ある先生の個人的意見――ドイツ医学とアメリカ医学
私は、やけに医者と仲良くなる。
それは精神科医に限らず、関節リウマチの先生も特発性血小板減少性紫斑病になった時の小児科の先生も、みんな親切だったし親身になって下さった。一部の例外はあるものの、妙に心を開いてくれる先生は多い。
多分、私って話しやすいんだろうなと思う。ADHDってエンターテイナーだし、そうでなくても好奇心旺盛だからな、私。新しい話題を期待して目をキラキラさせて来る患者なんて、先生方からしたら珍しいし嬉しいんだろう。
特に仲良くなった先生は、カウンセリングもお願いした精神科医だ。
当時40代後半くらいの、品のいいナイスミドルだった。私の家から少し離れたところで、小さな診療所を開いていた。
この先生とは話がよく合った。お互いに文学が好きで、夏目漱石の作品で盛り上がったりした。私が親の言葉で苦しんでいた時、「貴女のご両親は普通じゃない」とはっきり認めてくれた最初の一人も、この先生だ。
先生は、カウンセリングの時間に自分の事も色々話してくれた。
もう12,3年は前の話だ。当時はカウンセラーが脚光を浴びるちょっと前だったから、今みたいに『傾聴を基本とする』というルールが浸透しておらず、お金を出して雑談に行く感じだった。それでも当時孤立していた私には、有料の雑談が唯一の心の救いだった。
ある日、先生が分厚い白い本を出して私に見せた。
「新しいの届いてさ、これ勉強しないといけないんだよね」
「うわあ、大変そうですね」
「DSM-5っていうんだけど。僕はこれ好きじゃないんだぁ。効率重視のアメリカ医学らしい、いわゆるマニュアル診断だからねぇ」
「へえ? 医学って、国ごとに違うんですか?」
「そうだよ。僕らの世代は、もっぱらドイツ医学を習ったね。だからカルテだってドイツ語で書く。まあ、最近は英語も増えたけど」
確かに『カルテ』もドイツ語だし、明治以降日本に入って来たのはドイツ学問だったな、とその時思い出した。日本は現代まで200年近くドイツに学んできたのかと、私は脳内で歴史ロマンに浸った。
「アメリカ医学と、ドイツ医学と、なんか違うんですか」
「アメリカ医学ってのはこんな感じ。見てわかるかな」
ぴらっと見せてもらったページには、うつ病の審査基準が並んでいた。うん、マニュアルというかアンケートのようだ。
「ドイツ医学は、経験を重視するやり方かな。患者をしっかり観察して、知識と経験で治療する。僕はこの方が好きなんだけどねえ、今はアメリカ医学が主流になってきてるんだよ。でも、精神の病気って項目の数で分かるもんでもないんだよねえ……」
「まあ、そうかもですねぇ」
私はその時、面白い話を聞いたくらいにしか思わなかった。帰ってからネットで調べたものの、当時はうつが酷く疲れてやめた。
その後私は、引っ越しで転院した。
そこで、かなり若い先生に当たった。この方はいかにも知識重視で、アメリカ精神医学に傾倒しているのが直ぐに分かった。が、忠実過ぎて私の治療拒否を『病気による恐怖症』と分析したらしく、鼻で笑ったり強引に事を推し進めたりした。――まあその先生が私に発達障害のテストを受けさせたのだが、それも私の意見を聞かずに「受けて当然」とスケジュールを組まれたものだ(母親まで呼ばれて、本当に迷惑だった)。
その先生の性格も十分問題だったのだろう。だけど事務作業のようにぽいぽい処理されるのは、人格を否定されているようで嫌だった。
そんなある日、少しずつ断薬するつもりだった薬を突然止められた。酷い離脱症状で、暴れたい衝動を抑えるのに必死だった。幻覚も見た。
それらを全てを訴えたのに、「そんな事あるわけない」と笑われた。そう、本当に笑われたのだ、鼻で。
私は心底ブチ切れた。患者の苦痛を嗤う医者などいてたまるか、そもそも精神医学は未完成だ、貴様の教科書にある事だけが正しいわけないだろうが!
大きな病院だったので、診察後に院内相談室へ直行し、医者を替えてくれと直訴した。断られても、しつこく「あいつだけは嫌だ」と言い張って、自分がその先生の診療でどれだけ苦しいのか訴え続けた。1時間弱粘って私の嘆願は聞き届けられ、なんと代わりに院長先生が担当になった。
会ってみると、70くらいのお爺ちゃんだった。がっしりした体で座り方は偉そうだが、威圧感がなく顔にも愛嬌がある。
診察初日、院長先生は私をまじまじと見て言った。
「貴女、ADHDにも双極性障害にも見えないけどねぇ??」
「よく言われますwww」
「で、経過はどう?」
「えっとですね。薬を止めたられたら辛かったので、残った薬をピルカッターで半分にして飲んでます。それで少し楽になるので。でも前の先生が止めた薬が、本当は必要ない事はちゃんと分かっているので、計画的に減薬して最後は止めるつもりです」
先生はカルテに色々書きながらも、ちゃんと私の目を見てくれた。
「うん、それで貴女がそれでいいというのなら、それで続ければいいと思うよ。その薬、足りないなら出しておこうか?」
「いいんですか! ありがとうございます!」
この人、絶対ドイツ医学で育った人やー!と、私は安堵した。これも本当は先生の性格の問題なのだろうが、この時は本当にそう思って、安心して先生に身を任せられた。
論点が分かりにくくなったが、私の仲が良かった先生は、私が若い先生に受けたような『患者を観ない診察』を危惧していたんだと思う。
そもそも、アメリカと日本では精神科の立ち位置が違う。アメリカ人にとって精神科は、失恋の落ち込みを相談に行くようなライトな存在だ。軽い症状の患者相手なら、アンケート形式と軽い薬で十分かも知れない。しかし日本は違う。追い詰められた人間の、最後の砦と言っていい。初診でやって来る頃には、ほぼ全員がうつ病の審査項目に当てはまってしまうのは想像に難くない。
仲のいい先生とその話をして多分10年、若い先生にブチ切れたのが5年前。
今はまた別の先生に通っているが、現在はまた患者の話を聞くことがメインになっている感じだ。どこの病院でもDSM-5の本は見るが、数ある診断材料の一つに落ち着いた感はある。
とはいえ、やっぱりハズレな医者もいるわけで(私じゃなく、彼が当たった)。やっぱり患者側も、自衛のために勉強は必要だよなあと、私はことさら強く思うようになった。
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