02 ダミエッタ



 ダミエッタ。

 エジプトの地中海の港町である。ナイル川の河口にあり、ナイルの水運の街でもある。

 この街は、第五回十字軍において十字軍側に陥落したが、その第五回十字軍の参加諸侯の足並みがそろわず、特に枢機卿ペラギウスの独断専行が目立ったため、浮足立った第五回十字軍はやがてナイル川の氾濫に見舞われ孤立し、降伏を余儀なくされた。そのときに、ダミエッタはアイユーブ朝に返還されている。


「市場も活気がないな」


 早速に街の雰囲気を掴もうと、街の目抜き通りを歩いていたシャルル・ダンジューは、商店に客気が無く、というか街全体に人がいないことに気がついた。


「……やはり、アイユーブ朝・ファフルッディーン将軍が逃げ出したことが大きいか」


 シャルルは、数少ない営業していた商店から、無花果いちじくを買って、むしゃむしゃと食べ始めた。


「殿下、そのような……」

「旨いぞ。ジャンも食べないか」 


 シャルルはいわゆる王侯貴族であるが、それに頓着せず、じつに美味しそうに無花果をむさぼっている。船旅で、新鮮な果実に飢えていた。だからこそ、こういう無花果がありがたい。それを見ていた、お付きのジャン・ド・ジョアンヴィルもまた、押し出されるように渡された無花果にかじりついた。

 シャルルは青果店の店主おやじに、ついでとばかりに問う。


「……調子はどうだい?」


 シャルルはアラビア語で話した。アラビア語に堪能であった神聖ローマ帝国皇帝カイザー・フリードリヒ二世ほどではないが、それなりに流暢ではあった。

 店主はまさかのアラビア語にびっくりしたような表情をしたが、現状、ダミエッタの街を支配している十字軍の将校(とおぼしき人物)に逆らうのは得策ではないと考えたのか、肩をすくめながらこたえた。


