第3話 女王と侍女


 ヴィットリオは額に手を当てたまま、自室に向けて歩みを進めていた。

 足取りは、酒に酔ったようにゆらゆらと。


 本人も、地に足がつかないという状態を体感している。


――ああ、自分は何という事をしてしまったのだろう。


 後悔。

 悦び。

 悔恨。

 愉悦。


 交互に訪れる感情。

 だがもう、時間を戻す事は出来ないのだ。

 やってしまった事は、なかった事にはならない。


 彼の行為に対して、彼女が次にどのような態度を取るのかはわからないが、彼はどんなものでも受け入れるつもりであった。意に沿わぬ事をしてしまったのだから。



 罪には罰がつきものである。



 五年もの間、ずっと耐えてこられたのに、今日は一体どうしてしまったのであろうかと思う。このような衝動は初めてであり、自分の行動に困惑もしてしまう。


 まるで腕が、足が、勝手に動き出したかのようだったが、彼女を抱きしめたのは自分の意思であったようにも思う。


 彼女の香り、吐息、体温を間近に感じた時にはもう夢中だったのかもしれない。自分の意思なのかそうでないのかわからないほどに、身体が勝手に動いたのだ。


 愛おしくて愛おしくて、胸の中で嵐が全ての理性を薙ぎ払うかのようで。荒れ狂う激情のすべてを彼女にぶつけてしまったが、これで少しでも狂おしい愛の片鱗にアリグレイドが触れてくれたのではないかと思うと、嬉しさもこみ上げて来て。同時に愛しい彼女を傷つけた後悔も襲う。


 心境はとにかく複雑である。


 だがこの結果で、二人の関係が大きく変わるのは間違いなかった。




 翌日から、女王アリグレイドは、部屋に閉じこもる。元々出歩く事の少ない彼女ではあったが、扉は固く閉ざされ、全ての来客が拒否された。


 精霊の言葉を聞きに来る宰相とのやり取りは、扉の前で侍女が行うように。


「こちらが陛下からのお言付けでございます」

「ありがとう。……陛下のご様子は?」


 恐る恐るという感じで貴族であり宰相の地位にある男が、一人の侍女にへりくだった口調で声をかける。

 黒髪の侍女はその緑の瞳を静かに宰相に向けると、これまた静かに言い放つ。


「お健やかと、お思いですか?」


 この侍女……エリザは、公爵家からアリグレイドが傍仕えとして直接連れて来ていた。女王とは幼い頃からの付き合いだという。

 おそらくあの東屋での出来事は、この侍女に伝えられてしまったのだと彼は感じた。


 だが、どのような仕打ちであっても受け入れると決めていた。


――罪には、罰がつき物だ。


 繰り返し、心に刻みつける。



 侍女が扉の奥に、宰相を一歩も入れてたまるかという態度でいるのだが、それが女王アリグレイドの望みであることは一目瞭然であるから、彼は静かにそれに従い、彼女が閉じこもりたいのならとそのようにと、以後の公務のすべてを引き受ける事にした。


 どのような拒絶を受けたとしても、あの日、あのひと時の思い出だけでも、これからも生きていける。彼はそう思っていた。


 この時は、まだ。



 静かに立ち去る宰相を見送ると、エリザは部屋に戻り、アリグレイドを見る。


「陛下……」

「エリザ、貴女にお願いがあるの。貴女にしか頼めない事なの」


 かつては姉妹のように育った二人。盲目の彼女を支える事が、エリザの生きがいでもあった。

 静かに、閉じられたままの瞼から涙があふれる。そんな女王という身分の女性のそばに寄り、か細い肩を撫でる。


「なんなりと。貴女のためなら、このエリザは死ぬ事もいといません」



 そのような決意を示していた腹心ともいえる侍女であったが一年後、これ以上女王の傍仕えを続けられないと侍女の仕事を辞める事になり、城を去った。


 その話を聞いたヴィットリオは、再びその想いの再燃を知る。一年もの間、頑なで真面目な侍女に阻まれ会えぬままだったその思慕は、歪みすら伴っており。



 女王アリグレイドはその後十年間、民衆の前に姿を現す事なく、最終的に、盲目ゆえの転落事故で亡くなった。

 十五年の任期というのは歴代女王の中で最も短く、これと言って功績もなかったため葬儀は質素に営まれ、棺は歴代女王の眠る神殿地下墳墓に納められると、そのまま彼女は忘れ去られた。


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