05 王妃シャジャル・アッ=ドゥッル

 バイバルス・アル=ブンドクダーリーが、師であるゼノビアと共に敵情視察を終え、国王スルタンサーリフの親征軍の元に帰ってきて早々、その国王からの呼び出しだ、と近衛の兵がやってきた。


夕餉ゆうげを食べるいとまぐらいくれないか」


 近衛兵は黙って首を振り、「確かに伝えましたからな」と言って、帰っていった。


「……ちっ」

「品が悪いぞ、アル=ブンドクダーリー」


 ゼノビアがバイバルスの頭を小突く。いてて、とバイバルスはわざとらしく言いながらも立ち上がり、国王サーリフの居室へ向かう。

 その背後に、ゼノビアがついて歩いてくる。


「……ついてくるな」

「おぬしを心配している」

「はあ?」

「正式な軍議ではなく、この折に、しかも敵地潜入という大任を終えたばかりのおぬしを何故呼ぶ?」

「復命して欲しいんだろ」

「それにしたって食事の暇ぐらい、有っても良いと思うが?」

「……今は戦時中だ」

「もう、気づいているんだろう?」

「…………」


 ゼノビアの深緑の瞳がまっすぐにバイバルスを見据える。

 バイバルスはその碧眼を閉じ、さきほどの近衛兵の様子を思い出す。

 そう、いかにも唐突、という感じで近衛兵はやって来た。

 通常なら、上司であるアクターイを通じて勅命が下るはず。

 今、アクターイはイラクへの出向を命じられているから、形式上、国軍を指揮する立場であるファフルッディーン・ユースフあたりが勅命を伝えるべきではないか。


「……謹厳な国王サーリフ陛下らしからぬ振る舞い、何かある。わたしのホラズムの血がそう告げておる」

「……ついでに言うと、サーリフ陛下でなくとも、何者かがいるってことか」


 二人とも、サーリフの病については触れない。そしてそれ以上のことも。

 不敬の極みとして、糾弾されかねない。

 毀誉褒貶の激しい王宮そのまま動座してきての親征だ。

 どこかで誰かが聞き耳を立てているやもしれぬ。

 ゼノビアが気配を消した。

 サーリフの居室の前に来たのだ。

 ゼノビアがそっと壁に耳朶を付けて、中をうかがう。目立たないよう、体をくねらせて壁に寄せ付ける姿態しなは、いっそなまめかしいと言っていいくらいだったが、バイバルスは壁の向こうより漂う、ただならぬ緊張感でそれどころではなかった。

