九鬼龍作の冒険  ビビの鳴き声

青 劉一郎 (あい ころいちろう)

第1話ビビの鳴き声

「こっちに来るんだろうな」

 高柳幸太は伊勢本線料金所の四番出口ブースから顔を出し、空を見上げながらぼつり呟いた。

紀伊半島の海岸沿いを走る高速道路は、名古屋西ICTから東名阪自動車道を経て、伊勢自動車道に入り、伊勢本線料金所が終点となる。伊勢市以南は観光地だから、休日以外は車の量はそれ程多くない。平日は二つのブースが開いているだけである。

黒い雲が荒れ狂う海の中に現れた化け物のように北東に流れて行く。そんな雲は突然止まり、こっちを振り向き、幸太襲い掛かって来るような迫力があった。

その時、いつも彼が心の中で感じてしまうのは、ぽっかり開いた心の穴が埋まるような気がし、彼は、

「ほっ」

とする。でも、お前のことなどどうでもいいと思っているのか、黒い雲は踊り狂い、止まることなく何かに向かって動き続けていた。だが、彼には、黒い雲が意地っ張りで、どことなく悲しそうで泣きべそを掻いているようにも見えた。

 そんなことを考えるのは、俺だけかと幸太は口を歪めた。

(良江・・・大丈夫かな?)

と、妻の顔が脳裏に浮かんだ。

 「幸ちゃん、直撃だよ」

 六番ブースから顔を出し、北島与一が声を掛けて来た。小型のラジオを聴いていたようだ。

 三重県を横断するつもりの高速道路は、長い間久居インターまでしか延びていなかったが、勢和多気インターまで突き進むと一気に対向二車線で伊勢まで繋いでしまった。さらに、尾鷲方面まで伸びてしまっている。

しかし、それだけでは志摩半島に観光客を呼び寄せるのには不十分で、自動車専用道路を伊勢本線料金所から鳥羽までつなげた。関インターから伊勢本線料金所まで九つのインターがある。出口の料金収受ブースの数は各インターで違う。高速道路の終点、伊勢本線料金所のブース数は入口のブース数を入れると九つある。人口十万人もいない所に九つもあるのは伊勢神宮があるからで、特に正月七日間は九つのブース全部開放しても、松阪インターまで渋滞してしまう。しかし、五月の連休、盆休み、正月以外の車の量は少なく、普通朝夕を除くと二ブースだけを開けているだけである。

 通常、車の流れの間隔は大体が規則正しい。その時間の間隔に多少の違いはあるが、数台か十数台の流れが終わると、短い時で一分、長い時は二三分車が来ない時がある。

 今がその時だった。まして台風が直撃しょうとしている時だから、車の量も普段よりは少なく、次の車の流れがやって来るまでの時間もいつもより長かった。

 幸太は四番ブースから出た。五番ブースは閉めてある。

もう暴風圏内に入っているのだろうか。風は強いが、立っていられないことはなかった。雨は降ったり止んだりで、高速道路の収受員の制服に雨が染み込むようなことはなかった。

 幸太は、今の時間が気になったのでブースに戻り、通行券処理機のデジタル画面で現在の時間を確認した。午後の四時三十分を回った所だった。もうじき仕事は終わる。早く帰ってやらなくては・・・と幸太郎は焦ってしまう。

 「来たよ」

 北島の声がかかる。

 三、四、五・・・十二三台か・・・台風の直撃で早く仕事を終えた人が、いつもより車が多かった。

 幸太は四番ブースに戻り、先頭で突っ込んでくる車を普通車と落ち着いて確認してから、通行券処理機の普通車のボタンを押した。

 風が強いからしっかりと確実に通行券を取らなくてはいけない。これまで何度か受け取り損ねて飛ばしてしまい、通行券と鬼ごっこしたことがある。だから、運転手の顔を見て、こりゃだめだ、こんなのとは気が合わないと思ったら両手で通行券を握り締める。通行券は曲がり、処理機の中に入れ難くなるが、広大な料金所の区域を鬼ごっこするよりは増しだった。

