10 間者と騎士と、そしてマムルーク

 ゼノビアは、ナイルの葦原の陰から、十字軍の橋の建築と、それを妨害するファフルッディーンの戦闘を見つめていた。

 葦と葦の隙間からのぞく、緑色の瞳が憂いの色を帯びる。


「……妙だな」


 十字軍のやられっぷりが、あまりにも見事過ぎる。

 これではまるで、芝居のようではないか。


「……あ」


 芝居か。

 ゼノビアは、乗っていた小舟を巧みに操り、対岸の葦原へ向かった。

 小舟を降り、時に疾風のように走り、時に樹木のように静止し、そしてようやく、十字軍の姿がうかがえるあたりまで来て、ふわりと、地べたに張り付くようにうつ伏せになる。


「……思ったとおり、損害はほとんどなさそう、か」


 十字軍の将兵は笑い合っている者たちもいる。さんざめく兵たちだが、突如として、沈黙する。

 ゼノビアから見て、奥の方から、一人の男が現れたからだ。

 遠めに見ても分かる威圧感。圧倒的な威厳を保つ、だが若々しさも感じさせる男。


「敵将、ルイ九世か」


 ルイ九世は将兵たちを慰労しに来たらしく、ひとりひとりに話しかけ、求められれば祈りを唱えた。感涙にむせぶ兵もいる。

 ルイ九世はひととおり、その場にいる者たちに対応ができたことを満足したのか、車座になった兵たちの真ん中で、演説を始めたらしい。

 ゼノビアはその口の動きを読む。


「橋、偽物、真、浅瀬、南……」


 ホラズムの傭兵集団がシリア沿岸の十字軍国家と戦った際に得た、十字軍国家の言語の知識を総動員して、ゼノビアは読唇術に専念する。

 が、その専念ぶりが、かえってルイ九世に、その視線を感づかれることになったらしい。

 突然、手を挙げて、こちらを指差すルイ九世の姿に気づいたゼノビアの動きは速かった。

 ゆらりと、風になぶられる襤褸ぼろのように舞い動き、くるくると後転していき、ルイ九世から見えなくなる一瞬、脱兎のごとくに、駆け出した。


「間者だ!」


 ルイ九世は、疾駆するゼノビアの気配を捉えた。さすがに群雄ひしめくヨーロッパを生き抜いてきた王者らしく、その不穏を見逃さず、「捕らえよ!」と鋭く命令する。

 いち早く反応したのは、ルイ九世の護衛として随行していた、王弟・アルトワ伯ロベールである。


「女か!」


 尋常ではないゼノビアの疾駆だが、ロベールの愛馬なら、追いつけないということはない。最悪、射殺すことも可能だ。


「駆けよ、リュミエール!」


 ロベールの愛馬リュミエールがいなないて、ゼノビアの一歩後ろにまで迫る。


ナイルまで行けば」


 ゼノビアは脚を動かしつつ、頭に巻いた布を器用に取り、それをロベールの顔面に向けて放つ。


「小癪な!」


 抜剣したロベールは布を切り裂く。

 その動作によって、生まれた数瞬の隙に、長い黒髪をなびかせてゼノビアは跳躍する。

 横へ。


「……ぐっ」


 脚なればこその急激な方向転換に、ロベールは愛馬の手綱を巧みに操って、ついていこうとする。

 その間に、ゼノビアはまた方向を変えて、電光のように鋭く河岸に向かって駆けて行く。


「……味な真似を」


 時間をかけるのはうまくない。

 しかも、あの女の駆け様、尋常ではない。

 さきほどの架橋の詭計に勘づいたか。


「やむを得ん、射殺すか」


 聞こえるように言ったのは、ゼノビアの翻意をうながそうとした、ロベールなりの騎士道である。

 しかし、やはりゼノビアは走るのを止めず、あと数歩で河原の葦原の中に飛び込める位置に来ていた。

 ロベールがその強弓を取り出し、ぎり、という音を立てながら矢をつがえた。


「異教徒の女とは言え、天晴あっぱれ。しかし、これで終わりだ!」


 ロベールの弓から矢が放たれる。

 ゼノビアは振り向き、懐中から小刀を取り出し、矢をはじく。

 しかし、疾走中であり、ロベールの矢の強さもあって、よろめく。

 よろめきながらも、その方向は葦原である。


「見事! だが、もう逃がさん!」


 ロベールは愛馬を馳せて、そのままナイルに突っ込まんばかりにゼノビアの背後に迫った。

 ゼノビアは、頭に巻いた布を取り外したため、その艶やかな長く、黒い髪がなびいていた。


 これをつかめば、捕らえることができる。


 ロベールはふと、そう考えてしまった。

 兄であり主君であるルイ九世が「捕らえよ」と言ったからである。

 しかし、その逡巡が、ナイルの対岸から迫る舟の存在を見逃した。


「伏せろ! ゼノビア!」


 ロベールがナイルの水面を見ると、そこに一艘の小舟が進んできており、その舟の舳先に、長身の褐色の男が、弓を構えていた。


 刹那。

 男の弓から、矢が走る。


 ロベールは怪鳥のような叫び声を上げ、小脇に抱えた弓で、男の放った矢を叩き落とした。


「痺れが……舟の上から、この強さ……!」


 ロベールがうめきながら目を見開くと、信じがたいことに、舟の上の男は、二の矢をつがえて、もう放っていた。


「くっ」


 叩き落とすという器用な真似では対応できん。

 壊れた強弓を捨て、ロベールは愛馬の馬首をめぐらし、素早く移動して避けるしか無かった。


