第23話 立場の違い

 雨月は飛鳥が自分の意図に気づいたことを見て取ると、普段とは違って慇懃なまでに膝を折って礼をすると、気を失った佐伯を連れて去って行った。

 主に対する礼。それを前に、飛鳥はぎりっと歯ぎしりをすることしか出来ない。

「あ、飛鳥さん」

「・・・・・・」

 優介は動揺した声で呼びかけてくる。しかし、飛鳥はそれに対して答えるべき言葉がなかった。

 何かを言えば、総ての嘘に対して答えなければならない。

 それはすなわち、飛鳥が人間に混ざって生活することが出来なくなることを意味している。

「今日のところは帰る。優介、あんまり二人を待たせるな」

 飛鳥は何とかそう言うと、ちゃんと説明してくれという目をする優介に背を向けた。

 さて、どうしたものか。

 判じ物よりも難しい問題が、飛鳥の前に立ちはだかっていた。



 それから三日、江戸は雨が続いた。

 飛鳥はそれを口実に裏長屋でごろごろとするだけで、動こうとはしなかった。優介も雨だからか、長屋にやって来ることもない。

 いや、もう二度とやって来ないのかもしれない。

 高橋の件で、優介が武士という身分に対して何の未練もないわけではないことを知ってしまった。普段はのんびりと戯作者をやっていればいいという態度の優介も、本当は武士として生きたかったのだということを知ってしまった。

「それはそうか」

 しかし、それは当然の感情であることを、飛鳥が見落としていただけだ。

 次男というだけで、活躍の場は初めからないのが武士というものだ。家督が継げなければ、旗本の家に生まれたとしても関係ない。一生日陰者として生きていくしかないのだ。

 もちろん兄に何かあった時には優介にその権利が転がり込んでくるだろう。しかし、その兄にはすでに息子がいたはずだ。つまり、生涯優介が武士として大手を振って将軍に仕えることはない。

「仕える、か」

 自分は仕えられる立場だ。飛鳥はこの間の雨月の礼を受けて、それを改めて実感した。そして、そういう立場だからこそ、この我が儘が許されている。

 気心の知れる、江戸での友人。しかし、その立場はあまりに真逆だ。

 何も出来ないから戯作者の道を進む優介と、何か出来るのにのんびりしている飛鳥。

 本来ならば交わることのない二人だった。それが、今となってはどうやって知り合ったのか思い出せないほど、当たり前に傍にいる人間だった。

 でも、それは危うい均衡の上に成り立っていたことを、今になって気づくことになってしまった。

「どうすればいいんだろうな」

 飛鳥は知らずに呟いていた。もしこの場に雨月がいれば、言う言葉ははっきりしている。

「潮時だ。さっさと里に帰るべきだ。お前は鬼で、そして、その鬼を統べる存在なのだから。いつまでも人間の傍にいるべきじゃない」

 雨月はこれまでもずっと、はっきり言わないまでもそう言い続けてきた。飛鳥が人間を知りたいという気持ちに理解を示しつつ、入れ込むことはするなと何度も忠告してきた。

 こんな気持ちになることを、知っていたからだろう。

 それに、嘘がバレずにあと数十年ともに生きたとしても、飛鳥は優介よりもゆっくりと年を取る。どこかで別の存在であることが明確になる。

 ずっとは一緒にいられないのだ。それは最初から解っていたことだ。長くても二十年しか一緒にいられない。鬼にすれば一瞬の時だけが、許された時間だった。

「・・・・・・」

 でも、このままいなくなるのは優介に対して失礼だ。飛鳥はそう思い直す。せめて彼には自分が人間ではなく鬼で、本当はその鬼の次期長であることを伝えなければならない。

 たとえ優介が他の人間のように鬼を恐れ、自分を怖がることになったとしても、そこからは逃げ出してはならない。友としての関係が終わるのならば、その結末からも目を逸らしてはいけないのだ。

「そうだ」

 優介は一体どんな戯作を書いているのか。一度しか読んだことのない彼の著作を読んでみるか。

 まだ、友であるうちに、あいつのことを知っておかないとな。

 天気と同じくうじうじしていても駄目だ。去るにしろ去らないにしろ、優介との関係をこのまま、顔を合せないまま終わらせるわけにはいかない。

 飛鳥はようやく意を決すると、貸本屋へと出掛けるべく立ち上がっていた。



 一方、優介は布団に潜り込んだまま動けずにいた。

「若、か」

 武士の姿をする雨月がそう呼ぶ姿は強烈だった。今までもどうして武士である雨月が、裏長屋にひっそりと身を潜めるように生きる飛鳥の元を訪れてくるのだろうと不思議に思っていた。

 でも、それは飛鳥もあの藤本祐一郎のように、武士として生きるのが不都合になったからだと、勝手に考えていた。町人の姿になって雲隠れする者なんて、江戸では珍しくない。だから、そういうものなんだと勝手に思っていた。

「違ったんだな。若ってことは、どこかの殿のご落胤か。ううん、でも、それじゃあどうして裏長屋にいるんだ。ひょっとして側室の子なのかな。それとも間違いで・・・・・・いや、それだと雨月さんはああいう態度を取らないはずだ。飛鳥さんは正式な跡取りのはず。跡取りで揉めているとしても、妙だもんな」

 ううんと、もやもやする優介だ。だが、正面切って飛鳥は武士で、いずれかの藩の殿様になるのかなんて聞けない。聞いたら、自分との関係は終わってしまう。

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