躁の感覚、凪の感覚

躁である。

正確には「今、躁だな」と自覚した。


最近、仕事でもプライベートでもずっと耐えていた。自分の時間はほぼ潰され、プライドも粉々にされていた。だけど他人は変えられないと知っている私は、怒りも嘆きも飲み込んで黙っていた。

そういう状態で爆発するのは、人として当然の反応だと担当医は言った。確かに多弁もなかったし、浪費もなかった。むしろ止めても止めても金を使いまくる、同病の相方を止められず無力感にさいなまれていた。


しかし今日になって、私は猛烈な怒りを感じた。それは主に相方に対してだが、周りの音や気配すべてが気に刺さった。

頭がぞわぞわする。

ささくれた部分を刺激されたら、理性が崩壊しかねない。


私の相方を見ていれば分かるが、おそらく他の患者さんにこの感覚はない。みなさんナチュラル(?)に暴走して、そのままストンと落ちるのだろう。だけど私は脳内でミミズが這う感じがして、同時に感情のコントロールが難しくなる。私はこの段階で、静かな環境を探して休むようにしている。

……いや、休むようにしていたんだが。実はだいぶ前からこの感覚があったのに、相方の躁に振り回されてまったく休めなかった。だから辛さがどんどん増して、今現在、『もう崖っぷちに躁!!』という状態なのだ。

今日もキレた。ああ、きつい。よく言われる『万能感』だの『我こそ正義』だのという症状がないから、キレたそばから後悔が来る。今日は久々に涙が出た。



私は躁を好まない。軽躁も好まない。

診断が下るずっと前から、私は鬱の症状に苦しんでいた。普通の人(今思えば、私以外は単に健常者だったんだろう)に対して強い憧れと劣等感を抱えて生きてきた。

だけど、たまにハイテンションになる自分はもっと嫌いだった。自分じゃない感じだったし、正直醜かった。いや、当時はどんな自分も醜くて大嫌いだったが、とりわけ笑ったり喜んだりしている自分が死ぬほど嫌いだったのだ。

最近知ったが、笑顔はサルの『威嚇』の表情から発展したらしい。どうりでどなた様の笑顔も、微笑み以上になると恐ろしく見えるわけだ。


そんな頃、何がきっかけかは知らないが、やたら落ち着いた日があった。

私は職場の廊下を静かに歩いていた。劣等感もなく、焦りもなく、怖かった人の目すらも気にならず。さりとて喜びも楽しさも、心の中に欠片もなかった。

あるのは、頭の歯車がすべてかみ合ったような心地よさ。波紋一つない凪の心。

これがいい、と思ったのだ。

私は静かな心で生きたい。

なんなら喜びもいらない。

この凪の心を乱したくない。


今でも私は、その心境を目指して生きている。

だけどそれは、一人で生きることが大前提なのかもしれない――と、最近思う。

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