11 十字軍、迫る
バイバルスがファフルッディーン・ユースフの軍にたどり着いた頃、フランス国王ルイ九世の率いる第七回十字軍は、王弟アンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)の待ち受ける、ナイルの渡河地点に到達していた。
「兄上、ここなら橋が無くとも渡れます」
「うむ、大儀」
ルイ九世はひとつうなずくと、隣の王弟アルトワ伯ロベールに命じた。
「ではロベールは手勢を率いて渡河せよ」
「ははっ」
「シャルルはその案内をするように」
「承知つかまつりました」
ロベールとシャルルが連れ立って、兵を引き連れてナイルの流れに向かって行くのを見つつ、ルイ九世はかたわらのジャン・ド・ジョアンヴィルに言った。
「ジャン卿、後続のポワチエ伯アルフォンスに連絡を頼めるか」
ジャンは国王の直臣ではなく、シャンパーニュ伯の
ジャンとしても、その国王の知遇に報いるべく、依頼には誠心誠意こたえるようにしていた。
「うけたまわりましょう」
「
「橋を築くのは、諦めてはいなかったのですか?」
「あれは、あくまでも詭計。今後のエジプト支配のことを考えると、やはり橋はあった方が良い。また、当面の問題として、ダミエッタとカイロの間を結ぶ兵站の路を確保しておく必要がある」
ルイ九世は丁寧に説明する。
ちなみに、ジャンは、後年、ルイ九世の事績を記すことになるのだが、それにはこういった下地があったからかもしれない。
「勅命、つつしんでお受けいたす」
ジャンは一礼し、馬を返して、後詰めのポワチエ伯アルフォンスの元へ向かった。
*
ポワチエ伯アルフォンスは理知的な風貌をしている口髭の貴公子である。その髭を揺らして、
「
と、うなずいて、ジャン・ド・ジョアンヴィルに案内を依頼した。
アルフォンスもまた、ジャンの身分に配慮し、丁寧な物腰で接した。
アルフォンスはルイ九世の腹心であり、事実上の副王といっていい立場の王弟である。カリスマ溢れるルイ九世、武勇に秀でたロベール、知略に富んだシャルルとはまたちがって、その安定した人格と知勇のバランスにより、兄弟たちから頼りにされていた。
アルフォンスもまた、兄弟たちの活躍の場を用意し、そして支えるのが己の役目と弁えており、それに十全の力を発揮した。
「ド・ジョアンヴィルに従い、艦艇を解体し、加工した木材を運ぶ」
テンプル騎士団が急ごしらえで、艦艇を破壊して作った木材を見て、アルフォンスはさらなる洗練の余地を見出し、後詰めであることの時間の余裕を活用し、この橋梁建築に最適化した木材を作り出しておいた。
しかもアルフォンスはそれをルイ九世にのみ報告した。
テンプル騎士団に、功績を横取りすると見られるのを避けたからである。もしテンプル騎士団がアルフォンスに対して抗議をしそうな雰囲気であった場合、賢明なルイ九世なら、アルフォンスの功績は秘匿してくれるだろう。そして、その功績には、必ず報いよう。
「
控えめなアルフォンスだが、これこそがエジプト征服の最大の貢献となることを知っていた。そしてアルフォンス麾下の将兵もそれを察し、先を急ぐのであった。
*
「……では、橋は欺瞞で、
「おそらく本日中には」
バイバルスはゼノビアを伴って、ファフルッディーン・ユースフの元へ参上した。
バイバルスとしてはゼノビアに休息するよう勧めたが、「要らぬ」と言われ、しかたなく連れてきた次第だ。
ファフルッディーン・ユースフは、マントの合わせ目からのぞく、ゼノビアの肢体をちらりと眺めてから、「では、その女に報告させよ。その女から聞きたい」と言った。
「…………」
バイバルスがものも言わずにゼノビアを立たせて、ファフルッディーン・ユースフに背中を向けた。
「お、おい! 何故出ていこうとする?」
「くだらん煩悩に師を付き合わせられるか、この好色漢が」
不敬どころか侮辱と問われてもおかしくない言質を吐いて、バイバルスは「おい待て」と言うゼノビアを押して、さっさと歩き出した。
怒り心頭のファフルッディーン・ユースフは抜剣して、怒鳴る。
「待て! 国王気取りのあの王妃といい、その薄汚い間者の女といい、女の尻を追いかけ回しているのは、お前だろうが!」
「……ふん」
バイバルスの碧眼が、背中越しにファフルッディーン・ユースフを睨みつける。
「今少し軍人らしい話や、買い文句が聞けると思ったが、この体たらくか。やはりダミエッタからは逃げ出したというのが真相らしいな」
「……貴ッ様! 言うてはならんことを! 仮にも国軍の司令官たる、このファフルッディーン……」
「うるさいんだよ!」
ゼノビアが風を感じたと思った瞬間、バイバルスは剣を抜きながら、ファフルッディーン・ユースフの眼前に迫り、その首筋に刃を当てた。
「いいか、もう一度だけ教えてやる。十字軍が来るのは、すぐだ。それが女の尻を追いかけて得た情報だと言って馬鹿にするなら、この師匠面してでかい面するうるさい女や、あの国王を気取りながらも国王がいなくて泣きっ面の女より働いて見せろッ」
吐き捨てるように怒鳴りつけると、剣を持っていない方の手で、ファフルッディーン・ユースフを押す。
ゆっくりとファフルッディーン・ユースフは尻もちをつき、そしてしばし放心したのち、部下から話しかけられて、「ああ」とか「うう」とか言いながら、ようやく立ち上がった。
……気づくと、バイバルスとゼノビアはすでに、馬上、駆け去っていた。
*
「……わたしは別にかまわなかったのだがな」
間者として働いている以上、そういう目で見られるのは覚悟の内だ、と付け加えるゼノビアに、特に返事もせず、バイバルスは馬を走らせていた。
「おい、聞いておるのか、バイバルス」
「……その名はやめろと言っているだろう」
うるさいな、とぼやきながら、バイバルスは振り向かずにこたえた。
「…………」
「…………」
ただただ、馬は疾走していく。
ゼノビアは、今日の危地に駆けつけた頃から、実はバイバルスは自分のことをどう思っているかということにある結論を考え出していた。
しかし、それを口に出すには、今の状態では、いかにも緊迫していて、「忙しい」とか「あとで」とか「それどころじゃない」とはぐらかされるような気がして、何も言えなかった。
ホラズムという亡国の一族の
族長の子女だからということで、好きに振る舞ってきた。幸い、父・ベルケは親馬鹿で、ゼノビアが武を修めたい、隠密術を極めたいと言ったら、二つ返事で教えてくれた。
やりたいからやって来たが、その代わり、父に「誰某に嫁げ」と言われたら、それに従うつもりだった。この乱世の時代、幸いにもこれだけ好き勝手興味の赴くままにやらせてもらえたのだ。夫がだらしない人物だったとしても、己の力で未来を切り開くことも可能であろう。
……そうこうしているうちに、ついこの間までマムルークの衣装係をやっていた、という痩せたのっぽの男がやって来た。そのひょろがりは、今度マムルークの連隊長になると言う。
「自分はキプチャクの草原で生まれ、
生地から攫われ奴隷商人の元にいれば、それはそうだろう。体も鍛えられてはいなさそうだ。よく連隊長になれたな、と聞くと、
「歴史が好きで、耳学問だが、これまで
そう、照れくさそうにそのひょろがりはこたえた。
面白い、と隣の父のベルケは膝を打ち、では娘に教えを乞えと言った。ゼノビアとしてはひょろがりの物腰を見たり、話を聞いて、彼の師匠となることはやぶさかではなかったが、こうも頭ごなしに言われると、素直になれなかった。
そのため、父の言葉だから仕方なくという断りを入れてから、名実ともに「厳しく」鍛えた。
たまに、
しかし、そのひょろがりは耐えた。どころか、ひょろがりでなくなり、心身共に引き締まった感じに仕上がってきた。
ゼノビアとしては、弟子の師としては嬉しくもあり、やがてそれ以上の感情が芽生えてくるのを感じないでもなかった。
そして、かつてのひょろがり、バイバルス・アル=ブンドクダーリーがゼノビアを越えると言えるくらいになった頃(ただしゼノビアはバイバルスが「つけ上がる」として言わなかった)、バイバルス自身がゼノビアをどう思っているかと聞きあぐねている頃――
――
そこからは、疾風怒濤の日々であった。
まさかのファフルッディーン・ユースフの遁走によるダミエッタ陥落、およびその状況の諜報。
マムルークの隊長たるアクターイがイラクへ出向してしまったため、代理でマムルークの指揮を執るバイバルスの補佐。
一番の衝撃であった、
……今、十字軍はナイルを越えようとしている。そしてファフルッディーン・ユースフと、いかなる形であれ、激突が生じるであろう。そしてファフルッディーン・ユースフでは勝てまい。勝ったとしても、後詰めであるルイ九世とポワチエ伯アルフォンスには勝てない。
しかるのちに、十字軍は目指すだろう、臨時の大本営であり、永眠するサーリフの遺骸を秘した街、マンスーラへ。
……そこからが、バイバルスの「作戦」が始まる時だ。
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