第29話 紗菜VS和春②

 さて、二球目はどうしようか。多分甘いところに入ったらもう振ってきそうだよなぁ……などと考えつつ、今度は内角低めに構えた。

 紗菜は真剣な表情でこくりと頷き、そのまま振りかぶって──投げた。が、今回はちょっとコースが甘かった。俺が構えたところよりだいぶ真ん中寄りに球が来てしまっている。


「いよっしゃ! もらったぁ!」


 和春が気合の声と共にバットを振った瞬間──クィッ。ボールが手元で不規則に変化して、ミートポイントがズレた。

 カキィンというバットの音と共に、三塁側のファールグラウンドに球が転がった。


「ファ~ル」


 明日太がそう言いながら、走って球を取りにいく。球が一つしかないから、こうして打たれる度に明日太が走る羽目になるのもちょっと可哀想だ。


「い、今打たれちゃったけど、あたしの負け⁉」


 紗菜が泣きそうな顔で訊いてくる。

 ほんとに野球のルールも知らないのか……それなのにこんな球投げれるって、世の中不条理だなぁ。


「いや、大丈夫。今のはファールで、ストライク扱い。この白線より内側に飛ばさなきゃいけないんだ」


 ファール線を指差して説明してやると、彼女はほっと胸を撫でおろしていた。


「おい……今、変化しなかったか?」

「さあ、気のせいじゃないか? あいつストレートしか投げれないし」


 和春の問いに、すっとぼけて見せる。


「気のせいなわけあるかっ! 一球目の時もちょっと変だと思ったけど、今ので確信した! じゃなきゃあのタイミングで振って打ち損じるわけがねー!」


 めちゃくちゃ怒っている。

 気付かれてしまっては仕方がない。でも、本当にどう曲がるか俺も全然わからないから、こちらもリスクが高いのだ。


「なんか、本人も無自覚で変化が加わってるっぽい。こっちも毎回捕れるかわからないから冷や冷やしてんだよ」

「む、ムービングだとぉ……くそっ、斎紗菜めぇ!」


 ぎろり、とマウンド上の紗菜を睨んで、素振りをする和春。だからなんでお前はそんなに紗奈をライバル視してるんだよ。

 それよりも、思ったより早くムービングがバレてしまった。どうしてくれようか。バレたところで打てるものでもないとは思うけども。


「さあ、ツーストライク! もうすぐみんなでパフェ食えるぞー」


 明日太がそのタイミングでこっちに球を投げてきたので、それを紗菜に投げつつ言ってやる。

 紗菜が元気よく「うん!」と頷いていた。可愛い。じゃなくて!

 さて、紗菜の肩の事を考えてもあんまり全力投球ばかりさせたくないので、できればここで勝負をかけたい。和春は和春で、多分一球外してくると予想しているだろう。

 それなら、やはりここは……勝負をかけるところだ。俺は人差し指をグローブの下に立てて合図してから、ミットを真ん中より少し低めに構えた。

 おそらく紗菜は、次に自分の投げる球がどんな変化をするのかわかっていない。その状況で低めに投げられ過ぎると、球がバウンドしてしまうか、俺が捕れない可能性もある。紗菜には真ん中あたりを投げてもらう感覚でいた方がいいのだ。

 紗菜が緊張した面持ちでこくりと頷いてから、こっそりとミットの中で握りを確認していた。これでは次に変化球投げますよと教えているようなものだが、和春も今はムービングの事でいっぱいになっているので、おそらく気付いていない。それに、初心者がぶっつけで変化球を投げるとも思っていないだろう。

 そして、三球目。

 紗菜は深呼吸をしてから、大きく振りかぶって──投げた。

 球はど真ん中だが、すっぽ抜けた様子もない。握りが異なるので、やはりこれまでの二球よりも少し球速は落ちている。が、これはこれで良い釣りになるかもしれない。


「よっしゃ、ど真ん中! 今度こそもらったぁぁぁあ!」


 和春が気合の声を上げながら、全力でフルスイングし、球を捉えようとした時──クンッと球が落ちて、和春のバットはそのまま空を切った。俺も何とか落とさないで球を捕る事ができて、無事三球三振。


「スリーストライクバッターアウト。斎さんの勝ち!」


 明日太が紗菜の勝利を宣言すると、紗菜は飛び跳ねた。


「いよっしゃ、勝ったああああああ! たっっのしぃーっ!」


 紗菜は思った以上に喜んでいて、テンションが高い。案外体を動かすのが好きなのかもしれない。

 それにしても、最後に自分がどんな球を投げたかも全然わかっていないはずである。普通一発で変化球投げるか?


「ほい、じゃあ高級パフェ三人分奢りヨロ」


 体勢を崩して倒れている和春に、俺はしれっと言ってやる。


「おいおいおい、最後の何だよ! フォーク、いや、スプリットか?」

「お、正解」


 ──スプリット・フィンガー・ファストボール。通称SFF。俺が紗菜に投げさせた変化球だ。メジャーリーグで活躍中の日本人投手達が愛用している変化球でもある。フォークほどの落差はないが、その分ストレートに近い球速を保てて手元で落ちるので、空振りも奪いやすいのだ。


「あほかお前! 初心者にいきなりぶっつけ本番で変化球投げさせるか、普通⁉」

「へっへっへ、まさか俺も本当に成功するとは思わなかったけど、チートスペックの紗菜ならワンチャンいけるんじゃないかと思って投げさせてみたんだ」


 そしたら案の定完璧なスプリットを投げやがった。本当に女子プロ野球界にでも売り飛ばした方がいいんじゃないかと思い始めている。


「ふざけんなチクショー! ムービングにスプリットとか初見で打てるかぁー! さっさとプロに行けよバカ野郎~~!!」


 和春が頭を抱えてまた絶叫していた。

 打てないよな。俺も打てない。これはもう、反則級のチートスペックを持つ紗菜だからこそできた芸当だ。


「薫くんっ!」


 紗菜が嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。


「おー、ナイスピッ──」


 ──チ、と言おうとしたが、言えなかった。

 そのまま、紗菜が飛びつくようにして抱き着いてきたのだ。ぐらりと倒れそうになったところを、何とか抱きかかえるようにして彼女を支える。紗菜の甘い香りで一気に包まれて、頭がおかしくなりそうだった。

 そして、あの、大きくてとっても柔らかいものが俺の体に当たっているわけですが、これは……?


「最後の球って何て言うの⁉ あれでよかったのよね⁉ なんだか球が落ちた感じがしたんだけど!」


 矢継ぎ早に、抱き着いたまま訊いてくる。球がどんな変化をしたのかは目視したらしい。

 説明してやりたいのはやまやまなのだが、そんな事をしている余裕がない。紗菜の大きくて綺麗なアクアブルーの瞳が、過去にないくらい近くでキラキラ輝いていて、彼女の吐息が頬に当たっているのだ。おまけに首根っこに抱き着かれているので、とっても柔らかいものまで押し付けられている。こんな状況で冷静でいられるはずがない。一気に顔が熱くなるのを感じた。


「ぐおあああああ⁉ これが敗者への当てつけってやつなのか⁉ 敗者とはこんなにも屈辱を味わう事になるのか⁉ くそおおあああああ!」


 そしてそんな俺達を見た和春が謎に屈辱を感じて叫び出していた。

 とりあえず、今は和春はどうでもいい。離れてもらわないと俺の頭もおかしくなってしまいそうだ。


「あの、紗菜ちょっと、待って……」

「へ?」

「その、これ……」

「はっっ⁉」


 興奮のあまり、抱き着いている事に気付いていなかったらしい。

 そのままキスでもしそうなくらい顔が近づいている事に気付いて、どんどん紗菜の顔が赤くなっていく。

 そして──


「ぶどろぐゔぇどぅぉー」

「ぐぎゃぼろばれゔえ」


 互いに奇声を発した。


「ぐおあああああ! うわあああああ!!」

「ぶどろぐゔぇどぅぉー」

「ぐぎゃぼろばれゔえ」


 五月の夕方、高校生の男女が三者三様で奇声を発していた。

 きっとその光景はとても滑稽で、狂った儀式のように見えていただろう。


「あの、これを見せられて僕はどうすればいいの……?」


 そんな中、唯一シラフ(?)だった左藤明日太だけが、冷静にその光景を眺めていたのだった。

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