詩人の芽
紫鳥コウ
詩人の芽
「めでたい日だ。さあ、栄太。どんどん食べろ。マグロとイクラは、全部食べてしまえ!」
顔を真っ赤にした、丸坊主の父親は、少し黄色くなった歯を見せて、笑っている。
「飲みすぎよ……」
長すぎて、なんだか違和感のあるポニーテールをした姉は、そんな父親をたしなめた。しかしこの姉も、ほほをほのかに朱にそめている。
アルコールに操られていないのは、母親だけであった。この少しふっくらとした母親は、巻物を口に運んでは、味噌汁をすすって……栄太が食べそうにない寿司だけを
この母親は、たまごに手をつけなかった。栄太がほんとうに好きなのは、たまごなのだ。しかし、歳をかえりみず、ほろよいをしているおじいさんは、まったく遠慮をせずに、たまごに手をつけた。
すると母親は、たまごを三つ、箸の持ち手でつまんで、栄太の皿に乗せた。栄太は、喜んでたまごを食べた。
「ダメだ、ダメだ、もっと高いものを食わせてやれ」
そんな父親の命令に、母親はまったく取り合わなかった。
全校集会で表彰されたのは、栄太にとって初めての経験だった。賞状をもらうまでの、一連の儀式めいた立ち振る舞いは、どこかたどたどしかった。しかしそれは、栄太のこころにひまわりが咲き誇っているからでもあった。
「天才詩人っていうのは、栄太のことを言うんだろうな。なんだって、はじめて書いた詩で、最優秀賞を取っちゃうんだからな」
父親はそう言って、ビールをぐびぐびと飲んだ。
「ばあさんが生きてたらな……どれだけ喜んだかわからねえな」
そんな感傷めいた言葉は、もちろんアルコールによって彩られていた。
「明日は、仕事の帰りにコンビニで新聞を買ってくるぞ……いや、天才詩人の詩が載るんだ。行きに買い占めてやる。いやいや、いろんなヤツに読ませてやりたいから、ふたつで我慢してやろう、ハハハハ」
父親の放言に、姉は同調した。
「栄太の隠れた才能が開花したわね。小学生が一番よ。何千という詩の中から選ばれたんだから、近い将来に文学賞を総ナメよ」
「エイちゃんにはお小遣いをあげないといけないな」
そう言って、おじいさんは
「そうだそうだ! 十万くらいくれてやれ!」
父親はすでに五つの缶を空けていた。寿司はまだまだ残っていた。マグロもイクラも、そこにちゃんと並んでいた。
栄太はもともと、宇宙飛行士になるのが夢だった。しかしいまは、地上で詩人になるのもいいような気がしていた。
母親は冷静なまま、にぎやかな食卓に秩序めいたものをもたらしていた。
父親は食卓に伏せて眠ってしまった。母親はひとり後片付けをしていた。おじいさんは部屋にひっこんでしまい、居間では姉がスナック菓子をつまみながらテレビを見ていた。
「ニュージーランドだよ!」
あまりにもやかましい声だった。しかし、父親の寝息は乱されることはなかった。
「イギリスじゃないって! バカだなあ!」
どうやら姉は、クイズ番組を見ているようだった。録画したクイズ番組を。
そのころ、栄太は、自分の部屋の勉強机に向かって、自由帳に新しい詩を書いていた。いまの栄太にとっては、なにを書いても、優れた詩だった。しかし最優秀賞を取る実力はあるのだから、読むにたえないものではなかった。それでも、翌日にはただの文章の羅列にしかならないようなものでもあった。
風鈴がチリンと鳴った。夕方にはすずしかった風は、どんどん冷たくなっていた。栄太は窓を強くしめた。すると、反動でまた少し開いてしまった。
月は、山々の頂上をうっすらとひからせていた。虫の音色がちらほら聞こえてきたが、どこか寂しさを感じさせた。畑にうえてあるものすべてが、眠ってしまおうとしていた。
栄太は、突然、寝てしまいたくなった。そして、詩を作る情熱が少しずつさめていった。勉強机の電気スタンドに小さな虫が一匹、あたったりはなれたりしていた。蚊ではないようだった。
翌朝、目が覚めると、栄太はなんだか寂しい気持ちがした。こころのどこかに、ぽっかりと穴があいてしまったような気がするのだ。なんだかふとんから出る気にならなかった。母親が起こしにくるまで、栄太は天井の木目をじっと見ていた。
昨日の食卓のにぎやかさは、一気に
父親は新聞を買ってきてくれるだろうか。栄太はそれが不安だった。しかし、新聞に載った自分の詩を見てみたいという気持ちは、昨日より
父親についで姉が会社にいってしまうと、おじいさんは畑仕事をする準備をはじめた。麦わら帽をかぶらざるをえない、暑い日だった。
あまりにもふだんに戻っていて、栄太は泣きたいような気持ちになった。昨日のことは、夢だったのではないか。最優秀賞さえ、まぼろしだったのではないか。そんな疑いが頭をぐるぐる回って、栄太は学校を休みたくてたまらなかった。