 ゼノビアが目配せする。

 気配が尋常ではない、と。

 バイバルスは、横目でちらと近衛兵の配置を確認する。

 距離はある。

 いざとなれば、ゼノビアと共に駆ければ。


たれじゃ」


 居室の内から響く、玲瓏れいろうたる声。

 美貌の王妃、シャジャル・アッ=ドゥッルだ。

 さすがに緊迫した雰囲気に気づいたか。

 バイバルスは覚悟を決めて、声を発する。


「臣、バイバルス・アル=ブンドクダーリー、お呼びにより参上した次第」

「おお」


 居室の入り口の幕が、少し、ほんの少し上げられる。

 シャジャルが片目だけでバイバルスの姿を確認する。


「待ちわびたぞ、バイバルス将軍。では……」

「お待ち下され。なにゆえサーリフ陛下ではなく、王妃さまが?」


 その声はゼノビアのものだった。

 シャジャルは胡乱な目つきをして、ゼノビアを見る。


「何じゃ、こちらの女性にょしょうは」

「ホラズムの族長のむすめ、ゼノビア」

「ゼノビア……」


 シャジャルはゼノビアを改めて見る。意志の強そうな目鼻立ち。均整の取れた体つきは、鍛えられていることを感じさせる。

 この際、この女も抱き込んでおけば、これからの計画に都合がいいか。


「中へ」


 シャジャルは幕を上げ、バイバルスとゼノビアを招じ入れた。



 寝台に横たえられた、かつて国王だった男の遺骸に、バイバルスとゼノビアは瞑目して祈りをささげた。

 さすがに動揺は禁じえなかったが、それでも声を上げていたずらに耳目を集めるような真似はしなかった。


「お悔やみ申し上げます」

「大儀」


 シャジャルは二人に短くこたえる。二人も、長々と弔辞を述べている場合ではないことは理解しているため、黙礼するにとどめた。


「さて、これからじゃ」


 シャジャルは腕を組み、片手の上に形の良いあごを乗せて考える。絵になる女だ、とバイバルスは思ったが、隣のゼノビアの視線を受けて、それには触れずに、言った。


「……これから、とは」

「むろん、わがつまの死を隠して、、ということじゃ」

「…………」


 何をやるのか、とは誰も言わない。

 十字軍フランクとの戦いを意味しているのは、明白だった。

 サーリフは王位継承の争いに勝利して、かつ、十字軍国家(エルサレム、シリアのあたりの十字軍が占領して開いた国々)との戦争にも勝利している。

 そのような王が陣没してしまう。

 素直に公表すれば、アイユーブ朝エジプト軍の士気は落ち、かつ、十字軍がこの機に乗じて、更なる攻撃を重ねてくることは、火を見るよりも明らかである。

 と、なれば。


「夫の、王の死は秘する。その上で、十字軍と戦う。戦って、勝利する」

「…………」


 バイバルスは頭をいて誤魔化したい気分だったが、さすがにそれは不敬だと思って慎む。

 ゼノビアがじっとそのバイバルスの横顔を見つめる。

 こんなときに、そんな表情をするとは、本当に卑怯だ。

 バイバルスは歎息たんそくして、それから口を開いた。


「……で、王妃さまにおかれましては、拙者に軍を率いて、十字軍に勝て、と」

「そうじゃ」

「ファフルッディーン・ユースフ将軍にお命じにはならないので?」

「そなたはマムルークじゃな」


 それが答えだ、とばかりにシャジャルは冷然と言った。

 サーリフ王のマムルーク、つまり戦争のために終身雇用の契約を結んだ人間であり、それはサーリフ王の配偶者たるシャジャルに、その契約が相続される。

 つまりバイバルスは、サーリフの未亡人であるシャジャルに対しても、戦わなくてはならない立場にある。


有体ありていに言うと、逆らえないから、ということかな、王妃さま」


 これはゼノビアである。

 シャジャルはうなずき、そして二人の女性は視線を交わした。


「……ファフルッディーン・ユースフに命じても良かったが、それでは下剋上となるやもしれぬ。そして、この国は、そういう下剋上に興じている暇は無い」

「至言ですな、王妃さまが国王陛下に成り代わるというところをのぞけば」


 シャジャルが目を見開き、今度は真正面からゼノビアを睨む。ゼノビアは怯むことなく、睨み返した。


「よせ、師匠」


 バイバルスは軽くゼノビアの肩に手を乗せて、自重を求めた。


、事情は分かりました……が、にわかに『勝て』とおっしゃられても、非才の身には余ること。それはご承知おきのほどを」

わらわとしても、必勝は求めぬ。ただ、このまま軍が、国が瓦解するような所業まねは避けたい。妾がとしてこの国を治め、戦うにしてもだ……そのためにも、戦うのならせめて、負けはせぬようにはできぬのか」

「負けはしない戦い方……」


 シャジャルの現実的に国難を回避したいという気持ちは分かったが、バイバルスとしては、はいそうですかと了解するわけにはいかない。

 ルイ九世率いる第七回十字軍は、アルトワ伯ロベール、シャルル・ダンジューのような将に恵まれている。軍勢は二万。さらに、後詰めとしてキプロスにルイ九世の腹心であり弟であるポワチエ伯アルフォンスが控えている。

 対するや、アイユーブ朝は、国王スルタンサーリフが死に、王子トゥーラーン・シャーはまだ遠くイラクにおり、ファフルッディーン・ユースフはダミエッタから遁走したと言われている。頼みの綱のバフリー・マムルークも、長であるアクターイがトゥーラーン・シャーとの交代のためにイラクへと旅立ち、残されたバイバルスが統括している……そんな状況であった。

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