06 女王シャジャル・アッ=ドゥッル

「……当面は、小規模に戦いを挑み、十字軍の消耗を狙っていくことですな」


 十字軍にとって、敵地であるエジプトでは、四方八方が敵であり、補給線も延び切っており、兵糧の減少が如実に響いてくる立場にある。

 ならば。

 後世でいう、いわゆるゲリラ戦に持ち込み、小勢で兵站を襲い、兵糧を削っていく。疲労を蓄積させていく。時間を稼げば稼ぐほど、十字軍にとっては損耗が著しくなり、撤退へと判断が傾いていくと思われる。


「楽観すれば、そうなる……が、十字軍が決戦を挑んでくる、という選択肢もあるぞ」


 ゼノビアは遠慮なくバイバルスの提案を指摘する。バイバルスは厭そうな表情をしたが、


「その時はその時。他に方法が無い。とにかく、散発的にいくさを仕掛ける。少なくとも、トゥーラーン・シャー殿下が戻るまではそうする。殿下が戻れば、王位を継いでもらえば良い。アクターイも戻れば、バフリー・マムルークも十全に機能する」

「そうじゃな……」


 シャジャルは目を伏せる。

 シャジャルはサーリフの後妻であり、トゥーラーン・シャーは前妻の子である。両者に血のつながりは、無い。そのあたりに屈託があるものと思われた。


「可もなく不可もなく、といったところだな。そして時が経ったところで、王子とアクターイが戻って……果たして、事態は好転するか?」


 ゼノビアの指摘は耳に痛いが、事実の側面をえぐり出している。


「……まつりごとについては、妾が何とかしよう。これでも、陛下が病床にある内は、陛下に聞きながらだが、妾がやっていたから、何とかなろう」


 「何とかなろう」と言い切るシャジャル。それはごく当たり前のことをすような自信に裏打ちされていた。実際、この後、彼女は事実上の国王として政治を取り仕切り、それは遺漏なく、スムーズに進んでいった。

 ゼノビアとバイバルスも、自身が政治を執るわけでもないし、この場はシャジャルに任せるしかないとして、それを受け入れた。


「では、問題はいくさか……」

「もし、決戦になるとしたら、も考えに入れておけ。アル=ブンドクダーリー」

「分かってる……何とかなるとは言えないが、策はぼんやりとだが、思いついてはいる」


 バイバルスがそう言うと、ゼノビアがと笑った。彼はいぶかしげにゼノビアを見返す。気づくと、シャジャルも微笑んでいる。


「……あ、今のは、単なる思いつきで」

「もう遅い、アル=ブンドクダーリー」

「そうじゃな……では、やはり軍の全権はバイバルス卿、汝に任せるとしよう」


 女たちはいつの間にか結託していた。

 そのことに今さらながら気づいたバイバルスは今度こそ遠慮せず頭をいた。それぐらいの不敬は見逃されるくらいの重責を負うのだ、構うまい、と。



 翌日。

 シャジャル・アッ=ドゥッルは、国王にごく近しい者で、面々をひそかに国王の居室に集めた。


「国王崩御は秘す。これは、生前に陛下が妾に託されたことである」


 それが事実かどうかは、誰にも確かめることはできない。国王の寵愛を受けた王妃なればこそできることだった。


「政は、当面、妾が執り行なう。むろんこれは、イラクからトゥーラーン・シャー殿下が戻るまでの、あくまでも臨時にして緊急のためである」


 不服を顔に出す者もいたが、バフリー・マムルークを率いているバイバルスが居室の隅に佇立している姿を見て、敢えて口に出すことはなかった。


「……では、喫緊の課題として、十字軍への対応を協議する」


 会議は終始シャジャルのペースで進んだ。

 ファフルッディーン・ユースフ将軍は更迭されず、ダミエッタからの撤退は、戦略的撤退としておとがめなしという扱いを受けたため、何も言うことはなかった。その上で、シャジャルは故サーリフの名において、バイバルスに対して対十字軍防衛の勅命を出し、形式上はともかく、事実上の対十字軍司令官となった。

 そこで会議が一段落したため、バイバルスは気晴らしに臨時の王宮の外へ出た。

 そこには、緑玉の瞳の女性が立っていた。


「……師匠」

「どうした、衣装係だった身には、やはり重いか?」

「……いや」

「ふむ、少しは男の顔をするようになったな」

「褒めても何も出ん」

「当然だ、むしろ今のは、わたしからの褒美だ」

「ありがたく感謝しておく」


 バイバルスは青い目を、やはり青い空に向けた。

 どこまでも広がる砂色の砂漠と、その上に広がる碧空は、見事な一幅の絵を思わせた。


「……もし、十字軍に勝ったら、もっと褒美をもらえるのか、師匠?」

「……そうだな。しかし、わたしはホラズムの娘。亡国の仇であるモンゴルに勝てる男でないと、もらわれる気にならんぞ」

「話が飛躍しすぎだろ。もうちょっと奥義とか、新しい術を教えるとか……」

「……お前の方が飛躍し過ぎだ」


 ゼノビアが拗ねたように口をとがらせ、バイバルスのすねを蹴った。いてて、と言いながらもバイバルスは怒ることなく、頭を掻いて、建物の中に戻るのだった。こう、呟きながら。


「……モンゴルに勝てる、か」


 ……後年、アイン・ジャールートという地にて、バイバルスがモンゴルのイル・ハーン朝の軍を撃破し、イスラム世界を守ることになるとは、このときのバイバルスもゼノビアも、つゆ知らぬことであった。

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