第13話 これは完全にする流れ

 紗菜がようやく落ち着いてきた頃、予鈴がなった。もう五限目が始まるまで、五分だ。


「予鈴鳴ったぞ」

「聞こえてるわよ……帰れるわけないでしょ」


 言って、紗菜はまた膝を抱え込んでしまった。

 どうやら彼女は今日も授業をサボってしまうらしい。という事は、必然的に俺もサボる事になる。

 いや、違うな。俺はサボりたいのだ。紗菜と一緒の時間を過ごしたいだけだ。

 ほんとに……どうしてこうも、俺は物好きなんだろうな。みんなのアイドル聖女様だった時は興味を抱いた事すらなかったのに。奇声だぞ、奇声。何をどう転んだら『ぐぎゃぼろばれゔえ』なんて発する女を好きになるのだ。意味がわからない。


「えっと……腹減ってない? 今ならまだ購買で売ってるものなんか適当に買ってくるけど」

「そうね……なんか、落ち着いたらお腹空いてきたわ。お願いしていいかしら?」

「じゃあ、ちょっと買ってくる。残り物になるだろうから、あんま期待すんなよ」


 紗菜は微笑んで、こくりと頷いた。そんな何気ない笑みでさえもあまりに可愛くて、どこかに羽ばたけてしまいそうだった。


「ぶどろ……」


 また奇声を発してしまうすんでのところで感情の嘔吐を塞き止める。

 危ない。奇声って一度出すと癖になるのか。しかも感染もするようだ。なんて危険な習慣……むしろこれは感染型疾患とでも言うべきではないか。恐ろしい。

 そんなアホな事を考えつつ、俺は購買に走った。購買のおばちゃんが「さっきなんか叫んでたけど大丈夫?」と心配してくれたが、「思春期なので」とだけ答えておいた。あれを思春期の一言で済ます俺も大概肝が据わっていると思う。

 とりあえず、残っていたのがツナサンドとあんぱんだけだったので、それぞれ二つずつ購入した。ついでに自販機でカフェオレとブラックコーヒーを買って、紗菜の元へと戻る。彼女は同じ場所で座ったままだった。


「はい。あんぱんとツナサンドとカフェオレ。ツナサンドが残ってたのは運がよかったな」

「そうなんだ。ありがとう」


 彼女の分を渡してから、俺もその横に座った。

 三人分の隙間を開けていた昨日とは違って隣。ギリギリ触れていない程度だ。彼女もそれに対して何も言わなかった。ツナサンドの封を切って、無言で食べ始めた。彼女も小さな声で「いただきます」と言ってから、ツナサンドの封を切っていた。

 その時ちょうど本鈴が鳴った。これで二日連続サボりだ。


「これで二日連続でサボりね」

「だな」


 ちょうど紗菜も同じ事を考えていたようだ。なんだか、それだけで少し嬉しくなる。

 彼女はお上品に両手でサンドイッチを持って、小さくぱくぱくと食べていた。なんだか小動物みたいで可愛い。


「なによ?」


 じろっと警戒したようにこちらを見てくる。


「いや、小動物みたいで可愛いなって」

「ぐぎゃぼろばれゔえ」


 また奇声を出した。

 いや、食べてる時にその奇声はやめろって……ゲロ吐いてるみたいじゃないか。せめてうがーとかふんがーとかにしてくれないと。


「可愛いなんて言われ慣れてるだろ」

「……そりゃ確かに、小さい頃から言われ慣れてるけど」


 ほらみろ、と溜め息を吐く。今更俺に言われてどうこうというものでもないだろうに。


「そうなんだけど、それを言う人によってこんなに感じ方が違うって思わなくて、あたしだって困惑してるのよ!」

「は? どういうこと?」

「何でもないわよ、もうっ」


 怒ったように顔を背けて、ぱくぱくとサンドイッチを食べている。そこで会話が途絶えてしまったので、そのまま無言で俺達はパンを食べ続けた。

 先に食べ終えてしまった俺は、コーヒーを飲みながら暇つぶしがてらにスマホを見てみると、案の定LIMEの通知がたくさん来ていた。内容は俺が斎紗菜を連れ去ったという感じで、昨日よりも更に過激になっていた。うんざりだ。