「お父さんが帰ってくるの、楽しみだね」
母親ははずんだ調子で、そう言った。しかし栄太には、それがしらじらしい嘘のように思えてしまった。次いでこの母親は、「そろそろ行かないと遅刻するよ」と声をかけた。それでも栄太は、なかなか腰をあげる気にはならなかった。
栄太が学校に行くと、同級生が新聞の切り抜きを見せようとしてきた。しかし栄太は、それを見ようとしなかった。父親が買ってきた新聞をみんなで囲めば、昨日のようなにぎやかさを取り戻せると思ったのだ。それまでは、ほかの家族と同じく、なにも知らないままでいたかったのだ。
しかしそんな栄太のしぐさを、同級生は快く思わなかった。そしてもう、栄太の誉れに対して、賞賛の声を送る同級生はいなくなってしまった。その日は、担任教師さえ、新聞に掲載された栄太の詩のことについては、触れなかった。
しかし栄太は、家族はまた、にぎやかな調子で自分を褒めてくれると信じていた。
父親の帰りは遅かった。
姉はお腹をすかせたまま待たされているものだから、いらいらしていた。おじいさんは、あくびをして、「もう今日は食べないでおこうかな」なんて言いだした。
栄太は、足をぶらぶらさせて椅子に座っていたが、あやまって、姉のすねを蹴ってしまった。するとこの姉は、栄太の頭を軽くぶった。
父親は帰ってくると、食卓に新聞を
栄太は、自分から新聞を読む気にはならなかった。まずは、ほかの家族に読んでもらって、褒められて、調子づいてから見たかったのだ。姉とおじいさんは、それぞれ新聞をひとつずつとって、ぱらぱらとページをめくった。
最初に見つけたのは、姉だった。
「ああ、見逃すところだった」
「うん? どこにあるんだ?」
「ここよ、ここ。この隅のところ」
おじいさんは、姉と同じページを見つけるのに、やや時間がかかっていた。
「なに書いてあるかわかるか?」
「わからない」
「わしもわからん」
栄太はぎょっとした。
「見せて」
栄太は、少しおおきな声をだした。
姉は新聞をふたつに折って栄太に渡すと、「お母さん、もう食べようよ」と言った。
「けん……げんてきなみざい……みざい……でおうとるんか。みざいが、くう……きょ……であることを、なんてよむんだ、これ。おい、『暴力』の『暴』の次に『く』でなんて読むんだ」
栄太はおそろしかった。自分の詩は確かに載っていた。しかし、それに対する評価というものがまったく解読できず、その難しい漢字の羅列は、自分の詩を否定しているように見えたのだ。なにより、姉もおじいさんも、自分の詩に対する感想を、まだ言ってくれないのだ。
もう、おじいさんは、新聞を畳んでしまっていた。姉は、炊飯器からごはんをよそいだした。そこへ普段着にきがえた父が顔を見せて、「お、読んだか。あとでおれも読むからそこに置いといてくれ」と言って、ビール缶をとりだそうと、冷蔵庫をあけた。
食卓は昨日のようににぎやかにならず、景気はいつよくなるのかとか、給料が減ったらどうしようかとか、栄太にとってはつまらないけれど、家庭にとっては重要な話が続いた。
栄太は、焼き魚の骨をとりながら、ここにいることが嫌で嫌で、さっさとお風呂に入って眠ってしまいたいくらいだった。
網戸の向こうから、いまの栄太をいらいらさせるほどの虫の音色が響き、風が吹かないものだから、身体がほてりきっていた。
「クーラーをいれましょうか」
母親は立ち上がって、リモコンを取りにいこうとした。しかし父親は、「まだそんなに暑くないだろ」と、少し強い口調でたしなめた。
栄太は眠れなかった。目がじんじんと痛んで、泣きだしそうだった。しかし、ここで泣いてしまうことが、どれだけみじめなことか。栄太はがまんをして、歯をくいしばった。
ずっと眠れないでいると、どんどんのどがかわいてきた。栄太はむくりと起き上がって、ふすまをあけて、階段を降りた。ふとんがもぬのからになってしまうと、隣の部屋からは、姉が寝返りをうつ音が聞こえてきた。
台所には、明りがついていた。だれかが起きているらしかった。栄太は、なんだか恐ろしかった。泣きだしそうないま、家族のだれにもあいたくなかった。
栄太は、おそるおそる、台所をのぞいてみた。するとそこには、寝間着をきた母親が、座って新聞をじっと見ていた。
「栄太はきっと、良い子に育つんだろうねえ」
母親は、ほほえみながら、そうつぶやいた。しかしそのつぶやきは、栄太のこころに届く、耳元でのささやきのようでもあった。
詩人の芽 紫鳥コウ @Smilitary
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