14 王弟ロベール
フランス国王・ルイ九世の弟、王弟ロベールは、今やアイユーブ朝の王城であるマンスーラへの突撃を敢行するにあたって、イングランドから派遣されたウィリアム・ロンジェスピー、テンプル騎士団といった面々を周りに集めた。
「諸君に言っておく」
そう断わりを入れて、ロベールは演説を始めた。
「このアルトワ伯ロベール、王弟といえば響きは良いが、その実、食いつめ者である。いや、王族の次男坊以下なんぞ、こういうものだ。おれは兄であり主君であるルイ九世がまともだからこそ、こうしてアルトワ伯を名乗ることを許されている」
兄弟であろうと相争うのが、王侯貴族というものだ。ゆえにこそ、次男以下には権力基盤を持たさない例は、ままある。しかしロベールは幸運なことに、ルイ九世が王権拡張の同志として扱ってくれたため、アルトワ伯という爵位と領地を得た。
「しかしそれは兄あってのことだ。自らもぎ取った領地ではない。おれは、おれ自身が獲得した領土が、地位が欲しかった」
そこへもって、この第七回十字軍だ。しかも、ルイ九世は、ロベールをエジプトの王に据えようとしていた。
「おれは奮った。望んだ領土を、しかもおれ自身の手で獲ることができるのだ……ひるがえって、諸君はどうだ?」
ロベールの問いかけに、一同、しんとなる。
「……答えなくとも良い。おれと同じだろう? 食いつめ者だ。だからこそ、これからのおれの戦いを助けてくれると信じる。そして礼はする。おれがエジプト王になった暁には、諸君らに名誉ある地位と、豊かな領土を約束しよう……どうだ?」
今度の問いかけは、歓呼でこたえられた。ロベールはうなずき、そして打ち揃って、マンスーラへの進撃を開始するのだった。
*
一方のアイユーブ朝の側は、王妃シャジャル・アッ=ドゥッルが亡夫の遺骸とともに、マンスーラに残り、バイバルスらマムルークの軍勢は、廷臣や街の人々を率いて脱出する、という方針が公表された。
マンスーラの街はごった返し、われ先にと街からの脱出行に加わろうと、カイロの側の城門へと人々は集結していった。
「聞いたか? 王様は死んでたんだとよ?」
「アンタ、そんなの何日も前から
「そんなことより、
「ダミエッタでも逃げて、このマンスーラでも逃げんのか……もうこの国も終わりだ……」
思い思いの言葉を口にして、それでもまだ混乱には至らないのは、さすがに事実上の国王であるシャジャルが最後まで街に残るということが、人々に一抹の安心を与えていたのかもしれない。
その人々の中に、当然、十字軍の間諜もいて――彼らは、群衆の中をするりと抜けていき、一路、フランスの王弟、アンジュー伯シャルルの元へと向かうのであった。
その間諜たちの背を見つめる影が一つ。
「……不肖の弟子にしては、なかなかだ」
ホラズムの娘、ゼノビアである。父・ベルケの率いるホラズム族の天幕で、しばしの休息と着替えを済ませた彼女は、早速にマンスーラの内情を知るべく、忍び入っていた。
「王妃が残る、というのは事実らしいな……だからこそ、その知らせが千里を走る」
不肖の弟子ことバイバルスが、師である自分が教えたことを忠実に実行しているのは嬉しくもあり、そして自分がいなくともそこまでやってのけるのは、寂しくもある。
「……だがまだ甘い。決戦の地は、ここマンスーラの市街か? それを悟られぬようにしないと」
やはりわたしがいないと、あのひょろがりは駄目だな、と笑みをこぼしながら言うと、ゼノビアは、十字軍の間諜たちの後を追うのだった。
*
「カラーウーン!」
「
バフリー・マムルークの面々は、マンスーラの民衆の脱出に忙殺されている。
マンスーラからのこの脱出は、何も人を助けるためだけではない。戦場となるマンスーラに、戦いの邪魔となる人間がいなくなるよう、空っぽにするためだ。
「あとは、うまく十字軍が王妃という餌におびき出されてくれば良いのだが」
「お前の師というあの女に頼んでみれば良いではないか」
「…………」
カラーウーンは遠慮なくバイバルスに向かって、ゼノビアの助力を仰げと言ってきた。バイバルスは、物凄く厭そうな
「……あの女は、置いてきた。もう師でも何でもない」
「なんと、ついにものにしたか」
「阿呆か」
何でもできる、頼りになる同僚だが、こういうところが苦手だ。なまじ美丈夫なだけに、浮き名を流し、女のことになると食いついてくる。
「……ここだけの話、あの女に声をかけたことがある。が、澄まして返事をしてくれなかった」
「カラーウーン、もうあの女の話はやめろ」
「それがどうだ。お前が出てくると、あの舌鋒だ。これはおれの見るところ……」
「やめろ……いや、本当にやめろ。
バイバルスが駆けだすと、都合のいいことだ、とぼやきながらカラーウーンもついてくる。斥候は、息を荒くしながらも、バイバルスの差し出した水を飲むと、一気に報告した。
「アルトワ伯ロベールの部隊のみ、急進しています。アンジュー伯シャルルの部隊は後詰めとして、今いる場に残る模様」
「ふむ」
「おい、いいのか、バイバルス。ひっかかったのがアルトワ伯だけで」
「いや、アンジュー伯がいると厄介だから、かえって良いやもしれぬ」
