13 ナイルを越えて、今

 ルイ九世は、王弟の末弟、アンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)からの奇襲成功の知らせに接し、その勝利を寿ことほぐ使者を送り返した。

 同時に、王弟アルトワ伯ロベールから使いである、ウィリアム・ロンジェスピーを迎え入れた。


「ウィリアム卿、大儀。しかし、実は先ほどアンジュー伯より戦勝の知らせは……」

「それは承知でござる。拙者が参ったのは、そうではなく、アルトワ伯より意見具申でござる」

「意見」


 ルイ九世は、かたわらにいたポワチエ伯アルフォンスの方を振り向いた。アルフォンスは、先刻、ルイ九世に追いつき、腹心として、その場に控えていたのである。

 アルフォンスがうなずくのを見て、ルイ九世はウィリアムに発言をうながす。


「聞こう」

「では、恐れながら申し上げる。アルトワ伯ロベールにおかれましては、この機に、アイユーブ朝の事実上の王城であるマンスーラを征するをおいてくはなし、とのこと」

くはなし、か……」


 それに及ぶものごとは無い、という意味だ。

 武人としてのロベールの嗅覚がそう告げているのだろう。

 だがここは敵地だ。

 ルイ九世は、異邦人エトランゼである自分たちが、この砂漠の国において、そこまで気をいて攻略にいそしむことに、危うさを感じた。


「……いや、ウィリアム卿。申し訳ないが、事を急ぐと元も子もない。せっかくの意見具申ではあるが、弟には退却を伝えていただきたい」

「…………」


 それに対して、ウィリアムはうなずくでもなく、ただ立ち上がって、愛馬シルヴァーの元へと歩み寄っていった。

 これがフランスの貴族であれば、王に対して不敬であろうが、ウィリアムはイングランドの人間である。

 せっかくの使いが首尾よくいかなかったことへの不満もあろう。

 そう考えたルイ九世が、ウィリアムを非難しようと立ち上がったジャン・ド・ジョアンヴィルを押しとどめていた、その時だった。


「……それはでき申さぬ」


 そのつぶやきにも似た、回答を、ルイ九世は聞いた。


「何と言われた、ウィリアム卿」


 アルフォンスが、ウィリアムに問いただした。ウィリアムがこれ以上のフランス国王への不敬を重ねぬよう、敢えて王弟である自分がそのつぶやきに応じたかたちにしたのである。


「ポワチエ伯、実はアルトワ伯ロベールどのは、すでにマンスーラへ向けて進発しておる次第」

「何!?」


 礼儀をどうこう言っている場合ではなかった。

 ルイ九世は、ウィリアムに詳細を聞こうと近づくが、それはかなわなかった。

 ウィリアムはすでに馬上の人となり、手綱を振るった。


「行け、シルヴァー!」


 ウィリアムは、ロベールから承諾をもらってくるように頼まれており、それができない時は、ロベールの軍に戻るよう、言われていた。「何も伝えないのは、さすがに不忠だからな」とロベールは苦笑しながら、ウィリアムに頭を下げた。

 イングランドの騎士であるウィリアムに対して、フランス国王・ルイ九世としては頭ごなしに命を下すにはためらわれる立場にある。それを十二分に理解していたウィリアムは、そのロベールの依頼を受けたわけである。


「追え! そしてかまわぬ! ロベールの軍に加わってくれ、アルフォンス!」


 疾駆するウィリアムの背を見て、手をつかねているルイ九世ではなかった。こうなった以上、ロベールはすでにマンスーラに攻めかかっているやもしれぬ。シャルルでは止められまい。アルフォンスならば、止めることはできないまでも、参戦して、機を見て撤退させることができよう。


「うけたまわった! 兄さん!」


 アルフォンスは駆けながら、家臣たちに馬を引くよう、そして馳せ参じるよう命じ、やがて追いついてきた愛馬に飛び乗り、そしてそのまま、一路、マンスーラへ向けて、馬蹄を轟かせていった。



 マンスーラ。

 ファフルッディーン・ユースフの敗死、およびその軍勢からの敗兵の流入により、街は大混乱を迎えていた。

 王妃シャジャル・アッ=ドゥッルは、これあるを予期していたので、さほど動揺した様子は見せず、早速に、バフリー・マムルークの長であるバイバルス・アル=ブンドクダーリーを召し出した。


