04 王の死
サーリフは
が、その進軍途中に。
「陛下、陛下?」
王妃シャジャル・アッ=ドゥッルが
元々、病を押しての親征だった。
当初、サーリフとしては、ダミエッタとエルサレムの交換を条件に、ルイ九世との和睦を狙っていた。これは、第六回十字軍を率いる神聖ローマ帝国
しかし、ルイ九世は、その和睦の申し出を蹴った。ルイ九世は、弟であるアルトワ伯ロベールをエジプト王に据えることを前提に、つまりエジプト征服を目論んで、十字軍の兵を挙げたのだ。これは、フリードリヒ二世が戦わずしてエルサレムを調略したことを、「真の十字軍の戦いにあらず」と非難されたことを意識していると思われる。
……こうして、サーリフとしては、交渉決裂により、戦いへと向かわざるを得なくなった。病身であるのにもかかわらず。
そして無理がたたり、独り、誰にも知られることなく、簡素な臨時の宮殿の中でその生涯を終えることになった。
「……陛下」
真珠の樹という意味の名を持つ美貌の王妃、シャジャルは聡明でもあった。病に侵された国王の介添えとして従軍した彼女は、今、国王崩御を秘さねば、軍は、いや国が瓦解するということを瞬時に理解した。
王子トゥーラーン・シャーは、モンゴルへの牽制としてイラクに駐屯している。現在、対十字軍の戦線に加えるため、亡くなる直前にサーリフが召還命令を発し、イラクへはバフリー・マムルークの長アクターイが交代のために向かっている。しかし、王子が戻るには、まだ時日を要するであろう。
「……やるしかない」
シャジャルは王の居室の中に誰もいないことを確認し、居室の外の近衛の兵たちに、少し距離を取るよう命じた。
「陛下との
近衛兵のうち、若い者は頬を赤らめながら居室から離れた。
次にシャジャルは、持ってきた夕餉を食べた。
「……ふう」
これで、空となった夕餉の食器を持ち帰れば、サーリフは生きているということになる。少なくとも今宵は。
美貌のシャジャルはその柳眉をひそめながら、今後どうするかを考える。
「協力者が必要……軍の内部に」
今、喫緊の対応が求められるのは、ルイ九世率いる第七回十字軍への対策である。
事ここに至っては、もはや戦わざるを得まい。
ならば。
アイユーブ朝の兵を率いて、勝利をつかみ取ることのできる協力者が必要だ。
「でも……そんなことができる者がいるのだろうか? それこそ、サラディンのような」
サラディン。
あるいは、サラーフ・アッディーン。
アイユーブ朝の創始者であり、イングランドのリチャード
いずれにせよ、バフリー・マムルークを今、率いるのはたしか……
「バイバルス・アル=ブンドクダーリーか」
衣装係の身から副隊長にまで昇りつめた男だ。最近では、
本人の意思はともかく、サーリフの死と協力を告げざるを得ない。
「……よし」
シャジャルは空となった夕餉の食器を盆に置き、居室を出る。
「誰かある。これを下げよ。そしてバイバルスを呼んでくりゃれ」
近くにいた近衛の兵が恭しく一礼して盆を受け取り、そして走り去っていった。
シャジャル・アッ=ドゥッル。
夫・
だが今は、聖王の侵略という国難を前に、必死に頭を働かせ、思い悩むひとりの未亡人である。
「
「……それこそ、やはり古代の女王、ゼノビアのように」
古代におけるシリア、パルミラ帝国の女王、ゼノビア。バイバルスの師であるゼノビアの名は、彼女の名を由来としている。パルミラ帝国のゼノビアは、ローマ帝国を相手取り、自ら馬に乗って、戦争を仕掛け、エジプトをもぎ取り、古代オリエント世界に覇を唱えた一代の女傑である。
ただ、最後はローマに破れ、虜囚となった。
シャジャルとしてはその轍を踏むわけにはいかない。
「妾はクレオパトラやゼノビアにはならぬ。妾はシャジャル、シャジャル・アッ=ドゥッル。妾のやり方で、この危機を乗り越えてみせる」
未来の女王の目に、不退転の決意が宿っていた。
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