03 マムルーク

 

 そも、バイバルス・アル=ブンドクダーリーとは何者か。


 実はバイバルスについては、王弟ロベールが早速に間諜を放って、かつ、ダミエッタの街の協力者から、情報を得ていた。

 ロベールは敵軍・アイユーブ朝について報告をまとめ、兄であり主君であるルイ九世の居室へ向かった。


「バイバルス・アル=ブンドクダーリー?」

「この国の『戦奴』ともいうべき、兵としての奴隷、こちらの言葉で言うマムルークという部隊の幹部だ、兄者」


 ルイ九世は、ロベールの報告書を少し見て、言った。


「……なるほどな、他国の難民、特に草原の民を戦争用の奴隷、つまりマムルークにしている……と。で、国王スルタンサーリフ直属の精鋭部隊ともいうべき、バフリー・マムルーク……その長がアクターイそして……序列で第二位にあたる男が、このバイバルス・アル=ブンドクダーリーか」


 ルイ九世は丁寧に頭を下げてから、ロベールに報告書を戻す。臣下や兄弟であっても、礼を欠かさない男である。


「兄者、本来であればアイユーブ朝の、ダミエッタとその周囲の守将は、ファフルッディーン・ユースフ将軍だが、奴は逃げ腰。ならばバフリー・マムルークが要注意だ」

「しかし……そのバイバルスとやらが奴かもしれないという証拠は?」

「これは未確認だが、兄者」


 ロベールは噂話の類だ、と断りを入れた。


「そのバイバルスはそもそも衣装係だったのにもかかわらず、今の地位に就いたらしいのだ」

「…………」


 戦争用の奴隷であるにもかかわらず、衣装係という戦争と直接関わりのない役職だったはずの男が、精鋭部隊の副隊長というべき地位に就いている。その異常な状況が、バイバルスなる者が端倪すべからざる男だと言うことを証明していた。


「だから、おれは機先を制するべきだと思う、兄者」

「……申せ」


 ルイ九世には、ロベールが何を言わんとしているかが読めていた。が、やはり確認をしておきたかった。


「急ぎカイロを、エジプトの首都を制すべき。こういう下から上がってくる奴こそ要注意なんだ。勢いづいてからでは、遅い。今のうちに、こういう奴が軍を掌握する前にこそ、討つべし」


 ロベールは拳を振り上げて、兄であるルイ九世に訴えた。


「…………」


 ルイ九世としては、ロベールが十字軍の暁の、エジプト王に就くことを意識していると感じていた。

 意識するのはいい。

 気概を持つのはいい。

 しかし、性急にことを運ぶのは、危うきに過ぎる。

 ルイ九世は、何か適当な理由を付けて、とりあえずロベールの要求を退けようと思った。

 そのとき、居室の入り口から、ジャン・ド・ジョアンヴィルが一礼して入って来た。


「陛下、おそれながら」


 ジャンがルイ九世の近くにまで来てその耳にささやく。

 ジャンはシャンパーニュ伯の重臣セネシャルであるが、この十字軍の征旅の最中にルイ九世の知遇を得て、耳打ちまでの仲になっていた。むろん、それを知るロベールも咎めようとはしなかった。