 「こっちに来るんだねぇ」

 運転手の方から話し掛けて来た。

 幸太はちらっと運転手の顔を見た。一見三十前くらいでっしりとした体格の男だった。

すると、一瞬収受員に鋭い視線を向けた。この時、幸太は肩を震わし、男から目を逸らした。

「ええ」

と答えた後、狼狽えた。

男は収受員のその様子を見逃さなかった。

「どうなのかな?」

男の目は柔和に変わった。

幸太の顔から怯えのような色合いが消え、男の問いかけに応え始めた。顔を近づけ、

 「らしいですね。今からでもいいから、進路を変えて欲しいくらいですよ」

 と言い、笑顔をつくった。

 幸太は本心を言った後、

「ははっ」

と笑った。正直笑える気分ではなかった。

その男は薄い笑みを浮かべた。

「いい顔になったね」

「そうですか」

「そうだよ。何か心配ごとがあるのかな。おっと何も言わなくていい。君が、自分て解決したらいい。面白い話を教えてあげよう」

幸太は戸惑い、変な人だなと思った。でも、何となく頼りになるな、と思った。幸太は指を広げ、ブースの引き戸にもたれ掛かった゜。

「黒い雲を見てごらん。あんな顔をしている雲だけど、いずれ隙間が出来、眩いばかりの太陽が顔を出す。そこから、金色の馬に乗ったアボロンという勇者が現れるんだよ。ははっ、本当だよ。その勇者は、君に強い力を与えてくれる・・・私はそう信じているよ」

幸太は、何だか夢を見ているような気分だった。

「信じない?」

幸太は言葉が浮かばない。

ファ、ファー

車のクラクションの音だ。何をしている、早くしろ、というのである。幸太は夢から目覚めた気分だった。

そして、絶対に訊くことのない問いかけをした。

「失礼なことをお聞きしますが、名前は・・・?」

その男は、なぜか答えた。

「少しも失礼じゃないよ、九鬼龍作」

にゃお・・・

「ビビ、いい子だ」

九鬼龍作という男は、ビビという黒猫の首を撫でている。

幸太は驚いた。その男の膝には細い体の黒猫がいたのである。彼は、その時まで黒猫がいるのに気付かなかった。


良江の顔が浮かぶ。喜ぶ顔ならいいが、今にも泣きそうで何かに怖がっている。良江自身は意識していないようだが、誰が見ても良江の様子が変なのは見て取れる。良江と一緒になって六年経つが、今はちょっと増しになった。

 一緒になった頃はひどかった。


 高柳幸太は三重県の鳥羽でタクシーの運転手をしていた時がある。良江と一緒になる前だから、七年も前のことになる。鳥羽というより志摩半島は観光で成り立っていると言っても良かった。夏の観光客が元の住処に帰って行くと、鳥羽はすっかり寂しくなる。そうなると、鳥羽のタクシーの運転手は秋の観光シーズンまで観光の仕事に溢れる日が多くなる。

 幸太は今でも忘れはしない、九月の二十五日だった。台風はもう去ってしまっていた。幸太は駅の先頭で乗客の来るのを待っていた。一時間を過ぎていた。地元の客がたまに乗るくらいで、最悪夕方まで一回も走れないかも知れなかった。

 去ってしまった台風は風の強さよりも雨の量の多さが気になっていた。近鉄線と国道一六七号線はほぼ平行して賢島まで走っているが、あの時は並行して走る加茂川が氾濫して、鳥羽と賢島間を完全に分断してしまった。

 そして、あの台風は、鳥羽で生きた良江の十九年の人生を終焉させてしまったのだった。良江の両親はあの日軽自動車で国道を走っていたが、氾濫した雨で加茂川に押し流されてしまったのだった。その数時間後、彼女は警察署で両親と会うことになる。


 みんな、何もかも知っていた。喫茶カモメに集まる人は、自分の子供の可愛さは話しても両親のことは話さない。まして、雨の日は尚更だった。

 「ママ」

 いつもカモメのマスターでいる常連客の一人が、ママに目で合図した。良江は帰した方がいいと言うのである。

 ママが頷く。

 良江を呼びに店の奥まで入って行った。

 「幸ちゃん、家まで頼むよ」

 マスター気取りの男が、幸太に声を掛けた。財布から二千円を幸太に渡した。


 幸太はバックミラーで良江を見た。彼女は外の様子を見ていた。雨は降っていたが、彼女の記憶を呼び戻すような強い雨ではない、と幸太は思った。良江の眉が二度ピクピクと震えた。

