嘘と祈りのレヴォルシオ
白里りこ
第一章 確執
第1話 密告
revolucio:【名】革命。
☆☆☆
小人がいた。
身の丈は三十センチほど。さらさらした灰色の長髪に、橙色のニット帽。大きな青い眼。柔らかそうな頬。
……これは目の錯覚だ。
この狭い殺風景な部屋に無理やり入れられてから、もう何時間経ったのか分からない。つい先程まで尋問官に色々と質問されていたから、精神的にも疲弊している。
だからこれは、幻覚に違いない。
だが、何度瞬きしても、小人の姿が消えることはなかった。そこでマヤは、パイプ椅子に座ったまま、ぼんやりとその小人を眺めていた。
何だかドモヴォーイみたいだな、と思った。この地域に古くから伝わる、家憑きの小人の一種。吉凶を予見する能力があるという。もちろんそれは伝説に過ぎないわけだけれど……。
不意に小人が、何かを言ったように見えた。何も聞き取れなかったマヤが僅かに首を傾げると、小人は悲しそうな顔をして、手品か何かのようにフッと消え失せた。
次の瞬間、重い鉄の扉が開いた。
真っ黒い制服を身にまとった秘密警察「保安局」の局員が、そこに立っていた。
「マヤ・ステンシル。出なさい」
「あ……」
マヤは立ち上がった。
「では、疑いは晴れたんですか? 私は反乱分子ではないと、分かってもらえましたか?」
「貴様が反社会主義であるという証拠は見当たらなかった」
「では、父と姉は!?」
マヤはドアに歩み寄り、縋るような目を保安局員に向けた。
「二人の疑いも晴れたんですよね!?」
「貴様に父親はいない」
保安部員の男が冷たく言い放った宣告に、マヤは目の前が真っ暗になった。
いないなんてそんなはずはない。マヤは昨日まで父親と一緒に暮らしていた。それなのにこの言い方……。
このぶんでは、今後父が帰ってくる見込みはない。
父の身を襲ったのはただの逮捕ではないのだ。逮捕なら刑務所から釈放されれば戻ってこられる。父の場合はそうではない……親族や知人との一切の連絡を強制的に遮断されて、どこか遠くに連れて行かれてしまったのだ。
「まさか……収容所送りですか」
「……。無駄口をきくな。早く部屋を出ろ」
「じゃあ、姉は? 姉はどうなりましたか」
マヤは廊下に出て小走りで進みながら食い下がった。
姉レナもまた昨日までマヤと一緒に暮らしていた。マヤの大学入学とすれ違うタイミングで大学を卒業したレナは、公務員試験の勉強のために家にずっといた。疑われる余地など無かったはず。
果たして男はこう言った。
「レナ・ステンシルは反乱分子ではない。模範的な同志だ」
「あ、ああ……」
マヤは安心するやら悲しいやらで、泣きそうになった。
男はマヤを施設の外まで連れ出した。
駐車場では、保安局員に見張られたレナが、マヤのことを待っていた。
「ああ、レナ……!」
マヤは転がるような勢いでレナの元まで走って行った。
「レナ、無事なの?」
「……まあね」
「良かった……でも……父さん。父さんが……!」
思わず口走ったマヤにかけられたのは、驚くほど冷徹な声だった。
「私たちに父親はいない」
「……え?」
マヤは衝撃を受けて、己が姉を見上げた。
姉の目は、機械か何かのように、何の感情も映してはいなかった。
「国家に楯突くような反逆者の裏切り者が、私たちの家族にいるはずがない。マヤもちゃんとわきまえて、口を慎みなさい」
「レ、レナ……?」
どうしたのだろう。昨日までとはまるで別人だ。
「あの……」
「その娘の言う通りだ」
保安局の男が口を挟んだ。
「貴様も言動にはよくよく気をつけるように。分かったな、マヤ・ステンシル!」
最後は威圧するような激しい怒鳴り声だった。マヤは怯んだ。
「わっ、分かりました、同志」
よろしい、と男は頷いた。
マヤは、涙が出てきそうになるのを必死にこらえた。
父さん。父さんがいなくなってしまった。私たちを育て、守ってくれた、優しい父さんが。
その父さんを悪く言うなんて、レナは一体どういうつもりなのだろうか。……そうだ、今は保安局員の前だから、己を偽ってああ言っただけなのに違いない。父のこともマヤのことも愛してくれていたはずの姉が、あんなにひどいことを本心から言うはずがない。
