第2話 冬の朝、始まりと終わり。

 ある冬の日の事であった。その日は冷え込んでいて、その寒さのせいで幸助は目が覚めた。


 「……さっぶ……」


 テーブルに突っ伏して眠っていたらしく体のあちこちが痛い。さらには室内だというのに空気は冷え切っており、手足の先や頭がキンキンに冷えていた。


 どうやら彼は自宅に帰ってから就寝の準備をする間もなく疲れて眠ってしまったらしい。ここ最近ほぼ毎日帰宅するのが夜遅くであり、帰ってからも軽く食事を済ませ、シャワーを浴びて眠るだけであった。しかし昨日はそれすらもすることができないほど疲労がたまっていたようだ。


 「俺、エアコンとか着けてなかったっけ…しかもベッドにすらたどり着いていないなんて…しかも風呂にも入ってないから服も着替えてない」


 彼は部屋を見渡した。


 テーブルは山積みになったカップラーメンのカップと酒の空き缶のせいで表面がほとんど埋もれていた。さらに床にはジャケットやら靴下やらが脱ぎ捨てられており、漫画なども散らばっていて足の踏み場もない、完全に整理整頓が成されていない汚部屋と化していた。


 「今度の休みの日にはいい加減洗濯せんとなぁ…ごみは捨てればいいけど洗濯と洗い物はめんどくさいんだよなぁ……」


 彼は悲惨な状況の部屋を一通り見渡してため息をついた。そして偶然視線の先にあった時計の時刻を見て慌てる。


 「うおっ!?時間ヤバ!遅刻する‼」


 普段ならもう準備をして家を出ようとする時刻であった。


 「えぇっと、えっと、てか俺風呂入ってねぇのはまずいって」


 前日の過酷な労働によってかいた汗と歳を重ねるにつれて生じる独特な臭いを漂わせながら仕事場に向かうのは流石にまずい、というよりも自分がどんどんおっさんに近づいているという現実を突きつけられながら過ごすのはまっぴらごめんであった。


 すぽぽポーン!


 幸助はリビングですぐさま着ていたYシャツとズボンを脱ぎ棄ててそのまま風呂場へと走った。


 そして10分とかからずして彼はシャワーを浴び終え風呂場から出てきた。そして干しっぱなしになっていたパンツを履き、床に脱ぎ捨てられたスーツをせっせと着た。


 「おっと」


 玄関に向かったところで彼は服のにおいをかいだ。服にも独特な男臭がしないか確認をしたところ案の定若干臭ったので消臭スプレーを全身にかけてから幸助は外に出た。









□□□ □□□ □□□ □□□


 

 



 霧で視界が霞む中、幸助は走った。まだ寒さが身に応える時期の朝であったが先程熱いシャワーを浴びたのと走っているおかげかそこまで寒さは感じなかった。


 自身が吐き出した息が白くなっていた。そしてそれは顔面にぶつかる。水蒸気が顔全体に浴びせられ、顔がぺたぺたしていた。また、スーツの肩の部分や裾などには小さな水滴がついていた。


 しばらく細い道を進むと、無数の車が行きかう大きな道に出た。その道を突っ切るともうゴールは目前である。


 しかし運悪く幸助が渡ろうとした手前で歩行者用の信号が赤へと変わってしまった。


 「…はぁっ、はぁっ……まじか」


 幸助は息を切らして横断歩道の前で立ち止まった。そして深く息を吸い、呼吸を整える。


 「すぅー、はぁ~」


 息を整えて少し落ち着いたところで幸助は信号が見えるように少し目線を上に向けた。先程までよりも霧が晴れ、遠くの景色が見えるようになったいた。


 『この調子だと何とかギリギリ間に合いそうだな』


 幸助は腕時計を見て少しほっとしたのか体の力が抜けた。


 朝の通勤ラッシュだからであろうか、道路を走る車もそれなりに多く、いくら急いでいるからと言って急に飛び出したりでもしたら高確率で事故が発生するだろう。


 

 幸助は交通量の多い道路を眺めながらそんなことを考えていた。


 

 すると。


 


 道路を挟んで向かい側の街路樹の影から一匹の猫が顔を出しているのが見えた。


 


 

 『おいおい。そんなところにいると危ないぞ。まさかあいつここを渡ろうとしてないか。いくらすばしっこいからってそれは無理があるだろ』


 


 幸助は、姿勢を低めて後ろ足にじりじりと力を込め、スタートダッシュを決めようと体制を整えている猫をみて不安に思った。


 


 そして、次の瞬間。



 猫はついに飛び出した!


 

 勢いよく道路に飛び出した猫、走っていた車はその瞬間すぐに猫に気が付いたのか急ブレーキを踏む。


 

 何とか猫にぶつかる前に車は止まったが一瞬、猫もひるんでしまっていた。そしてすぐに猫は再び走り出したがしかし、猫はろくに左右を見ることもなくすぐさま一直線に走ってしまっていた。


 

 「あっ!」


 

 今度はもう片方の車線から大型のトラックが迫っていた。しかし、猫は確認などせず走り出してしまったためその様子など気づいてなどいない。


 

 トラックはクラクションを鳴らした。すると猫はその音に驚いてしまったのかトラックの走る車線で止まってしまった。そして血迷ったのか来た道を戻ろうと方向転換をした。


 そんなことをしているうちにどんどんとトラックは猫に近づいていた。


 


 『あのバカ猫っ!』


 


 幸助は手に持っていたカバンを放り投げ、道路に飛び出した。頭で考えるよりも先に彼の体は勝手に動いてしまっていたのであった。


 


 向かったのは完全に腰を抜かして動けない状態の猫の元であった。そしてそのまま幸助は猫を掴んだ。


 


 『よし!このままっ…!』


 

 猫を掴み、急いで道路を渡ろうとした時、


 


 

 ドガンッ‼‼‼


 



 鈍い音がした。


 


 『???』


 


 幸助は一瞬の出来事で何が起こっているのかわかっていなかったが同時に体がふわりと浮いたような感覚を得た。


 幸助はまるでスローモーションのように自分の体が落下していることを感じた。


 

 『あ。これ、死ぬな』


 

 幸助はそう察した。


 

 そして次に一気に地面にたたきつけられるような感覚が彼を襲った。


 

 「ぐっ…⁉、つっ……、かはっ…」


 

 その一瞬、彼は衝撃により呼吸ができなかった。


 

 体に力も入らず、呼吸すらもままならない、声もろくに出ない。


 そんな症状に続いて、次第に周囲の音が遠ざかるようになっているのと、瞼が閉じていくのか視界が狭まっていくようになっていった。



 

 

 『はぁ…バカは俺か』


 


 幸助は自分に呆れるような気持ちになった。どうして、こんなことをしてしまったのか。自分でもよくわかっていない。


 


 「っ……」


 


 幸助はもう完全に動いたり考えたりすることのできないようになってきていた。視界は真っ暗、音も何も聞こえない、完全に意識を失う寸前であった。


 


 意識が消える寸前、彼が無意識に思い浮かんだのは幼いときの記憶。頭の隅にあった記憶と共にある言葉が思い出された。


 


 『どんな時でも、優しさだけは忘れてはいけないよ』


 


 そして幸助の意識は暗闇へと落ちていった。


 


 


 


 


 


 


 


 

 


 


 


 


 




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