 その間、ゼノビアはナイルに飛び込み、男――バイバルスの舟に泳いで辿りつく。

 バイバルスが三の矢を射て、その隙にゼノビアを引っ張り上げてそのまま舳先の縁の陰に隠す。その一方で、後方で櫂を握る水主かこに目配せして、回頭する。


「よく、わたしの危機が分かったな」

「遅い」


 短く答えたバイバルスは、マントをゼノビアにかぶせた。体の線が見えるくらい、ゼノビアの衣服は濡れていた。


「捕まったら、どうするつもりだ。女の身で」

「……くっくっ」

「何が可笑しい?」

「お前から、そのような心配をされると思っていなかった」


 バイバルスは舌打ちして、河岸に立つロベールに向かって弓を構える。

 ロベールもまた、近くに集まって来た兵から、代わりの弓を受け取り、構える。


「…………」

「…………」


 バイバルスの舟の水主は懸命に櫂を漕ぎ、河岸から着実に離れようとしていた。

 この距離では、もう威力のある弓射はできない。

 ロベールとバイバルスは、同時に弓を下ろす。


「……ふっ」


 破顔したロベールは、水上のバイバルスに向かって叫んだ。


「そこな舟の御仁! 拙者はフランス国王ルイ九世が弟、アルトワ伯ロベールなり!」


 自己紹介だ、と足元のマントからゼノビアが通訳する。「何がしたい」とバイバルスは下を向かずに聞いた。ゼノビアは「おそらく、連中ののっとった、名乗り合い」とこたえると、ひとつくしゃみをして、マントの下に隠れた。

 名乗り合いをするかどうかは、バイバルスの判断に任せるということだろう。河岸にたたずむロベールを見て少し考えたバイバルスは、応じることにした。


「拙者は、アイユーブ朝のマムルーク、バイバルス・アル=ブンドクダーリーなり!」


 ロベールは弓を持った手を大きく振った。


「貴殿の弓、見事でござった! 同舟どうしゅう女性にょしょうの忍びの技も!」


 そんな褒め言葉はいらない、忘れろ、とゼノビアがぼやくのが聞こえてきた。

 バイバルスはそのぼやきを無視して、自分の言いたいことの翻訳を求めた。うるさそうにゼノビアが応じると、バイバルスは叫んだ。


「貴殿も同様、お見事! さらばオールヴォワール!」


 ロベールがその言葉を聞くと、にやりと笑い、やはり「さらばオールヴォワール!」とこたえて、駆け去って行った。



 ナイルの対岸にようやくたどり着き、水主に金貨を与えて休むよう伝えると、バイバルスは口笛を吹いて、愛馬を呼んだ。


「悪いが、同乗してもらうぞ、師匠」

「……もう少し言い方を工夫したらどうだ?」

「……それだけのことをして得た情報だ。急を要する」


 バイバルスはゼノビアに手を差し出す。不満そうであったが、差し出された手を軽く握ったゼノビアは、ひらりと跳躍して、バイバルスの後ろに腰かけた。そして囁くように言った。


「橋は欺瞞。本命は南の浅瀬」

「……ファフルッディーン・ユースフ将軍に伝えるか、いちおう」


 バイバルスが馬に鞭をくれて、急ぎ馳せる。脳内で地図を描く。ファフルッディーン・ユースフは、十字軍の「橋」を燃やしたことに満足し、現在の大本営たるマンスーラへ向かっている。つまり南だ。

 敵前逃亡の汚名を返上し、名誉挽回の勝利に酔うファフルッディーン・ユースフが、前祝いとばかりに小休止しているかもしれない。

 あるいは、マンスーラのシャジャル・アッ=ドゥッルに、祝いに来いと言ってくるかもしれない。


「……危ういことだ」


 ファフルッディーン・ユースフは、十字軍二度目の渡河の情報を伝えたところで、信じまい。先の軍議で、バイバルスは目のかたきにされている。勝利に沸く国軍をたぶらかす妄言とみなされる可能性もある。


「……しかし」


 バイバルスは背後のゼノビアを見遣る。

 敵軍についての情報であるし、何より師である彼女が隠密術を駆使して得た情報である。それを伝えないというのも難がある。


「わたしは別にかまわん。のファフルッディーン・ユースフがこのことを軽視するのは勝手。それをいとうて伝えないというのも手だろう。が……」

「敗北したファフルッディーン・ユースフが、伝えないことを利敵行為とみなし、責めてくることもある、か」

「よく分かったな」

「さすがにまつりごとに直面するようになると、分かることもある」


 シャジャル・アッ=ドゥッルは、現状、バイバルスしか味方がいない。そのため、彼を重用して、政軍双方において、参謀のような役割を果たしていた。


「……わたしがあの野蛮人どもの内情を探っている間に、お前は美貌の王妃とねんごろにしていたわけか」

「くだらん詮索はせ」


 シャジャルにその気があろうとなかろうと、バイバルスにしてもそうだが、まずは十字軍をどうにかせねば、色恋沙汰に興じる暇もない。


「……そうか。そうだな、では、わたしはしばし寝る」

「は?」


 ゼノビアはバイバルスに体重を預けると、寝息を立て始めた。あきれたようにバイバルスはひとつため息をつくと、馬を走らせ、とりあえずは友軍である、ファフルッディーン・ユースフの陣中へ向かうのであった。

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