第10話 まずはその幻想(鳥かご)をぶち殺す
授業中、俺はなんだかずっとモヤモヤイライラしていた。
これはさっきの
お淑やかにふるまっているのは、お淑やかだからじゃない。そうせざるを得ない環境にいるだけなのだ。本当は『ふんがー!』だの『うがー!』だのと叫んだり喚いたりして、もっと面白い女の子なはずで……それをあんなふうに封じ込めているのは、可哀想に思えた。
そんな風にイライラしながら、昼休みになった途端に世界史の図解集を返しにB組に行った。
斎さんは、さっきと同じように〝壁〟に囲まれて、お昼を食べようとしていた。そのニコニコ浮かべている笑顔は、本来とても綺麗なものとして見えるべきはずだ。でも、それは鳥かごの中で浮かべているだけのかりそめの笑顔でしかない。それを思うと、胸が苦しくなった。
左藤の席まで行って「ありがとう」と図解を返して……本来なら、そのまま帰るはずだった。
でも、きっと何か魔が差したのだろう。いや、彼女の心から笑った笑顔はどんなものなのだろうかと、できればそれを見てみたい──そんな願望を持ってしまったのだろうと思う。
この時、何故俺がこんな行動に出たのか、誰かに論文を書いてほしいくらいだ。それだけ意味がわからない行動をした。
そう、俺はその〝壁〟に突撃していったのだ。五人が机を寄せ合っているところに赴き……周りの視線なんて完全に無視して、その〝壁〟の中にいる斎さんのところまでヅカヅカと歩み寄った。
いきなり俺が近づいてきて、〝壁〟の四人は一気に警戒した視線を送ってくる。斎さんは、『ちょっと⁉』というのを口パクで俺に訴えかけてくるが、敢えてそれに気付かないふりをした。
〝壁〟を無視して斎さんの前に立って、無言で彼女を見つめる。
斎さんは、胸の前に両手を寄せて、何をするつもりなのか不安で見当もつかない、という顔をしていた。そのアクアブルーの瞳を大きく見開いて俺を不安そうに見据えている。
(ああ……そういう、事か)
その時、気付いてしまった。この大きくて青い瞳が、俺はもう大好きになっていたのだ。どうしようもないくらい、もっとそれを近くで見ていたいと思わされてしまっていた。
きっと、あの屋上で過ごした時間が楽しかったのだ。楽しかったから、もっとあの時間を過ごしたいと思ってしまった。
──なあ、斎さん。お前、責任取れよ。俺は今から、そのお前の鳥かごを壊す為に、屋上から飛び降りるのと同じくらいアホな事をするんだからな。
本当に……責任、取ってくれよ。くそ。絶対に俺はアホだ。成績順位中の中だけどアホだ。そんでもって『ぐがー!』って叫びたいくらいアホだ。
そう思いつつ俺は大きく深呼吸してから、声を出した。
「おい、紗菜」
敢えて、名前を呼び捨てにした。
その事により、〝壁〟だけでなく、B組のクラス中の人間の視線が俺に突き刺さる。
俺は今、このエスカレーター組によって作られたよくわからない常識──斎紗菜に話しかけていいのは〝壁〟から許可を得るか、〝壁〟を通じてからでしか話してはならないという常識──を、堂々と侵したのだ。昨日の連れ去り事件があった後に、しかも、呼び捨てにして、である。
完全に、禁忌を侵している。でも、俺はアホだから……そんなものは、恐くない。
「は、はひ⁉」
斎さんの……いや、紗菜の素がちょっとだけ出ていた。それがおかしくて、思わず笑みを浮かべてしまう。絶対お淑やかにしてるより、そっちの方が面白くていい。
「購買、付き合って。パン食いたいから」
「ええ⁉ ぱぱぱ、パン⁉ な、なんで?」
紗菜は混乱しつつ〝壁〟を慌てて見回していた。〝壁〟もいきなりの俺の暴挙に驚きを隠し切れないでいるようだった。指を差して口をパクパク魚みたいに動かしている子もいる。
──ざまあみろだ。
これが世界の理不尽って奴なのだ。お前らエスカレーター組が必死で作ってきた常識など、外部生の俺にとっては知った事ではない。簡単にぶっ壊せるのだ。
お前らが必死になって守ってきた世界も、俺の日常も、そしてこんな糞くだらない幻想も鳥かごも……壊す意思があれば、簡単に壊せてしまうのである。
「知らないのか? 今日から新しいパンが入荷してさ、その争奪戦がやばいんだわ。だから早く行かなきゃいけないんだって」
「あ、新しいパン⁉ でも、その、えっと、えっと……」
紗菜は泣きそうな顔で、どうしていいのかわからない様子で周囲を見ている。
ああもう、めんどくさいな。お前の本音なんてもうわかってんだよ。
「ちょっと、あなた! いきなり何なん──きゃっ」
正気に戻った〝壁〟が俺の前に立ちはだかろうとしてきたが、そんな〝壁〟をぐいっと押しのけた。
お前ら女子では、男の腕力にも勝てない。それもまた──世界の不条理なのだ。そんなくだらない常識なんて、壊す覚悟があるなら、簡単に押しのけられる。
「ほら、早く行くぞ、紗菜」
俺は〝壁〟を押しのけた勢いで紗菜の手を取って、そのまま〝壁〟……いや、鳥かごの外まで引っ張りだした。
なんだかこの瞬間に、世界が変わった気がした。
俺は自らの日常を壊し、そして、彼女の日常と数年間にも及ぶ
彼女の手を引いて、教室の外へと歩いていく。彼女は引っ張られるようにして、一瞬躓きそうになりながらも、抵抗せずについてきてくれた。
「新商品、多分すぐなくなるから急ぐぞ。噂によると美味いらしい」
彼女を見ると、紗菜はとびっきりの笑顔をこちらに向けてくれていた。
「ええ。楽しみだわ!」
その時見せた笑顔はさっきまでのお淑やかな作り笑顔ではなく、彼女の心から見せた満面の笑み……年相応で、とても可愛らしい笑顔だった。
「不味かったら承知しないんだから」
「新商品だからそれは保証できないけど」
「噂によると美味いって言ってたじゃない。どっちなのよ」
「不味かったら奇声あげていいから」
「あげないわよ!」
そんなやり取りをしている時も、楽しくて。昨日初めて話してから、この楽しさが忘れられなくて、どうしようもなく愛しかった。
もっともっとこんな風に話していたい──そう思いながら、彼女の小さくて柔らかい手を、優しく握りしめた。
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