「臣、バイバルス、参上いたしました」

「バイバルス将軍、大儀」


 シャジャルは廷臣たちが慌てふためくのを放っておきながら、自身はバイバルスの手を取らんばかりに近づく。


、こたび、ファフルッディーン・ユースフ将軍が敗退し、そして討ち取られたとのこと」

「まことに残念な仕儀にてございます」


 シャジャルもバイバルスも、白々しい演技であることは百も承知だが、これをしておかないと、話を先に進めることができない。


「……ゆえに、そなたには、国軍を指揮し、防衛戦にあたってもらう」

「かしこまって候」

「そして卿に問う。必勝の策は、有りや、無しや?」

「……ございます」


 この頃になると、王妃の周囲に人が集まり始めている。この頃、すでに国王の死は公然の秘密となっていた。そしてこの状況下において、王妃は毅然としており、そしてこの絶対的な不利において、なおも対策を講じようとしている。

 混乱と絶望における、廷臣たちにとって、それは希望に思えた。

 バイバルスとしては、そのような心理的状況を読んで、敢えてシャジャルに「必勝」の策と言わせたのだ。

 実際には、そこまでの自信はないが、勝算は有ると踏んでいた。


「彼の十字軍フランクのねらいは、今や王城ともいえる、このマンスーラ」

「ふむ」


 形のいいあごを触りながら、シャジャルは先をうながす。


「恐れながら、国王スルタンサーリフ陛下のご遺骸、あるいは王妃さまご自身の御身をねらっておるものかと」

「む……」


 さりげなく国王の死を口にすること。これは実はシャジャルからの提案であった。

 こうすることにより、もはや公然の秘密であったが、国王の死を隠すという秘密を明かしてしまう。そうすれば、隠していたということが、有耶無耶のうちに、雲散霧消する。

 どうせ負ければすべてを失うのだ。ならば、勝った時のために、ひと芝居を打ち、に備える。

 シャジャルの政治的なセンスは見事である。そしてそれは、この国王崩御を明らかにすることが、バイバルスの出す策につながっているところが絶妙である。


「……それで、亡きつまと妾をねらっているとして、何とする?」

「恐れながら、亡き国王陛下と王妃さまにおかれましては、十字軍をおびき寄せる餌となっていただきたい」

「餌」


 廷臣たちからどよめきが漏れる。餌とは何だ、不敬の極みであろう、と。

 シャジャルは両手の手のひらを下に向け、その廷臣たちに落ち着くよう示す。

 ……たしかに、かなり不敬な発言ではあるが、やることの過激さを喧伝するには、これくらいはするべきだ、と事前にシャジャルは言っていた。このバイバルスの打つが成功すれば、シャジャルは己の身を犠牲にして、アイユーブ朝を勝利に導いた烈婦として称揚されよう。王の死を隠すという大罪は、もはや帳消しとなり、そしてシャジャルこそ、アイユーブ朝を受け継ぐ者とみなされる流れが生まれよう。


「……バイバルス将軍の献策、極端ではあるが、それゆえにこそ、十字軍どもは引っかかろう……妾は、今こそ亡き夫、国王サーリフに成り代わりて認めよう! バイバルス将軍の策を採用し、妾と国王の遺骸を餌として、十字軍をおびき寄せる!」

「ありがたき幸せ」

「して、バイバルス将軍、妾たちが餌となりて、いかにして十字軍を料理するのか?」

「それは……」


 そこまで話したところで、バイバルス麾下のマムルーク、カラーウーンが場に飛び込んできた。


「おいバイバルス! ではない、伝令! 十字軍接近の急報あり! 将はフランス国王の王弟、アルトワ伯ロベールと思しき、ああもう、まだるっこしいな……とにかく敵襲だ! やるんなら早くしろ、バイバルス!」


 カラーウーンは自ら斥候ものみに出て、しかも戦闘までして、敵情を確認したらしく、ところどころに傷を負っていた。

 そこから分かることはふたつ。敵の接近の度合いが尋常ではないことと、そして、斥候と戦闘をしてまで、敵が接近することを優先していることである。

 バイバルスはシャジャルに向き直り、ただ一言、言った。


「……陛下」

「ぜひもなし。ことは急を要する。この上は、バイバルス将軍に全権を委任する。皆の者、これより十字軍を撃退するまでは、将軍の命令は妾の命令であると知れ。では、将軍、指示を!」


 シャジャルは大仰に、座している席から下りてみせた。このあたり、演技というか、自然に動けるあたりが、彼女がのちに女王スルターナを言われる所以ゆえんである。

 なるほどこれが王者というものか、と感心しながら、バイバルスはシャジャルの周囲に集まって来た廷臣たちも含めて、語り掛けた。


「では御一同、お耳を拝借……」

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