「……分かった。下がってよい」


 ルイ九世はジャンに礼を言ってから、ロベールと二人きりになりたい旨述べて、下がらせた。

 ジャンが遠ざかっていくことを確認すると、ルイ九世はロベールに向き直った。


「ロベールよ」

「はい」

「シャルルが街の商人から得た情報によると、もうナイルの氾濫、迫っているらしい」


 人類史に黎明をもたらした大河・ナイル。

 そのナイルの川の流れは、季節によって変わる。

 すなわち、増水期と減水期であり、ルイ九世率いる第七回十字軍は折悪しく、増水期にさしかかっていた。

 ロベールとしてもそれを承知していたが、いや、承知していたからこそ、拙速ではあるが、カイロへ攻めかかるという案を提示したのであった。

 だが、自らアラビア語を修め、そしてダミエッタの街中へと足を踏み入れている末弟シャルル・ダンジューの進言ということであれば、無視できない。


「……今はあきらめよ、ロベール」

「……承知しました」


 速攻により、回教徒イスラムの王城カイロをとし、エジプトに覇を唱え、もって聖地エルサレムを奪還する。騎士として、これほどの名誉な雄図はあるまい。

 そう考えていたロベールだが、現実はわきまえている。そうでなくては『王』を目指さない。


「では、ナイルの流れが落ち着いた暁には」

「むろんだロベール、ではないアルトワ伯よ、そのときの先鋒は、汝である」


 ルイ九世は弟ではなく、敢えて貴族として、一軍の将としてロベールに命じた。



「悠久のナイルが、長城と化してくれそうだぞ……アル=ブンドクダーリー」

「逃げ遅れた民に金銭かねをやって吹聴した甲斐があった、というところか、師匠」


 ルイ九世が陣営としているダミエッタの豪商のやしき

 その裏手に潜む、二つの影。

 バイバルスとその師であるゼノビアのものである。


「……この邸を本営にすると思っていたら、案の定であったな」


 ゼノビアは逃げ出した商人の中で、最も裕福そうな金持ちを見つけ、バイバルス・アル=ブンドクダーリーのマムルーク副隊長の地位をちらつかせて、邸の見取り図をせしめていた。そして十字軍に雇い入れられた現地の召使いたちに鼻薬を利かせて、このルイ九世の居室の窓の外に隠れ忍んでいたのだ。


「しかしよく師匠は十字軍フランクの言葉が分かるな」

「わがホラズムがエルサレムを陥落せしめたのを忘れたか」


 ホラズム。かつて中央アジアにて繁栄を誇った国である。だがモンゴルの登場により、歴史からの退場を余儀なくされ、最後の国王スルタンにして勇将ジャラール・ウッディーンの奮闘むなしく滅亡してしまった。

 だがその残党ともいうべき集団が、このオリエントに現れ、いわば傭兵として活躍し、アイユーブ朝の国王サーリフがエルサレム攻略を依頼して、見事その包囲戦に勝利したという経歴がある。

 ゼノビアはそのホラズムの娘であり、亡国による苦心惨憺の中から編み出された隠密術、武芸を誇る。

 キプチャク草原から奴隷として連れられ売られ、そして戦奴マムルークとして扱われている身のバイバルスとしては、それら術は是非身につけておきたいものであった。そこでホラズム衆とでも呼ぶべき集団の長・ベルケに頭を下げて、稽古をつけてくれるよう頼んだところ、「娘だ」と言って、ゼノビアを紹介されたのである。

 以降、何かにつけてゼノビアはバイバルスのところへやってきては「稽古」と称して、時に剣を教え、時に街中城中を忍び歩かせた。

 その修行の日々を過ごしている内に、やがて十字軍フランク襲来の報が入った。しかもバフリー・マムルーク部隊の長、アクターイは折悪しく不在であった。

 そうこうしているうちに、国王スルタンサーリフの「勅命」として、バイバルスがバフリー・マムルーク部隊の指揮を執ることになり、ダミエッタに陣をかまえる守将のファフルッディーン・ユースフの元へ向かったところ、肝心のファフルッディーンとその軍が遁走した後であった。


「……カラーウーンに部隊の指揮を頼んで、忍んできたものの、これでは御味方は不利だな。十字軍フランクは士気も高いし、人材もそろっている」

「頼みはナイルの流れのみ、か」


 バイバルスの愚痴をゼノビアが引き取る。

 その時、ルイ九世は窓外に何かの気配を感じたのか、窓に向かって歩き始めた。


「…………」

「…………」


 ゼノビアが無言でうなずくと、バイバルスもうなずき、二人は無音で足を運び、ルイ九世が窓の外を見回す頃には、邸から出て、喧騒を取り戻しつつあったダミエッタの街の中へと溶け込んでいった。

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