 (脅えているのかな・・・)

 幸太は、今度も黙っていた。重苦しい気分が嫌で、幸太は窓を半分ほど開けた。風が一気に車の中に入って来た。良江は顔を幸太に向けた。バックミラー越しに良江の目と合った。

 おそらく良江は気付いていないと思うが、幸太が彼女を乗せるのは二度目だった。一度目は、まさにあの日だった。

 幸太は、あの日の良江をはっきりと覚えていた。鳥羽駅の先頭で客待ちをしていた幸太の車に真っ青な顔をして乗り込んで来た女が、良江だった。真っ直ぐ前を見たまま

 「警察に」

 と、行き先を言った。幸太はまだ鳥羽に来たばかりで、良江が何処の誰だか知らなかった。普通こういう場合、何かを話しかけるのだが、そのような雰囲気でないというのは、すぐに感じ取ったから幸太は話し掛けなかった。車が流されて、乗っていた人が行方不明というのは、幸太は耳にしていた。時々バックミラーで良江の様子を窺いながら、車を走らせていたが、鳥羽警察署に着くとすぐに人が走って来て、彼女を抱きかかえるようにして警察署の中に入って行くのを見た時、幸太は、あっ、そうか、と気付いた。

 やはり今度も幸太は声を掛けないつもりだった。だが、幸太は良江が何かに耐えているように見えた。幸太は彼女が余りに可哀相に感じた。だから、

 「大丈夫・・・」

 と、声を掛けた。自分の声が風に消されたような気がしたが、良江はバックミラー越しに微笑んだ。幸太は、この日を切っ掛けに良江と会うようになった。

 精神的に弱り切っていた女だったから、幸太に何かを求めたのかも知れない。彼には重苦しい圧迫感であったが、耐えた。三ヶ月経つとそんな感情は消えたような気がした。一緒に暮らそうと決心すると、幸太はすぐに鳥羽から離れようと言った。良江は賛成も反対もしなかった。幸太に従った。

 この六年の間、一度も鳥羽に帰ったことがなかつた。そうかといって、鳥羽から遠く離れる気もなかった。良江の気持ちを推し測った結果だったが、良かったのか悪かったのか、幸太は今でも判断し兼ねている。

 伊勢本線料金所から車で十五分程の所にある小さな団地に住んでいた。家も小さい。今の収入ではちょうどいい大きさだと幸太は思っている。

 家の小さな駐車場に車を入れようと後ろを見ると、一人娘の光江がガラス窓に顔をくっ付けてこっちを見ていた。おでこ、冷たくないのかな、と幸太は思った。ガラスの冷たさが彼の体に伝わってきた。

 そばで良江が手を振っていた。

 幸太も手を振る。彼自身、気持ちがほっとするのか、自然と微笑んでしまう。

 これから何年か先、今を、あの頃が一番幸せだったと振り返るに違いない

 と、幸太は思うことがある。もっとお金があるにこしたことはない。だが、普通の仕事をしていては限界がある。これが精一杯だと思う。

 車から出ると、雨が真横からぶつかって来た。小さな団地といっても十件ばかり建っているだけである。風の吹く方向が微妙に変化している。幸太の動きを止める。

 良江が玄関から出て傘を持ち、幸太を迎えに来ようとしている。

 「いいよ」

 幸太は風に声を消されないように声に力を入れて叫んだ。

 幸太は玄関まで走った。

 「有難う。中に入って」

 幸太郎は良江の肩を抱き寄せた。

 (震えている)

 幸太は良江の身体に小さな震えを感じ取った。

 雨の日、良江は理由もなしに泣くことがあった。そんな時、良江は幸太の胸で誰かに甘えるようにすがって来た。幸太は黙って彼女を抱いた。今の良江を見る限り、彼女に泣いた気配はなかった。

 「さっきのニュースで言っていたけど、伊勢湾を通過して行くんだって」

 良江が幸太にタオルを差し出した。

 「らしいね」

 幸太はちらっと妻の表情を観察したが、そこに光江が顔を出した。

 「幼稚園、今日は早く帰って来たんだよ」

 「うん。台風が来ているからね」


 光江は何が嬉しいのか、ニコニコしている。顔が赤いのが気になったが、幸太は光江につられて微笑んでしまう。幸太は光江の笑顔が好きだった。五歳の子供がみんなこんな笑顔であるとは思わない。彼は自分の家系に、こういう笑顔はないと思っている。多分、良江の家系に原点があるのかもしれない。それが、あの事故以後良江の顔から笑顔が消えたような気が、幸太にはした。

 みんな、仮定だった。それでいい。深く考え問い詰めると、いろいろなことが鬱陶しくなる。幸太はそう思っている。


 「光江、食べないの?」

 良江は、光江の様子が変なのに気付いた。

 「食べたくない・・・」

 いつの間にか光江の声からハキハキさが消えていた。

 どうしたの、と言いながら、良江は光江の額に手を当てた。

 「熱がある・・・」

 幸太も光江の額に手を当てた。

 「あるね」

 幸太の耳に雨と風の音が飛び込んで来た。

 光江が生まれてから定期健診は欠かさず行っていた。

その為かどうかは分からないが、病気らしい病気をしたことがなかったので、風のような病気で病院に行ったこともなかった。だから、大人の解熱剤はあっても子供のはなかった。

 幸太は光江を抱き上げた。今の所、熱のためにぐったりしている様子はなかった。だが、抱いた光江の身体は熱かった。

 「体温計,持って来て」

 計ると、三十八度二分だった。

 まだ雨と風の音がうるさかった。

 「今から病院に連れて行こう」

 良江はさっそく電話帳で調べ始めた。

 幸太は光江を抱きながら、窓から外の様子を眺めた。

 空は真っ暗だったが、雲の動きは見て取れた。光江も薄っすらだが開けた目で、幸太と同じように外を見ていた。

 幸太は光江の変化に気付き、

 「おい、大丈夫か」

 と身体を揺すった。

 光江は薄っすら目を開け、力なく微笑んだ。幸太は光江の頬に自分の頬をくっ付けてみた。

 熱がさらに上がって来たようだった。

 幸太は驚いていた。光江の熱は三十九度近くに上がってきているのかもしれない。幸太は光江を抱き直した。光江はぐったりとして、いつの間にか幸太に抱かれたまま眠っていた。苦しいのかも知れない。

 「あったわよ。井田小児科。来て下さいって」

 「よし」

 幸太は勢い良く声に出した。光江を良江に預け、車の準備に掛かった。


 後ろの座席で、良江は五歳の子供を膝の上にのせている。光江は五歳にしては身体が小さい。母の良江に似ている。

 良江は窓の外に目をやっていた。見た所いつもと変わりはないが、車の中には何かを思い詰めた重苦しい圧迫感が漂っていた。幾分彼女の顔が強張っているように見えたが、幸太は何も言わなかった。みんな彼がかってに感じているだけなのである。

 家を出る前、

 「俺だけでいいよ」

 と、幸太郎は言った。

 「私も行く」

 良江の返事はこれだけだった。その後、何も言葉を交わしていない。井田小児科は伊勢市内にあり、幸太の家からは車で十分くらいだった。料金所に行く途中に、病院の前を通って行く。風が強くなり、雨の量も多くなって来た。時々強い突風が吹き、車が大きく揺れた。

 瞬間、アクセルを踏む力を緩める。幸太はバックミラーで良江の様子を窺った。彼女は相変わらず窓の外を見つめたままだった。

 幸太はラジオを点けた。窓ガラスに当る風と雨の音が大きく、ラジオからの声が良く聞こえなかった。

 「今頃、伊勢湾を通過しているのかも知れないね」

 幸太は良江の反応を待った。

 「う、うん」

 バックミラーを通して良江と目が合った。

 幸太は、今良江が何を考えているのか気になった。旧の国道二十三号線に出て、伊勢市内に向かって百メートル程走ると、宮川に架かる度会橋を渡ることになる。昔・・・ずっと昔といっていい、伊勢神宮に行く人が身体を清めた川である。これも昔だが、良江の心も清めて欲しい・・、と幸太は本気で思ったことがある。一度だけである。

 雨は、台風が暴風圏に入る前から降っていた。宮川の水嵩は大分と増えているに違いない。川の水に対する恐怖心は良江もあったが、幸太も彼女以上に持つうになってしまっていた。度会橋を早く通過するつもりだったが、幸太自身が気になりアクセルを緩め、水嵩がどのくらいに増えているのか見てしまった。

 荒れる風に流される真っ黒い雲も迫力があったが、宮川の気が狂ったように踊り狂っている濁流を見ていると、車ごと引き込まれてしまいそうな錯覚に襲われた。この瞬間、幸太の脳裏に七年前の出来事が蘇り、

 (しまった)

 と、幸太が思った時には遅かった。幸太は慌てて良江の様子を、やはりバックミラーで確認した。

 良江の目は宮川の濁流に奪われていた。良江の眉がピクピクと二度震えた。良江の顔色は青白く、脅えているように見えた。あれから七年経つのに、良江の心の苦しみは少しも和らいでいなかった。

 「ねっ、私の名前、呼んだ?」

 突然、良江は真顔で問い掛けて来た。

 「いや、呼ばないよ」

 「そう、気のせいかしら」

 幸太は良江の異様な様子に戸惑った。彼は体がペチャンコに押し潰されそうになり耐えられず、良江から目を逸らした。もう慣れてしまっているはずなのに。

 数秒の沈黙が生まれ、何だか気まずくなり、幸太はアクセルを強く踏み込んだ。

 「風邪かしら?」

 今度は、良江から話し掛けて来た。

 「えっ・・・かも知れないね」

 幸太は運転に集中しようと前を見たままだった。

 「初めてね」

 「何が・・・」

 「光江が熱を出したの」

 「あぁ」

 幸太は言葉が続かない。幸太は、何だか自分の心の中を見透かされてしまっているような嫌な気分になった。

 「ふっふっ」

 幸太はバックミラーで良江を見た。小さな笑いだが、心の中から笑っているような気持ちの良い笑顔だった。

 幸太も思わず笑ってしまった。

 「どうしたの?」

 もうすぐ井田小児科に着く。次の信号を西に曲がったら、すぐである。

 「やっぱり、古めかしい名前ね」

 「えっ、あぁ、名前・・・」

 良江の顔から笑顔が消えない。なぜだか分からないが、顔が光り輝いていた。

(ああ・・・そういえば、あの男の人、雲の切れ間から金色の馬に乗って、アポロンが現れるよ、と言っていたなあ)

そんなこと、あるのかな?幸太は嬉しくなった。

 まだ光江が生まれる前である。

 良江が、

  「名前、決めたの。少し古めかしいとおもったんだけど。いいわよね」

 と提案してきた。

 良江がどうして光江という名前にしたのか、幸太はすぐに理解出来た。多分、良江は母を尊敬に近い気持ちを持っていたのだろうか。だから、母の名前の一字をもらった。そして、自分の名前も愛する子供に使った。

 「いいさ。大きくなったら、名前の意味を自分で理解し、納得するよ」

 「うん」

 と、参院の病室で、幸太は素直に喜んだ。

 「どうして、そんなことを思い出したの?」

 幸太はハンドルを右に切った。車はほとんど走っていない。

 「だって、さっきの電話で看護士さん、患者さんの名前を教えて下さいと言ったので、光江というと、光江さんですかって言うのよ。言い方が何だかおばあさんぽく聞こえたの。それを思い出しちゃって」

 良江はまた微笑んだ。

 幸太は車をバックで医院前の小さな駐車場に入れた。待合室には誰もいなかった。他に患者も来ていなかった。良江が光江を抱き、診察室に入った。


 高柳幸太が診察料を払い車に戻ると、良江と光江がいなかった。トイレかな、と思ったが、医院のトイレは中にあった。待合室そのものが大きくない。行ったのなら気付くはずである。

 幸太は不安に襲われた。度会橋を渡っている時、バックミラーに映った良江の青白い顔が、幸太の頭上を直撃した。

 (まさか!)

 と思い、幸太は空を見上げた。星が見えた。台風の中心に入ったようだった。そのまま強い力に引っ張られるように、幸太は走った。良江も心配だったが、熱のある光江の方がもっと気掛かりだった。

 この台風の中、行ったとすれば、あそこしかない

 幸太の脳裏に浮かんだのは、水嵩の増えた宮川だった。彼の妄想はさっきの良江の異様な様子の助けを借りて、一気に結末まで進んでしまった。奔放に流れ狂う濁流が良江の身体を被い巻き込んで行く。

(良江だけでなく光江も・・・)

良江は助けを求めることもなく、濁流の中に消えて行く。幸太はただ見ているだけだった。

 幸太は何度も何度も空を見上げた。まだ星は見えていた。台風の中心に入ってどのくらいの時間が経つのか分からなかったが、無邪気に輝いている星が消えてしまうまで、そんなに時間はない筈である。

 車も走っていなければ人も見かけなかった。だから、人が見えれば良江に違いなかった。まして子供連れが歩いているなんて考えられなかった。

 宮川の堤防に二つの人影が見えた。

 (いた!)

良かった

 と、幸太は安堵した。その瞬間、二つの人影が動いた。堤防に沿ってではなく、河川敷の方へ。水嵩が増えているから、すぐに濁流の中に入ってしまう。

 幸太郎は走った。

 (だめか)

 「良江」

 幸太は全身に力を込め、叫んだ。この時、強い風が幸太郎の口を被った。


 光江は、風邪という診断だった。案の定、一度は三十九度まで上がったが、朝起きた時には三十七度二分まで下がっていた。幼稚園は念のために、二日間休んだ。

 料金所での一日勤務が終わった時には、家に着くのは午前十時頃になる。いつもは、光江は幼稚園に行っていないが、その日はどうしてか光江が幸太を迎えに家から飛び出して来た。

 幸太は、また熱でも出たのかなと思って、光江を抱き上げた。

 良江に、どうしたの、と聞くと、

 「海を見に行こうと思って」

 という返事に、幸太はちょっと驚いた。

 台風が去って五日目だった。七年目の台風は、どうやら良江から何かを持って行ってくれたようだった。幸太はそう思った。良江はあのまま宮川の濁流に入って行く気だったようだ。母の声が、寂しいんだよ、こっちに来て、と聞こえてきたの、と良江が正直ら言っていた。

 そんな良江の足を止めたのが、光江の、

 「お母さん」

 という声だったという。

 幸太は光江を抱き上げた。

 「よし、海を見に行くか」

 「うん」

 幸太は、光江の男の子か女の子かよく分からない返事が気に入っていた。とにかく元気がいい。

 朝の軽い食事を取っている時、

 「眠くない。今日じゃなくていいのよ」

 と、良江が聞いて来たので、

 「大丈夫だよ」

 と答えておいた。

 本当はちょっと眠たかった。昨夜の仮眠中に起こされたのである。通常、夜は一つのブースしか開いていない。そのブースに車が二十台ばかり並んでしまったのだ。しかも、車は次から次へとやって来ていた。

 一人ではやって来る全部の車を処理できないので、幸太もブースに入った。

 大阪の大学生風の若者が、

 「あっという間にいい波の情報は伝わるようになっているのさ」

 と自慢げに言っていた。どうやら安乗の海岸にいい波が来ているらしかった。特に関西方面のサーファに人気があるようだった。幸太も二三度通り掛かったことがある。とても日本の海岸とは思えないくらいの迫力のある波が打ち寄せていた。

 幸太は六畳の畳の部屋で少し横になった。

光江の声が聞こえていた。なかなか休める気分になれない。幸太はすぐに起きた。そして、

 行くか

 と自分に言い聞かせた。

 車の中でも光江ははしゃいでいた。

 「海を見るの、初めてなのかな?」

 良江は光江を見つめ、微笑みながら頷いた。

 海に行くには旧国道二十三号線を突っ切らなくてはいけない。

 「そっちじゃないよ。右に曲がって」

 良江の声に張りがあった。幸太はハンドルを右に切った。

 「こっちは・・・」

 幸太は次の言葉が出て来なかった。たった二文字、鳥羽・・・という言葉が。幸太は良江の反応を観察したが、はっきりとした拒絶はなかった。鳥羽は伊勢から遠くない所だった。行こうという気になればいつでも行けた。それなのに、この六年、一度も行かなかった。