「ごちそうさま」


 紗菜も食べ終えたようで、手を合わせてビニール袋を綺麗に折りたたんでいた。あれだけ罵詈雑言や奇声を発する人間とは思えないような上品な習慣だ。


「お金、いくらだった?」


 財布を取り出して彼女が訊いてきた。

 思えば、その財布から全てが始まったんだよなぁ……などとじみじみ思う。まだほんの二四時間前の出来事だなんて、信じられない。


「いいよ、俺が誘ったし。今日は奢りってことで」

「そ、そういうものなの?」

「そういうもんだよ」

「ありがとう……」


 ぽっと顔を赤らめて、小さくお辞儀する。「どういたしまして」と返すと、彼女はこくりと頷いて、視線を逸らした。

 気まずいのか、スマホを取り出してスワイプしている。


「うわぁ……」


 そして画面を見るや否や、顔を歪ませていた。


「凄い事になってる……薫くんのクラスは?」

「こっちもだな。俺が連れ去った事になってる」

「こっちはあたしが誘拐されて拉致監禁されてる事になってるわ」


 誘拐して拉致監禁って……それ、犯罪じゃないか。


「ひどいな」

「似たようなもんでしょ」

「いや、ちゃんとお前の意思も聞いただろ」

「そう、だけど……」


 恥ずかしそうにまた視線を落として、彼女は自分の手を見た。すなわち、俺と繋いだ方の手だ。

 それを見て、顔が熱くなった。紗菜とさっきまで手を繋いでいたのだ。信じられない。


「それで……どうするの?」

「どうするって……」

「どう言い訳するのよ」

「無理だろ、これは」


 そうよね、とため息を吐いたかと思うと、紗菜はくすっと笑った。


「どうした?」

「ううん……最高の気分だなって」


 とても満足げな笑みを見せている。


「あいつらの困惑しきった顔を見たら、すっごくスカッとしたわ。爽快よ。最高だわ」

「それは良かった」


 紗菜がそう思ってくれたなら、俺も狂った甲斐があったというものだ。一歩間違えれば完全に人生が終わっていた案件だが。


「それで……あなたはどうするの?」

「どうするって言われてもなぁ」


 もう言い訳は無意味だ。下手に言い訳しても、おかしくなる。

 俺が無理矢理連れ去った事にして、とことん犯罪者になるか、それとも……友達だと言い切ってしまうか。ただ、前者の場合、停学や退学処分も有り得そうだ。幼稚園からのエスカレーター組を連れ去らったとなれば、確実に問題視される。


「紗菜次第だよ」

「え、あたし?」

「ああ。紗菜が、俺とこうして直接関係を持っていたいか、それとも、俺とは他人でゲームだけのフレンドって事にして、前の環境に戻りたいか……結局それ次第だと思う」


 そう、そこに行き着く。

 俺はもうここまでやってしまったのだから、どうなろうとある程度の事は仕方ない。紗菜が望んだ方に合わせてやるしかないのだ。


「あたしは……もう嫌よ。あんな風に監視されて制限されるのは、もう嫌」


 紗菜は少し考えてから、きっぱりとそう答えた。


「それなら、その……薫くんともっと、こうしていたい。もちろん、あなたが嫌じゃなければ、の話だけれど」


 顔を真っ赤にして顔をぷいっと背けて「薫くんは?」とこちらに訊いてきた。背けつつもちらちらとこちらを見ている様が本当に愛らしい。

 その言葉で心が一気に暖かくなる。恥ずかしがりながら、彼女がそこまで言ってくれたのだ。俺も本音を言う必要があるだろう。深呼吸してから、心の声をそのまま伝えた。


「俺も……紗菜と、もっとこうしていたいよ」

「ほんと……?」


 こくり、と頷く。

 互いに顔を赤らめあって、見つめ合う。彼女の大きく綺麗な青い瞳に、赤くなった俺が映し出されていた。

 お互い黙り込んでしまって、ただ互いの瞳に互いを映し出す。

 綺麗な金髪も、華奢な身体も、大きなアクアブルーの瞳も、雪のように白い肌も、全部今は、俺だけが見ている。俺の独り占めだ。この世界で、俺しか彼女を見ていない。そう思うと、嬉しすぎて、理性が崩壊しそうになる。

 もう授業は始まっているので、周囲に人の気配はなかった。鳥の鳴き声だけとそよ風の音だけが残っていて、他には何も聞こえない。

 何かタイミングがあったわけじゃない。ただ、なんとなくお互いゆっくりと顔を近づけた。彼女の綺麗な瞳がどんどん近付いてきて、目を瞑る。俺も目を瞑って、互いの唇が重なりそうになった時──


「ぶどろぐゔぇどぅぉー」

「ぐぎゃぼろばれゔえ」


 互いに背を向けて奇声を発した。

 だめだ、俺達にはまだ早かった。多分彼女は、男そのものに免疫がない。小学校の高学年からずっと監視されて鳥かごに入れられ、男が寄ってこないようにされていたのだから、それも仕方ない。むしろ男とこれだけ長く話したのも初めてだろう。

 対して俺は紗菜のように異性に免疫がないわけではないのだが、見掛けだけは本当に空前絶後の美少女なので、そんな子をこんなに近くで見て、その子とキスするだなんてなった瞬間、どうしようもない感情に襲われるのだ。もうちょっと俺は紗菜に慣れる必要がある。


「こういうのは、もうちょっとしてから、だな……お互いに」


 紗菜は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにこくりと頷いた。

 何をやっているんだ、俺達は。

 でも……いつか、紗菜とキスできる日がくるのだろうか。それを思うと、色んな事を頑張れる気がしてきた。

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