12 その街の名


 気がつくと、マンスーラの街の影が、前方に見えてきた。


「……マンスーラ」


 間抜けな台詞だが、ゼノビアとしては十字軍の動向の諜報から今までの移動に疲れ切っており、このまま眠ってしまいそうな勢いであった。体を預けたバイバルスの背が、あたたかいのもそれを助長する。


「勝利と言う名らしい」

「…………?」


 バイバルスはここで初めて振り向いた。


「あの街、マンスーラの名は『勝利』という意味だ」


 不得要領なゼノビアに、「自分で言ったんだろうが」とバイバルスは付け加えた。


「……もし、この戦に勝ったら」


 再び前を向いたバイバルスのその呟きに、思わずゼノビアは身を乗り出す。


「勝ったら?」


 バイバルスの表情は険しい。


「……おれは、エジプトを追われるだろうな」

「追われ……はっ!? 何を言って……」

「聞け師匠。東西の歴史をかんがみて、大功を挙げた将軍というのは、疎まれる。最悪、殺される」


 もう一人のバイバルスがいい例だ、とつづける。

 ラ・フォルビーの戦いにて、ホラズム族の傭兵軍と連合してマムルークを率いた、もうひとりのバイバルスは、勝利したものの、戦後、投獄され、そのまま獄死した。


「……あの王妃は殺すまではしないだろうが、それでも、周囲の圧力で、おれを追放するやもしれん」

「忘恩ではないか、それではッ」

「それが覇道というものだろう。ホラズムとて、国を成していたときは、そうではなかったのか?」

「…………」

「そして、敗けたとしたら、やはり敗死するだろう」

「……お前は、さっきからなんだ、死ぬ死ぬとばかりッ」


 ゼノビアの激昂を背に、そっとバイバルスはつぶやいた。


「そう、死と隣り合わせになってしまった、おれは。十字軍が来ていなければ……」

「…………」


 それは告白というか述懐に近い言葉だった。バイバルスは、マンスーラに到着したら、ゼノビアは父であるホラズムの族長ベルケの元に戻すつもりであることを告げた。元々、そのつもりで十字軍への諜報に出たゼノビアを追いかけてきたのだ、と。