マヤは、保安局の人たちに覆面の車に乗せられた。家まで移送されている間じゅうずっと、ぎゅっと顔をしかめていた。途中でちらっと隣を見やると、レナは無表情で、ただただ前の座席の背中を眺めていた。
一時間ほどでマヤたちは、自宅のあるマンションの前に降ろされた。
夕焼けが空を鮮やかな赤色に染めている。マヤは眩しくて目を細めた。
パルラント人民共和国、首都ヴァソヴィオの往来。
三十四年前に戦争で占領され焼け野原になってから、現在の第三共和国が復活して共産主義体制になって以降、この街は何とか無事に復興していた。
戦後に建てられたこのマンションは、中世以来の昔ながらの建築物に比べると趣に欠けるのかもしれないけれど、住み心地は良かった。大学に程近いこんな素敵な場所に住めているのも、父さんが大学教員をやっていたおかげだったのだが……。
レナはマンションの入り口を開けると、何も言わずにエレベーターに乗り込んでしまった。それに続いたマヤも、家の玄関に入るまでは黙りこくっていた。
でも、ドアを閉じて、家宅捜索によって荒らされた室内を見た途端に、堪らない気持ちになった。
そこで、おずおずとこう尋ねた。
「レナ……あの……さっきのこと、本心じゃないよね?」
レナはおもむろに振り向いて、人差し指を口に当てた。マヤは困惑した。
「え……? でも、各家庭に盗聴器だなんて……」
「……明後日にはこの家を出る。家賃の問題もあるし、あなたも大学の寮に入る手続きをしなさい」
唐突なレナの発言に、マヤは目を丸くした。
「どうして?」
「試験の応募先を変えるから、別の訓練が必要なの」
「……? 何で? それに、訓練って……」
「隠しても仕方がないから言うけれど」
続けてレナが放った言葉は、マヤの予想の範疇を遥かに超えていた。
「私、さっき、保安局に入らないかというお誘いを受けたの」
脳天に雷でも落ちたかのような衝撃だった。
「えっ……なんっ……」
「保安局は機動隊と違って、志願者を受け付けていないから、どうやって人員を補充しているのかと思ったら、ああしてスカウトしていたのね」
「いや、だって、どうして」
意味が分からない。反社会主義分子の容疑の対象である人間を、わざわざ尋問中に秘密警察に誘う? そんなことがありうるだろうか。
だが、最初の衝撃が収まって頭が幾分正常に働き出した時、マヤは一つの可能性に思い至った。
「まさか……レナが密告したの? 父さんのこと……」
それは、この国ではあまりにありふれた話だった。密告者は至る所にいて、知人や家族を監視しているという。
マヤはドアに背を預けた。
「レナは前から秘密警察の手先だったの……?」
「……別に、前からじゃない」
「だったらどうして!」
マヤは震え声で叫んだ。
「この人でなし!」
レナは一ミリたりとも動じることなく、マヤの顔をじっと見下ろした。
「妙なことを言わないように気をつけることね」
「……あ……」
「それともまさか、あなたも既に、反社会主義運動に参加している……?」
マヤは必死でブンブンと頭を横に振った。
「し、してない。してないよ」
「……なら良し」
レナはマヤから目を逸らし、背を向けた。だが、リビングに向かう途中で再び振り返り、マヤの目を射抜くように見た。
「今後、ちょっとでも妙な動きをしてご覧なさい。密告するから」
「……!」
マヤは全身の血が抜け落ちるような感覚に捉われて、しばらくその場から動けずにいた。
……これは何かの間違いだ。
マヤの家は幸せな家庭で、親子三人は仲睦まじくて、だから世間でよくあるような近親者による密告なんて起こるはずがなくて、姉が自分の利益のために親を売るような真似をするはずがなくて、……。
「う……」
急な吐き気に襲われて、マヤは口を押さえた。
……たった一日だ。
たった一日で家族を失った。全てが崩れ去った。
父は失踪させられ、生死も定かではない。
他でもない姉が、意図的にそうさせた。
そして姉は、隙あらばマヤのことも国に売ろうとしている。
こんなことがまかり通るなんて。
こんな風にして幸福が破壊されるなんて。
狂っている。
この国は狂っている。
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