紅茶

キノ猫

 

 電車の窓に映る無数の光をぼんやりと見つめた。小さく息を吐けば、闇夜を濁して消えていく。すぐ隣で映る顔は、今にも泣きそうで。

 思い出せる記憶を拾い上げていきながら、沈むように深く座席に腰をかけた。


「はい、いつもの」

「ありがとう」

 紅茶の香りが彼の部屋を包んだ。道の途中で買ってきたシュークリームの隣に並ぶ。それの反対に彼は飲みかけの炭酸を置いて、私の隣に腰をかけた。

「仕事終わりなのに、お菓子までありがとう」

 彼に首を振り、マグカップを両手で包み込む。

「最近、シュークリーム食べたくって堪らなかったの」

 数日前に駅で見かけたシュークリームに囚われていた。これしかないと思っていたのだ。

 目を輝かせてかぶりつく彼を、嬉しくなりながら見、私も甘く柔らかいそれに齧り付く。

「んまっ、ここ最近で一番美味いわ」

 彼が顔を綻ばせた。その言葉が私の中に広がっていく。

〝一番〟という甘い毒のような言葉は、唯一無二の存在のように思えて好きだ。

 彼の〝一番〟も噛み締める。

「これを選んで良かったあ」

 彼が手に取った炭酸が外の夜に輝いた。炭酸を飲む彼はどこか妖しくて。

 きっと、この人が恋人なら幸せな毎日を送るのだろう。甘くて特別な、それこそシュークリームのような。


 食べ終わって口元を拭いていた彼に尋ねる。

「最近どう?」

 ラインの頻度が少なくなったから、少し気になっていた。

「まあ、それなりに」

 目を逸らした彼に笑顔を作る。

「最近会う頻度も少なくなってたから、ちょっと気になってたの」

 よかった、なんて思ってもないことを口にした。新しい女の子でも見つけたんでしょ。

 間を縫うように紅茶を口にする。苦かった。

「心配してくれてありがとう」

 彼は唇を重ねた。きっとこの後するんだろうな、なんて当たり前のことを思って体が熱くなる。

 彼は少しだけ唇を離して「会いたかった」と囁いた。

 私の火照った頬を両手で包み込んだ彼は、再び唇を重ねた。彼に身を委ねて快楽に縋る。


「そういえば、恋人居たのいつだっけ?」

 一息ついている時、背を向けてタバコを吸っている彼に声をかけた。一度私に顔を向けて、唸る。

「……二年くらい前、だったはず」

 彼は「あまり交際が長く続いたことは無かった」と呟いて、遠くに白い息を吐いた。

「しょぼ、最長で8ヶ月だっけ」

 笑いながら言うと、なんだよ、と小突かれた。

「セフレだったら割と続くんだけどな。お前とは二年だぜ?」

 言葉が痛みを伴って、胸に染み渡った。

「セフレって割り切れるからなのかな」

 自分で言葉にしたくせに、じわじわと涙が滲んでくる。

 最初から私の立場は確定されていて、彼の好意が向けられることは無かったのだ。

 彼の一番には必然的になれなかったことを今の今まで気付けなかった。

 二年前から、彼のことが好きだった。


「でも、なんだかんだモテるでしょ?」

 涙をやっと飲み込んだ後尋ねた。自分でもわかるくらい、上擦った声。

 彼は私に対してお姫様みたいに接してくれる。それは特別なんだと錯覚するくらいに心地良かった。

「どうだかな。その子の理想の俺と実際の俺のギャップがあるらしくて、告られては振られての繰り返し」

「人に期待しすぎるなって話だよな」と呆れたように呟く彼。

 私も彼に期待しすぎているのかもしれないと、そっとベッドから降りた。

 机にあるコップに両手を添える。明らかに冷たいコップには、まだ紅茶が波打っていた。

「私を一番にはできないの?」なんて、喉元まで出かけた言葉を紅茶と一緒に飲み込んだ。

 代わりに堪えていた涙が落ちてきた。

 何か、何か言わなきゃ。

 必死に言葉を拾い上げようとしていると、彼のスマホが振動した。

 電話出るわ、と一言残して彼は部屋を後にした。


 止まらない涙をそのままに、ひとりになった部屋を見渡す。

 何度来たのか覚えてない、見慣れた部屋。

 紅茶の匂いに染まるたび、私の心は満たされていった。

 この部屋で一緒に過ごす、甘い恋の時間が好きで堪らなかった。

 炭酸のような、彼の刺激的なところに惹かれて、忘れられなくなった。

 押し寄せてくる思い出の数々が、黒く苦いものとなって私を襲う。

 出会わなければよかった、とさえ思い始めて。

 これ以上彼と居ると何かがダメになってしまう気がして。

 これで最後にしよう、と、膝に顔をうずめ、声を漏らして泣いた。


 ドアが開く音がした。

「話し込んじゃった、ごめんね」なんて言い訳をしながら部屋に入ってきた。

 うずくまっている私に気付いたらしく、慌てた声が頭上から聞こえてきた。

「どうしたの、大丈夫?」

 そんな優しいところがずるいんだよ。

 伸びをしながら立ち上がって嘘をついた。「ごめん、寝てた」

 彼はほっとしたように私に笑った。

 その笑顔が胸に刺さって、罪悪感で潰されそうになった。

 私は適当な理由をつけてカバンを手にする。

「明日早いから帰るよ」

 彼は携帯を一瞥してから、私に笑いかける。

「ごめんだけど、ここまで」

 今日も玄関までらしい。

「また連絡するね」

 ああ、前まではその言葉がとても嬉しかったのになあ。

 彼の言葉に首を横に振った。

「もう会えないよ」


 あの後終電に飛び乗った私は、流れる街並みをぼんやりと眺めていた。

 相変わらず夜の街は憎いくらいに綺麗で。泡沫のように輝く街を共に歩いた日のことを思い出してしまう。まだ、好きだった。

 徐に携帯を開いて、彼の連絡先を全て消した。

 思い出の写真も全て消し終わった時、最寄駅に着いた。

 駅から出たら、通って来た道と別世界のように静かな場所。

「着いたよ」と先程別れた相手にメールを送ろうとした。

 急にもう二度と会えないことに実感が湧いて、虚しさが広がっていく。

 泣きそうになってしゃがみ込んだ。

 服から微かに、彼とその紅茶の匂いがした。

 そういえば、と思い出す。


 私が紅茶を好きなのは、彼から紅茶みたいな人だと言われたことがあったからだった。

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紅茶 キノ猫 @kinoneko

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