「分かってくれ、ゼノビア」


 この期に及んで、名前で呼ぶか。

 この男に情緒とかを求めたのが間違いか。

 もう少し、色恋のような甘やかな気分を味わえるかと思ったが、ゼノビアが今感じているのは、怒りだった。


「くだらん!」

「くだらなくない。王妃より、さきほど、国軍の全権を託された、その権をもって命ずる。ホラズムのむすめ、ゼノビアよ、ホラズムの父の元へ、帰れ」


 王妃は、ファフルッディーン・ユースフを勝てないと踏んでおり、事前にバイバルスに勅命を下していたのだ。

 遺漏なく国軍が反攻に出られるように。

 だが今は、そういうことを問いただしている暇は無い。

 ゼノビアの返事は決まっていた。


「帰らぬ!」


 バイバルスもまた怒りを以て振り返り、怒鳴った。


「帰れ! マムルークであるおれは、ここで逃げることは許されん! だが、お前はちがう!」

「ちがわん! 国無き民だ、ホラズムは! このエジプトを失えば、他にどこへ行く? そんな場所はない! わたしは……もう、逃げる気は無い!」


 ゼノビアはまなじりを決し、緑色の瞳を見開く。

 バイバルスもまた、負けじと碧眼で睨む。

 そして、ゼノビアの腕をつかむ。


「なっ、何を……」


 甘やかな気分など、期待していない。

 近づく顔に、怒りしか感じていないはずだ。


「帰れ!」


 バイバルスは、そのままゼノビアを馬から引きずり下ろした。


「待て! こんなところで下ろして……」

「ゼノビア」


 ゼノビアは背後に、聞きなれた声を聞いた。父である、ホラズムの族長、ベルケの声を。


「……ホラズムの族長、ベルケ、参じました」

「大儀」


 父がこうべを垂れている。バイバルスは周到だった。国軍を預かる身として、即座にホラズム族を動員しつつ、それに乗じてゼノビアを族長ベルケに返したのだ。

 公私混同もいいところだ。

 そう罵ってやりたいところだが、父に阻まれる。


「よせ」

「よせ、じゃない、父上、わたしは……」

「お前の気持ちは分かる。父に任せよ」


 モンゴルへの抗戦を終生貫いたホラズムの英雄・ジャラールッディーンに仕えていたという、ベルケの巌のような迫力に、娘であるゼノビアとしては沈黙せざるを得なかった。


「バイバルス将軍、このあと、ホラズム族は、傭兵として、国軍に従えばよろしいので?」

「そうしてもらえるとありがたい」


 馬上、かつてのは、その欠片かけらも感じさせず、むしろ威厳がただよっている。

 ベルケはうやうやしく一礼した。


「うけたまわりましょう……で、具体的には、どうすれば?」

「追って沙汰する。とりあえず、そこの濡れ鼠を頼む」


 バイバルスはベルケのいらえも待たず、馬を馳せ、一気にマンスーラの城門に入っていった。

 ゼノビアは、バイバルスにかぶせてもらったマントを破りこそしなかったが、思いきり噛んだ。


「……逃げおったな、馬鹿な奴」

「……たしかにそうだな、逃げおったわい」


 ベルケがゼノビアの頭に手を乗せた。ゼノビアはその手を握りしめ、泣いた。


「父上……」

「お前があのだった男を好いておるのは知っていた」

「好いて……何をッ」

「父親にそういうことを知られたくないというのは分かる。分かるが、今は我慢せよ」


 ホラズムとしても、あの男を奇貨くべしと思うておる、とベルケはつづけた。


「父上、では……」

「衣装係から連隊長に一気に昇進した男だぞ。われらホラズム族の宿願である、打倒モンゴルを託すに足る男ではないか、と長老たちも言い始めておる」


 そこへもって、十字軍の侵略というこの国難により、国軍を指揮する立場にまでなった。


「……ゆえに、ホラズム族としても、あの男を逃がすつもりはない」

「父上、では……」

「この国難、われらホラズム族の手を借りずに済ますわけにはいくまい。必ずや、決戦の場に投入するはずだ」


 王子トゥーラーン・シャーと、マムルークの長・アクターイはエジプトに居らず、国軍の司令官ファフルッディーン・ユースフは、おそらく十字軍と交戦中で、無傷では済むまい。


「……であるから、ゼノビア、お前はホラズムに

「えっ……?」

「そうじゃ」


 父・ベルケのその言葉に、ゼノビアは目を見開き、ベルケは逆に目を細めた。

 その父の雰囲気に察するものがあったのか、やがて、こくんとひとつ、うなずくのであった。



 ひそかな渡河を終えた、十字軍のアルトワ伯ロベールとアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)は、ほどなくして、ファフルッディーン・ユースフの野営地を発見し、しかも宴を催していることも確認した。


「あの橋を燃やして壊したことが、それほどまでに祝うことか、シャルル?」

「兄上、ファフルッディーン・ユースフはダミエッタからとされている。それを払拭したいのであろうよ」


 ロベールは武人らしく、小功に安んずるを良しとしない潔癖さによる述懐をもらした。

 シャルルは謀略家らしく、その心理を読み、好機としたものの、感心はしないと付け加えた。


「いずれにしろ、兄上、ではない、陛下の読みどおり。敵は偽りの勝利に油断している……やりましょう」

「そうだな……よし、皆の者、つづけ!」


 ロベールは自ら先頭に立って、ファフルッディーン・ユースフの陣へと突進していった。このあたりの思い切りの良さと、度胸のある戦いぶりこそが、ロベールの武人たる所以ゆえんである。