「そういうものか」
「そういうものだ……では、手はずどおり、全員、配置につけ!」
カラーウーンも含め、バフリー・マムルークは命令一下、マンスーラの城門の砦に入っていった。
*
アンジュー伯シャルルは、後方から追いついてきたポワチエ伯アルフォンスと馬上、顔を合わせた。
「シャルルよ、もうちょっとロベール兄さんに付いていてやってくれ」
「いや、兄上。これはロベール兄上に止められたのだ」
「なんと」
ロベールは、マンスーラ攻略が危険を伴うことを知っていた。それゆえに、シャルルを後詰めに残したのである。
「仮にも王城の街。そう易々と攻め取れるとは思わぬ……ゆえに、まずかったら、ウィリアム卿やテンプル騎士団を脱出させる、とのことだ」
シャルルとしても、そこまで言われては、残らざるを得ない。ロベールの貫禄勝ちというところだった。
「ルイ兄さんは、そこまで読んで、私を
アルフォンスは兄弟たちを敢えて家庭的な呼び方をしていた。その方が、兄弟たちが大事だという気持ちが伝わると思っていたからだ。ひとつ、ため息をつく。たしかにロベールのやったとおり、この若い末弟を死地に征かせるというのは忍びない。
「そこまで読んでのルイ兄さん、いや、陛下の思し召し、か……よし、私はロベール兄さんを追う! シャルルはそのまま後詰めを!」
「
アルフォンスは手綱を握り、部隊を率いて、一路、マンスーラを目指していった。
*
「おい、バイバルス、アンジュー伯とは別の部隊が来ているぞ」
マンスーラの北の城門の砦の内にて、カラーウーンが遠目の利く部下からの報告を伝えてきた。
バイバルスは、砂塵を巻き上げて迫る、二つの十字軍の群れを見て、少し考えたが、言った。
「両方とも通す。通してから、作戦実行」
「了解。おい、行け」
カラーウーンが連れて来た部下に、バイバルスの命令を伝えるよう命じ、自分はバイバルスの隣に立った。
「……何だ? 行け、カラーウーン。お前は南の城門の担当だろう」
「いや、あのもうひとつの部隊は何だと思うかを……」
「おそらくポワチエ伯だ。ルイ王なら、もっと大所帯の部隊だ」
「そうか」
カラーウーンはうなずき、そして場を去り際に、言った。
「……そういえば、ホラズムのベルケから、出動要請が出ていたぞ」
「……適当なことを言って、マンスーラ防衛のどこかにでも当てておけ。これからの作戦、息の合ったマムルーク同士でないと無理だ」
「了解」
カラーウーンは何気なく返事をして、そして何気なくその城門を去った。
……その顔が、悪戯小僧のように笑っていたことを、バイバルスは知る由もなかった。
*
ロベールの軍がマンスーラの北の城門の前に到達すると、そこには、うずくまるひとつの影があった。
ロベールは果敢にも自らその影に問いかける。
「……おい、何をしている、そこで?」
「……これはこれは十字軍の御方ですかな? アタシはこの街で主をお祈りして、七十年にもなろうという、
媼、つまり老婆である。彼女は、十字を切って、ロベールの姿を拝むようにお辞儀をした。
「……生きてみるもんですじゃ、まさか遠くこの地にまで、十字軍が来ようとは……眼福でござりまする」
「ほう」
ロベールは彼女に、
「……かような
「おお」
ロベールは吉兆だと思った。キリスト教徒である以前に、武人として、このような媼がわざわざ出現して利をもたらしてくれることを、吉兆と言わずして、何であろう、と。
「では、教えてくれ、
「……王妃は、亡き王と共に町の中心の
「ふむ、敵ながら天晴な
「そして、今は、民はほぼ大半が逃げ去りましたのじゃ……早うせんと、王妃と王の遺骸も……」
「分かった。よく知らせてくれた」
ロベールは金貨を何枚か彼女に握らせ、そして馬に
「時は今! あの開いた城門から突入し、街の中心にある邸、そこにいるという王妃と王の死体を押さえる!」
シャジャル・アッ=ドゥッルと故サーリフを押さえれば、アイユーブ朝は、少なくともエジプトにおいては瓦解しよう。そうでなくとも、人質としてしまえば、あとは領土割譲なり、フランスの傀儡とするなり、やりようはいくらでもある。
「功成る時は、今ぞ、者ども! つづけ! エジプト王ロベールの誕生の瞬間を見たい者はつづけ! これでお前たちも、貴顕貴族の仲間入りぞ!」
勇躍するロベールに、意気上がる将兵もかけ声を上げて、追いかけていく。
マンスーラの城門をくぐれば、栄光が待っていると信じて。
……その後ろ姿を、
「……ふう」
その顔は妙齢の女性のものであり、瞳は緑色をしていた。
「
ホラズムの
「……それにしても、詰めが甘いぞ、不肖の弟子よ」
単に城門を開けておいただけで、そううかうかと十字軍が入ってくるか。せっかく王妃たちを餌にしたというのに、それを知らしめるのを敵の諜報に頼るとは、何たる迂闊。
「わたしがいたから良かったものの……」
困っているようではあるが、嬉しそうに笑うゼノビアは、次の瞬間、顔を引き締めると、同族のホラズムの部隊へ向けて、飛ぶように去っていった。
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