよう。私もうここに出入りできないかも……」


 スズランの会は、ヴァソヴィオ大学の学生十人あまりで構成されている、反社会主義の学生団体だ。マヤはその創立にも関わった中心メンバーのうちの一人なのだった。

 表向きの活動内容は、隣の大国ソヴェティアのかつての政策を批判することで、これは反政府には当たらない。しかし実際にここで行われていることは、パルラントの現政権を批判するための活動であって、そこには少しでもこの国を民主化しようという企みが含まれている。

 マヤが反政府の活動をしていないだなんて、それこそ真っ赤な嘘である。


「早まっちゃだめ、マヤ」


 オリヴィアは言った。


「だいたい、ユリアンのお父さんだって共産党員でしょ」


 名指しされたユリアンはしどろもどろになった。


「ぼ、僕は密告者じゃないよぅ」

「そんな話はしてない。身内に政府側の人間がいることなんて普通だって言ってるの」

「でも、よりにもよって秘密警察だよ」


 マヤは絶望的な気分で言った。


「訓練された人間と一般の共産党員とじゃ、話が違うよ」

「あなたが不安に思うのは分かるけど」

「私、ここを潰されたくない。みんなに迷惑はかけられないよ」


 活動がバレれば、在学資格を取り消されたり、禁固刑を課されたりするだろう。自分だけならともかく、友人たちまでをも危険にさらしたくはなかった。


「みんな危険は承知でここに参加しているのよ」

 オリヴィアは言った。

「今更迷惑だなんて思わないわ。それよりも志のある人が一人でも多く必要なの!」

「気持ちはありがたいけど、現実的には厳しいということがあるよ」

「それは……」


 オリヴィアは困ったようにユリアンを見た。ユリアンは考え考え口を開いた。


「僕は、マヤがこのまま参加していても大丈夫だと思う」

「どうして?」


 マヤが尋ねると、ユリアンは俯きながらも意見を述べた。


「だって昨日は、保安局に尋問されても家を捜索されても、マヤは大丈夫だったんでしょう。それをお姉さんが覆せる可能性は低いよ」

「でも……身内なんだよ」

「身内に密告者がいるかもしれないのはみんな同じだよ。それにマヤは、お姉さんと離れて暮らすことになったんだよね? 危険はむしろ減ったんじゃないかな」

「……ね、大丈夫でしょ」


 オリヴィアは言って、マヤの肩を叩いた。


「心配いらないって。一応他のメンバーにも周知はしておくから、警戒だけしてもらえれば充分よ。あなたも上手に嘘をついていれば何の問題も無し」

「二人とも……」

「そんなことより、疲れたでしょう。酷い目に遭ったんだから。ここでゆっくり休みなさいよ」

「ああ、ううん……何か作業をしていた方が、気が楽だよ。大学の課題の、『資本論』第十五章の要約がまだ途中なんだ」

「そう。いいわ、こっち来なさい。手伝ってあげる。ユリアンは?」

「僕はもうすぐ講義が始まるから行かなくちゃ」

「そっか。頑張ってね」



 幸い課題は迅速に片付いたので、マヤとオリヴィアは雑談を始めた。オリヴィアはマヤを元気づけようとしてくれているようだった。


「面白いアネクドート(政治的小噺)があるのよ」

「なになに」

「スタリオンの話なんだけどね」


 スタリオンはソヴェティアの先々代最高指導者だ。個人崇拝や粛清といったその強権的な体制はスタリオニズムと呼ばれ、パルラント含む東側諸国にも多大な影響を与えた。しかし彼の死後は、スタリオニズムは批判される傾向にある。

 今回のアネクドートはそんなスタリオンの独裁的な振る舞いを風刺したものだった。


「スタリオンは自室に戻る際、周囲の人間に言った。

『しばらく一人にさせてくれ。私がいいと言うまで絶対に入ってくるな』

 側近たちはその言葉通りに待っていた。

 ところが何時間経っても何十時間経ってもスタリオンは出てこない。

 一人の部下が処刑を覚悟で部屋に入ると、スタリオンは——ソファの上で死んでたってわけ! アハハ!」


 ふふふとマヤも笑った。


「本当にありそうな話」

「実際、スタリオンがどうやって死んだかなんて報道されてないもんね」

「権力の絶頂に上り詰めた人間も、死ぬ時は一人か……。ガレクやベネフも、そんな感じでとっとと寂しく死んでくれないかな……」


 ガレクは現パルラント共産党の第一書記、ベネフは現ソヴェティアの最高指導者である。こんなことを公の場で言おうものなら国家侮辱罪で禁固刑五年は堅い。

 オリヴィアはにやりとした。


「無理よ。ベネフとガレクの二人はベッタリ仲良しなんだから……自室に入る時は二人っきりでナニゴトかをする時よ」


 ブフッと今度はマヤは盛大に吹き出した。


「ちょっ、オリヴィア!」

「アッハッハッハッハ」

「嫌だ嫌だ、クソジジイどものそんな場面なんて考えたくもない!」

「他国の権力者たちが嫉妬しちゃうわね! それとも、他のジジイどもも……」

「ギャーやめて! それ以上言わないでー!」


 二人は長い間ケラケラと笑っていた。


「マヤ、あなた、すぐ危ないこと言うんだから。尋問をやり過ごしたからっていい気になっちゃ駄目よ」

「オリヴィアだっていくらでもアネクドートを仕入れて来るくせに……」

「あー、笑ったら汗をかいちゃった。窓を開けてもいい?」

「待って待って。まだ笑いが収まらないから」

「笑ってるだけなら誰かに聞かれても問題ないわよ。それよりずっと窓を閉じている方が怪しまれるわ」


 ガラガラと窓が開けられた。涼しい風が、オリヴィアの一つに結ったブロンドを靡かせた。

 マヤは息をついた。


「あー。笑ったら気持ちがすっきりしたかも……」

「少しは元気を取り戻したみたいで良かったわ」

「やっぱり私、暗い顔してた?」

「家庭が崩壊したら、誰だってそうなるわよ。参っちゃうわよね、こんな世の中」


 そう言ってから、オリヴィアは付け足した。


「もちろん、上の方々曰く、大変なのは今の時代だけで、いずれは良い時代がやってくるらしいから」

「そうだね、今は我慢の時だよね」


 もちろん、このままでは良い時代が来るはずもないことはお互いに分かっている。

 『資本論』の著者マーカスによると、世界はプロレタリア独裁を経てから、真の理想的な社会主義に到達するという。しかしそんなものは現実離れした夢物語に過ぎないというのは、分かりきったことだった。お偉い人々は、「今はまだ」という言葉を盾に、いつまでも独裁を続けようとしている。

 このままではいけない。真に良き時代を作るのは、ジジイの専制ではなく、若者による改革だ。言論統制も検閲も密告もなく、自由に喋ることができ、学問の自由や大学の自治も保障される、そんな国を作りたい。

 きっと実現させてみせよう。マヤたちはそのために、機を窺っているのだった。

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