 シャルルも心得たもので、早速、後詰めのルイ九世とポワチエ伯アルフォンスに、敵発見及び襲撃開始の旨、使者を飛ばし、そしてロベールの反対側から、ファフルッディーン・ユースフの陣へと攻めかかるのであった。



 驚いたのはファフルッディーン・ユースフである。彼は、バイバルスとゼノビアからの十字軍接近の報をまったくの虚報とは捉えなかった。しかし、いくら何でもこんなに早くにやって来るとは思いもせず、とりあえずの「勝利」の祝いの宴ぐらいは、と、先のダミエッタからの遁走の憂さを晴らそうとしていた。


「落ち着け! われら先ほど十字軍フランクどもに勝ったばかりではないか! 今もまた、勝てば良い!」


 言うは易し、と周りの将兵は思ったが、慌てふためくファフルッディーン・ユースフにそこまで言っても通じないだろうと、誰も返すことはなかった。

 ファフルッディーン・ユースフはとにもかくにも、ロベールの攻めかかった方へと防御に向かったが、そのタイミングで、逆方向からシャルルが襲撃してきたので、対応に戸惑い、そして落ち着きをなくし、やがて怒り狂い出した。


「なんでおれが! なんでおれが! こんな目に遭う! おれは! おれは! アイユーブ朝の国軍司令官だぞ! それがなんでこんな目に!」


 当たり散らすように剣を抜いて、周囲の地面にたたきつける。

 そうこうするうちに、ロベールとシャルルは着実に詰めてきており、ファフルッディーン・ユースフの将兵たちは、人間の基本的な欲求に立ち返り、それに従うことにした。

 すなわち、生きるために逃げること、である。


「ファフルッディーン・ユースフ将軍、乱心!」

「逃げろ! もう、終わりだ!」

何処どこへ!?」

「決まっている、大本営だ!」

「……マンスーラ!」


 ファフルッディーン・ユースフの麾下にあった将兵は、算を乱して、一路、マンスーラへと向かって走り出す。

 その様子を見たロベールとシャルルは、得たりかしこしと、その退路を開けてやった。

 ロベールの隣にいた、イングランドのウィリアム・ロンジェンスピーはその意図を問うた。


「アルトワ伯、あちらのアンジュー伯もだが、なにゆえ、敵に逃げ道を?」

「ウィリアム卿、敵が自らその数を減らしてくれるのだ。それを止めることはあるまい」


 それに窮鼠猫を噛むをということもあり得る、という趣旨の発言を聞き、ウィリアムは得心がいったように手を打った。



 ファフルッディーン・ユースフがひとしきり激昂したあと、冷めていく自分に気づく。気づくと同時に、自分の周りに誰もいないことに驚くのであった。


「こ、これ……皆、皆、どこへ行った?」


 抜き身の剣をその手にぶら下げたまま、戦場を徘徊するファフルッディーン・ユースフに、その派手な軍装を見た十字軍の兵が迫るまで、そう長い時間はかからなかった。


 

「……敵将、ファフルッディーン・ユースフ、討ち取られたとのよし」 


 伝令役を買って出たテンプル騎士団の騎士が、シャルルに対してそのように伝えてきた。

 シャルルは騎士を労い、ロベールの元へ返すと、自身もルイ九世へ伝令を送るのであった。


「しかし……ここはマンスーラまで攻め入るべきか否か」


 シャルルは思い悩む。

 勝利の余勢を駆って、敵の大本営であるマンスーラを攻めるのは、戦理にかなっている。が、一方で、十字軍としても、神経を使っての渡河及び奇襲により疲弊していることも事実だ。

 また、アイユーブ朝の側から考えると、さきほどの敗兵が流入してくることの混乱があるだろう。しかし、あちらにまだ、虎の子のバフリー・マムルークを残している。さらに、かつてエルサレムを陥落せしめたホラズム族という傭兵集団もいるという噂だ。


「……両天秤という奴か」


 シャルルは自分の経験が、兄たちより浅いということを知っている。それゆえ、当面、近くにいる兄である、ロベールに伺いを立てることにした。

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