初、躁。
だいぶ前から、脳内がぞわぞわしていた。
彼が鬱期になり、ろくに働けなくなってから、ずっと不安と怒りが胸に渦巻いていた。口を開けば彼の愚痴ばかり、彼そのものにも罵倒の嵐。
私、こんな汚い言葉どこで覚えたんだっけ。
そんなことを、意識のはるか遠くでぼんやり考える。
怒り狂っているのに、それを脳が認知しない。
興味もない不条理な映画を眺めるように、自分のせいで歪んでいく彼の顔を淡々と見ている。
本当に、そんな日が二か月以上は続いていたと思う。
その途中あたりから、私は彼からの嫉妬に耐えていた。色恋ではない。2人で新しいスマホゲームを始めたのだが、私の方が若干スタートが早かったのでレベルやアイテムが上だったのだ。
位置情報を使うゲームなので、出張がある私には、彼の知らない土地のアイテムが溜まっていた。私はそのゲームの法則を知っていたのでアイテムを効率的に集められていたのだが、彼は完全なガチャだと思い込んでいた。
彼の持っていないものをより多く持っている私を、彼は「ずるい」としつこく責めた。彼も鬱だったため、説明をしてもなかなか納得してくれなかった。
もうゲームをやめようとすると、彼が嫌だと駄々をこねる。
どこか遠くに出張に出ると、やれアイテムをよこせ、位置情報をよこせとイライラした口調で命令する。
――彼が主原因ではない。
――私はそのもう少し前から、脳をかきまわすような気持ち悪さに耐えていた。
――彼の方が躁だった時が長かったから、負けまいと更に強い言葉で攻撃してきた。
そのツケが突然来た。
出張から戻るバスの中で、私は乱暴に自分のスマホを振ってゲームを起動させた。
ゲームからレア度の高いアイテムを捨て、居住地以外で拾ったアイテムを捨てた。
120個は集めていたアイテムは63にまで減り、戦闘にもろくに出られないヘボ編成になったことに狂喜した。
家に帰ってから彼にその画面を見せ、ごめんなさいと泣きわめく彼をなんにも感じずに眺めながら、私はもっと確実にゲームと縁を切る方法を突然ひらめいた。
私は
スマホを
タイルの床に
全力で
叩き付けた。
――スマホがないと仕事にならない。
すぐそのことに思い当たり、私は我に返ってスマホを拾った。
電源を入れても画面すら出てこないことにパニックになり、泣き叫んだ。
もう何ヶ月も遠くにいっていた感情が、混乱という形で戻ってきた。
気が付いたら、彼に向って「助けて」と叫んでいた。
助けて。本当の私はこんなんじゃない。
病気になるまで、物なんて一度も投げたことがない。
助けて。私を助けて。これ以上壊したくない、壊れたくない。
――――――――――――――――――――――――――――
たまたまその翌日に双極性障害の互助会に参加して、私の状態を告白した。
「それ、躁よ。我に返っただけまし。ひどくなると、もう淡々として何も感じなくなるから」
参加者の一人がそう言って、私は背筋がぞっとした。
この感覚は、実は以前にも何度か感じたことがあった。ただ嫌な予感がしたものだから、意志の力でねじ伏せ理性を保ってきたのだ。
――私、躁なんだ。
私はそれまで、鬱しか自覚したことがなかった。それも体が重くなるだけという、体調面だけの鬱である。
だけどここ数か月の私は、仕事も手につかずイライラして、彼に怒鳴り散らし、外に向かっても彼の愚痴を言い、自分は正しい、正しいはずとしつこく確認していた。
だけど、おかしいのは私だった。何もかも自分が原因だった。
私の脳内から、はちきれんばかりだった緊張が消えた。
――――――――――――――――――――――――――――
スマホは、彼が修理を手配してくれた。
「もうこんなものない方がいい」とぐずる私を、優しく宥めながら連れて行ってくれた。実は買ったばかりだったスマホは、案外安い値段で治せるようだった。
彼のゴリ押しに負けて、結局例のゲームを代替機にも入れた。
ゲームのアイテムを稼ぐために、香川の名勝地・栗林公園を2日連続で歩いた。位置情報ゲームの画面からなるべく目を逸らしながら、広い園内を深呼吸しながら、『心地いい』という感情を取り戻すようにして歩いた。
アイテムを捨てすぎたからゲームとしては不便はあったけれど、紅葉を眺めながら団子を食べたり、鯉に餌をやったりという時間は、脳に何か違う刺激を与えてくれた。
「お前は厳しいけど、優しいから。いつもありがとう」
彼が不意にそう言ってくれて、また少し泣きたくなった。
仕事の方は、もう無理だと感じた部分を周囲にお願いした。
現状も告白し(双極性障害のことは理解が難しいだろうから、『メンタルが良くない』と伝えておいた)、少しガスを抜くことにした。
脳内はまだ、イライラした違和感が残っている。気を抜くと何かを投げつけて、そこから私の大切なものまで一気に壊しそうで怖い。
だけど、私は病気と生きていくと決めているので。
こうなるまで苦しんだ過去の分まで、幸せになると決めているので。
酒とか金とか、まあいろいろなモノに逃げることなく、普通の人なら勝手に手に入る平穏を、自力でコツコツと作りながらやっていくのだろうと、思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます