さよなら風たちの日々 第8章ー1 (連載25)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第25話


【1】


十月も後半になると、街はすっかり秋の気配に包まれていた。風も、樹木も、青く澄んだ空も、それらは妙に落ち着いた彩りをみせ、秋の取り澄ました横顔になっているのだ。

 そんななか、受験勉強の大詰めが近づいていたぼくは、追い詰められていた。成績が芳しくないのだ。あせり、苛立ち、やり場のない焦燥感。姿が見えない何かに押しつぶされそうで、ぼくはその頃、異常なほどナーバスになっていた。

 そんな土曜日。ぼくの部屋にモダンジャズカルテットの音楽が流れていた土曜日。ヒロミはぼくの勉強の邪魔にならないよう部屋の片隅で本を読みながら、音楽に耳を傾けていた。

 いつもならぼくは、そんなひとときを楽しく過ごすのだけれど、ビブラフォンの切ない旋律のせいだろうか。それとも芳しくなかったテストの成績が、汚濁した沼から噴き出したメタンガスのように重く心にのしかかっていたからだろうか。

 静かに音楽を聴きながら本を読んでいるヒロミに、ぼくは不機嫌そうに言った。

「どうして、黙ってるんだよ」

 その声に、ヒロミの眉が少し動いた。しかし返事はすぐ返ってこなかった。

「退屈、してるんじゃないのか」

 もう一度ぼくが言うと、ヒロミは少し困ったような顔になり、ぼくを見つめ返した。

「どうしちゃったんですか。先輩殿」

 首をかしげながら、とまどうように笑うヒロミは、ようやくそれだけ答えた。

 退屈なんてしてません。こうしてそばにいるだけでいいんです。

 ぼくを見つめるヒロミの目は、明らかにそう語っている。

 けれどぼくの脳裏には、ある言葉がこびりついて離れなかった。

 予備校講師の温かい目。だからこそつらい目の前の現実。

 ランク、落としましょうか。

 ぼくのために言ってくれるその言葉が、ぼくの頭の中で何度もリフレインしている。


 音がした。何かが飛んでいるのだ。羽音をたてて、何かが飛んでいるのだ。それは浮塵子うんかだろうか。浮塵子の羽音だろうか。その浮塵子が飛翔する、羽音なのだろうか。

 助けてよ。ぼくを助けてよ。

 ぼくは何かにすがりつきたくて、心のよりどころが欲しくて、ヒロミを抱き寄せた。

 するとどうしたことだろう。驚いたヒロミは一瞬身体をこわばらせ、ぼくを拒んだのだ。

 さらさらした髪だった。ヒロミのさらさらした長い髪がそのとき、ふわりとぼくにかかった。

 その匂いに、ぼくの理性が弾け飛んだ。

 くそっ。女って、どうしてこんなにいい匂いがするんだ。


               【2】


 男はいつだって自惚れている。自分に好きだって言ってくれた女は、どんなことだってさせてくれる、許してくれると思ってしまう。だからぼくはヒロミの意外な反応に驚いた。けれどもそのとき、ぼくの心には長いあいだ閉じ込めていた妄想が一気に噴出したのだ。それはパンドラの箱を開けたとき、一気に飛び出してくる数多くの邪悪なものたちに似ていた。

 ぼくはヒロミに強引に唇を近づけ、それをヒロミの唇に重ねようとした。けれどヒロミはその直前、顔をそむけ、からくもそれをよけた。逃げる唇と、それを追う唇。何度かそんなことが繰り返され、無駄だと気づいたぼくはヒロミのあごに指をかけ、顔を押さえつけた。するとヒロミの目は、ようやく観念したようになった。けれど、ぼくがまた唇を近づけようとすると、ヒロミは満身の力をしぼって、その唇から逃げるのだった。

「いや。いやです」

 ヒロミはそう言いながら、両手でぼくの身体を押しのけようとした。けれどもぼくは、それ以上の力で身体を密着させ、ヒロミの髪をかき分けながら、唇を重ねようと急ぐ。そのつどヒロミの髪がぼくの鼻腔をくすぐり、その匂いがめまいのような感覚で、ぼくを酔わせる。そしてそのめまいが、早くヒロミを征服しろとぼくにささやき、あおりたてる。

「やめてください。こんなの、いやです」

「先輩殿。お願いですから」

 ヒロミは顔を左右に振りながら、ぼくに哀願し続けた。

「ヒロミ、おまえおれが好きなんだろ。だったらいいじゃないか。キスぐらい」

 こんな唾棄だきすべき言葉を耳元で何度もささやかれ、けれどもヒロミは抵抗を止めようとはしなかった。

 男のエゴ丸出しの決まり文句。なぜ男は、この言葉を使いたがるのだろう。その言葉で女性は果たして、心はもとより、唇、あるいはそれ以上のものを許すだろうか。たとえそれが好きな男が言った言葉であったとしても、女性はその言葉で従順になるのだろうか。でも男がこの言葉を使うのは、女性が抵抗しているからだ。しかしこの言葉で女性が、急に男を受け入れることなんてないのだ。絶対に。

「好きです。でも、こんな形じゃ、いやなんです」

 大きな声だった。それは絶叫に近かった。けれどぼくは、その叫びを聞く耳を持っていなかった。

 ぼくはヒロミを押し倒した。そうして左腕をヒロミの首の後ろにまわし、その手で彼女の左手をつかんだ。ヒロミの右手はぼくの身体の下敷きになっているから、動かすことはできない。これでヒロミの胸は無防備になった。

 ぼくの関心は、ヒロミの胸に移った。セーラー服の下でその小さな隆起は、膨張と収縮を繰り返しながら、あえいでいる。ぼくはその隆起に柔らかなゴム風船のような感触を想像したのだけれど、その感触は想像を裏切るような固いものだった。

 ブラジャーだ。ブラジャーのぶ厚い感触だ。まず、これを外さなくちゃならない。

 ぼくの欲望は頂点となった。


               【3】


 ヒロミの乱れた呼吸が、胸の上に載せたぼくの手を上下させている。その胸は不規則な膨張と収縮によって、侵略者であるぼくの手をはねのけようとしている。

 ヒロミのあえぐ息がぼくにかかり、一瞬ぼくの頭の中はクラクラする。

 たぶんぼくは今、世界で一番醜みにくい顔をしてるんだろうな。

 覚醒した意識と酩酊した思考が交互にやってきては、それはドップラー効果のような間延びした感覚に変化しながら、遠ざかっていく。

 それを振り払うように、ぼくはもう一度ヒロミの胸を荒々しくまさぐる。それが痛くてヒロミは、小さくうめき声をあげる。そのうめき声がさらに欲望の炎をたぎらせ、ぼくを狂暴にする。

 その一方で、ぼくはあせっていた。ジャンパースカートの下から胸に手を入れようとしても、ジャンパースカートは上下がつながっているので、手を入れる場所が分からないのだ。

 このセーラー服は、いったいどんな構造になっているんだ。どうすれば手を、中に入れることができるんだ。それが分からずぼくの手はむなしく、ジャンパースカートの上からヒロミの胸をまさぐるしかなかった。

 そこでぼくは身体を上にずらし、今度は襟元から手を入れてみた。

強引に押し込んだその手の指先に、小さなヒロミのふくらみがあった。さらにその頂点に、マッチ棒の先端のような突起。

「あっ」

指先がそれに触れるとヒロミは、短い声をだし、顔をゆがめさせた。

 けれどぼくの行為はそこまでだった。ヒロミは身体を回転させ、ぼくの魔の手から小さな胸のふくらみを守ったのだ。

 やむなくぼくはその右手を、ヒロミの太ももに移した。プリーツスカートをたくしあげようとする右手を、しかしヒロミは足と腰を激しく暴れさせることによって、それを防いだ。

「お願いです。やめてください。先輩、先輩殿」

 ほとんど泣き声に近い声で、ヒロミが懇願する。ぼくはその声を無視して、彼女の身体を表向きにしてから自分の右足をヒロミの足にからめた。ヒロミは両足に力を入れ、その侵入を防ごうとする。

 するとヒロミの顔が無防備になった。その顔にぼくは自分の顔を近づけ、今度は唇を奪おうとする。けれども彼女はその瞬間、顔をそむけ、からくもそれをよけた。

 それでもぼくは、諦めなかった。

 鈍い音がした。

 暴れ続けて上にズレて逃げようとするヒロミは勉強机の角に、頭をぶつけてしまったのだ。

 ヒロミの顔に苦痛が走った。

 それを無視して、ぼくは、ヒロミの両足首をつかんで部屋の真ん中まで引きずりだし、さらにヒロミに襲いかかった。

「いやです。ほんとうにいやなんです」


               【4】


 そうして何度ももみ合ってるうち、ヒロミは完全に仰向けにされ、ぼくに無理やり万歳をする格好にさせられた。

 その状態ではヒロミは身動きできない。

 そうしてヒロミは涙目を大きく見開き、くやしそうにこう言った。

「卑怯です。好きでもないくせに」


 その刹那、ぼくに憑依していた何かが消えた。

 音もなく、跡形もなく、何かがぼくから消えた。




                           《この物語 続きます》








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