「そりゃもう、旦那がたのおかげで、金銭かねを持ってそうな奴ぁ、逃げっちまったさね。おかげで……」

「商売あがったり、か」


 シャルルが店主の発言を引き取る。ジャンはいいが、他の街の人々の目と耳がある。あまり不敬な発言を許しては、あとで店主が密告で迷惑をこうむることを警戒したのだ。

 シャルルは店主に礼を言って、他に商いをしている者がいないか聞いた。


「そうさな、東の方から来たっていう絹の行商人が、さっきあっちに歩いて行った」


 えらい別嬪べっぴんの連れ合いがいて、それで覚えていた、と店主は付けくわえた。



 ダミエッタの目抜き通りを、その一組の男女は荷を抱えて歩いていた。


「アル=ブンドクダーリー」


 女が男に声をかける。

 アル=ブンドクダーリーと呼ばれた男は振り返る。


「……どうやら、あそこの十字軍フランクの将校が、用事がありそうに見える」

「そうですな」


 アル=ブンドクダーリー呼ばれた男は、精悍な褐色の肌をしており、その碧眼で、じろりと後方をうかがった。


「……いいべべを着ている。十字軍の中でも、上位の者と見た」

べべ


 女の方は、優美な顔の、翡翠色の瞳をおどらすようにしてアル=ブンドクダーリーを見て、笑った。


「……随分とまあ、砕けた物言いだな、アル=ブンドクダーリー」

「放っておいてもらおう、師匠。これから、もっと砕けた口調で話すゆえ、合わせを頼む」

きかな」


 女は嫣然と微笑む。アル=ブンドクダーリーも女も、まだ過去よりも未来に多くを持つ、若者である。

 若者たちの荷は、絹。後世、絹の道シルクロードと呼ばれる通商路を経由して、遥か東の果てから来た輸入品である。

 やがてアル=ブンドクダーリーの耳に聞こえる跫音あしおとが大きくなり、その跫音の主が声をかけてきた。


「そこな商人、絹を商っておると見るが」


 シャルル・ダンジューが、ジャン・ド・ジョアンヴィルに残りの無花果を無理矢理預け、駆けてきた姿がそこにあった。

 アル=ブンドクダーリーは、内心、シャルルのアラビア語に舌を巻きながら、うやうやしく一礼してこたえた。


「左様でございます。遠く中国ヒタイよりもたらされし絹」

「…………」


 シャルルが不得要領な表情をしているので、アル=ブンドクダーリーは、さらに言葉を崩した。


「これ、絹でさあ、旦那。絹の道を通ってやってきた」

「……おお、そうか」


 シャルルは貴公子らしく鷹揚にうなずき、絹を見せてもらうよう、荷を指差して頼んだ。


「はいはい……これは上物で……」


 だがそのアル=ブンドクダーリーの口上は、シャルルのたどたどしいアラビア語で中断される。


「いや。絹が、絹の道を通ってきた、というのを、教えて欲しい」


 シャルルは兄であるルイ九世と話したモンゴルの動向が気になっていた。もし万が一、十字軍とイスラムの争いに乗じて、漁夫の利を得ようとするのなら、それを察知しておく必要がある。そのため、彼にとって、東から来たという人間は珍重すべき価値があった。


「その絹の道はモンゴルに邪魔されなかったのか?」

「あのような無法者どもに邪魔は許さず」


 アル=ブンドクダーリーの横にいた若い女が宣言するように言った。それはまるで女王が宣戦を布告するような口調であった。

 アル=ブンドクダーリーは、まずい、と思い、女に肘鉄を入れた。

 女が下を向いて呻くのに構わず、その前に出て、シャルルに取り繕う。


「……すいやせん、旦那、こいつ、アッシもそうですが、エジプトに来たばかりで、言葉がうまくできないんでさ」


 モンゴルとの接触を避け、うのていでやって来たのです、と付けくわえて、アル=ブンドクダーリーは話題を変えようと絹を取り出した。


「……へえ、ご覧なせえ、この絹。この手触り」

「……ほう」


 シャルルも別に行商人の女に非礼を問うつもりはなく、そしてやはり絹にも興味があったために、話題の転換に応じた。

 一方、アル=ブンドクダーリーは女の鋭い蹴りを二、三発食らいながらも耐えて、にこやかな表情を保っていた。


「あ・と・で・お・ぼ・え・て・ろ……師匠」

「……フン、不肖の弟子が。いい気になるな」

「大体、師匠が失言を……」


 実はこの会話は小声で、しかもペルシア語で行われたため、シャルルにはよく聞こえず気づかれず、絹をめつすがめつ眺めていた。

 そしてふとシャルルが顔を上げると、泣き笑いの表情をしているアル=ブンドクダーリーがいて、女は素知らぬふりをして、口笛を吹いていた。


「……ふうむ、い絹だ。いくらだ?」

「……よろしいので?」

「売るために売ってるんだろう? そうか、届け先があるのか?」

「いえいえ……まさかフラン……いや、異国の方に買ってもらえるとは」


 ふ、とシャルルは笑った。


「遠慮なく十字軍フランクと言えば良い。私は気にしない」

「そりゃまた……気を遣わせちまって……」

「アル=ブンドクダーリー」


 アル=ブンドクダーリーの背後から女が声をかける。


「……こちらの仏蘭西フランスの殿方、絹の目利きは良いようだ。売ってよかろうが」

「師……じゃない、ゼノビア」


 ゼノビアという女は、緑色の瞳を輝かせて笑う。


「わたしが見立てた絹を良いと言っているのであろう? では目利きは良いはずだ」


 シャルルは、ゼノビアの横顔を見とれるように眺めた。

 改めて見ると佳い女だ。

 そう思ったが、即、手を出すという発想はシャルルにはない。プロヴァンス伯の地位も所有しているシャルルだが、それは妻のベアトリスがプロヴァンス伯の血筋だからだ。そしてベアトリスは長男を生んだばかりで、ここで他の女に手を出したら、ただでさえ不安定なプロヴァンスの支配がぐらつく。