 幸太の運転する車は、自動車専用道路に上がる信号で止まった。彼は振り向き良江を見た。

 言葉が出て来ない。

 「幸太さん」

 良江から話し掛けてきた。

 「何?」

 幸太は信号を気にした。

 「有難う」

 良江はぽつりと言った。

 幸太はすぐに目を逸らした。そして、信号が青になるのを待った。良江が言った、「有難う」の意味を、幸太なりに解釈した。胸の中に中くらいのゴム鞠が詰まり、体の中から込み上げて来る感情に、

(俺は何を我慢しているんだ)

と苛立ちを覚えた。

 「ねぇ、お父さん。前に行っていい」

 光江が助手席に乗り移ろうとしていた。

 「いいけど、ちゃんとシートベルトするね」

 「うん、約束する」

 「じゃ、いい」

 光江は助手席にシートを乗り越えた。光江が座った時にはもう青になっていて、シートベルトは走りながら装着した。

 「お父さん、海って大きい?」 

 「大きいよ」

 「きれい?」

 「きれいいだよ」

 「青い?」

 「ものすごっく青いよ」

 「じゃ、怖い?」

 幸太はバックミラーをちらっと見た。良江は車の進行方向の遥か前方を眺めていた。彼も良江の見ている方向に目をやった。伊勢の空から秋空特有の白い筋雲が鳥羽の方に流れていて、その先には見覚えのある青い空があった。

 「怒ると、怖いこともあるね」

 「いやだ。光江、怖いの、嫌い」

 でもね。台風みたいな時、真っ黒い雲がいるよね、光江も見たよね」

 光江は、

 「うん」

 と頷いた。

 「そんな雲も消えてしまい、黒い雲の隙間から太陽が現れるんだ」

 「そうなんだ」

 光江は不思議そうな目をして、幸太を見ている。

 「その隙間から金色の馬に乗ったものすごっくかっこよく強い人が現れるんだ」

 「お父さん、見たの?」

 幸太はバックミラーを見た。良江か微笑んでいる。

「見たよ」

「かっこよかった?」

「そうだね」

「いつ、見たの?」

「今日の朝だよ。また、光江が寝ている時にね」

「光江も見たかった」

 幸太はどう返事したらいいのか、困った。

「そうだね、今度は光江と一緒に見るよ、約束する」

 光江は、

「うん、約束だよ」

といい、小指を出した。

 「大丈夫だよ。お父さんもお母さんもいるだろう」

 光江は幸太郎と光江の顔を見つめ、

 「うん」

 と大きく頷いた。

 幸太にとっても久しぶりの鳥羽だった。彼自身には何の興味も無い所だった。妻、良江あっての鳥羽だった。

 「いいの?行く」

 幸太は思い切って、聞いた。

 良江は何かを考えている風に見えた。

 幸太はどういう返事が来るのか、胸が高鳴った。良江の言う通りに車は走らせている。もうすぐ鳥羽である。改めて決心を聞く必要があった。

 良江は座席のシートの間から顔を出し、

 「行く」

 と笑顔で答えた。

 「場所、覚えている?」

 「いるわよ。鳥羽にいる時、母と何度もお参りした所だから」

 幸太は頷いた。

 「見てごらん」

 幸太は良江が見ていた青い空を指差した。 光江は身体を乗り出して、目を凝らした。

 「あの青い空の下に海があるんだよ。今、そこに向かっているんだ。きれいな青だね」

 「うん、お母さんみたいに、きれい」

 光江は平然と言った。幸太は良江に顔を寄せた。

 「お母さん、きれいだね」 

 「うん」 

 光江は良江を見て、満足そうな表情をした。光江の目は幸太に流れて来て、にこりと笑った。

 幸太は良江から目を離さないようにしていた。本当に良江の苦しみが終わったのか、なぜか、気になったのである。

 「・・・」

 良江の眉が二度ピクピクと震えたのを、幸太は見逃さなかった。 

 幸太の表情から、自然と笑顔が消えた。 

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