 ゼノビアはそのようなシャルルの思惑など意に介せず、指を数本立てて、彼に語り掛けた。


「これくらいでどうか? 奥方さまなりとも、この絹を」

「ふむ……」


 シャルルは手に取った絹を撫で、そして少し考えたのち、言った。


「買おう」

「ありがとうございます」


 アル=ブンドクダーリーは揉み手して礼を言い、ジャン・ド・ジョアンヴィルが懐から金貨を何枚か出した。

 アル=ブンドクダーリーが金貨を数えている横で、ゼノビアが口を出す。


「……失礼ながら、どちらに贈られるのか、教えてもらえるか」


 僭越な質問だとアル=ブンドクダーリーは思ったが、シャルルは鷹揚に答えた。


「兄が義姉を連れてきておる。で、兄に渡して、あとは任せるつもりよ」


 シャルルは悪だくみをする子どものようにウインクして笑った。

 ルイ九世は十字軍に妻・マルグリット・ド・プロヴァンス(シャルルの妻・ベアトリスの姉)を随伴していた。フランス本国にいては、母后ブランシュ・ド・カスティーユの目が光っていて、ルイ九世とマルグリットはろくに逢瀬を重ねることができなかったためだ(ブランシュは二人が会うのを忌避していた)。


「遠征に奥方を随伴とは、兄君はよほどの地位の方であろうな?」


 ゼノビアは、アル=ブンドクダーリーが裾を引っ張って「やめろ」と言うのにもかかわらず、豪胆に言った。


「左様。兄はフランス国王。この遠征軍の総帥よ」


 シャルルは特段意に介さず答えた。後ろにいたジャン・ド・ジョアンヴィルが「おめを」と囁いていたが、シャルルにとっては何の抑止力にもならなかった。


「ジャンよ、隠すことは無かろう。むしろ、この街は王弟が闊歩するほど、治安が保たれているとの、宣伝になる」

暗殺者アサシンを警戒する必要は、お忘れめさるな」


 分かった分かったと、シャルルはいい加減にうなずきながら、ゼノビアにもう一度ウインクして「ごきげんようオールヴォワール」と言って、去っていった。



「なかなか見る目のある十字軍フランクだったな」

「阿呆か」


 アル=ブンドクダーリーは「師匠」と呼んでいたはずのゼノビアに対して毒づいた。


「……今、阿呆と言ったか」

「言った」

「貴様、師匠であるわたしを何だと……」

「うるさい。そもそも、ついてくるなと言ったのに、ついてくる時点で阿呆だ」

「うるさいとは何だ、バイバルス!」

「……おい、その名で呼ぶな。叛乱軍の指導者っぽくて厭なんだよ」


 一二四四年のガザ郊外のラ・フォルビーの戦いのアイユーブ朝エジプト軍の指揮者、バイバルスは、戦後、そのアイユーブ朝に逮捕されて獄死した人物である。

 このバイバルス・アル=ブンドクダーリーは、その虜囚のバイバルス将軍とは別人である。


「ファフルッディーン・ユースフ将軍は、あっさり逃げたが」


 アル=ブンドクダーリーの方のバイバルスは、絹を持って目抜き通りを闊歩するシャルルに目を向ける。


「ああいう肝の据わった男が率いているとなると、やはり十字軍フランクから逃げて正解だったかもしれん」

「……単に臆病なだけだろうが」


 ゼノビアはいつの間にかチャドルを身にまとい、顔も目だけ出す格好となり、さきほどとはちがって楚々たる印象を周りに与える感じになっていた。


「……ほれ、お前も早くターバンを巻け。隠密らしくしろ」

「……ちっ」


 ゼノビアはバイバルスの武芸、隠密活動の師匠である。


「いくつになっても、あまり慣れないから、嫌いなんだがな」

「ぶつくさ言うな。早く尾行にかかれ。敵将と知らずに出会えたこの僥倖を逃がすな」


 分かっている、とアル=ブンドクダーリーは大急ぎでターバンを巻き、シャルル・ダンジューの後を追いかけるのであった。

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