嗚呼、憂鬱だ。

ミヤシタ桜

憂鬱

 嗚呼、憂鬱だ。


 夢と現実の狭間——いや、それよりもっと曖昧な光景がゆらりと揺れている中、私はそう思った。何秒かした後、酔いにも思えるその揺らぎを目を掻くことで抑える。そこでやっと、軽い目眩で目が覚めた事に気がついた。


 カーテンから差し込む優しい光を見て、朝が来ていることを確認した。布団から出ようと思い、体を包む毛布を退かす。それと同時に鋭く冷たい空気が雪崩れのように流れ込み自分の肌を襲う。冷たく、痛く、重い。そう思った。


 布団から出た後は、いつも通りのことをした。足に伝わる温度に我慢をしながら二週間は掃除をしていないフローリングの上を、乱雑に捨てられた缶ビールを避けながら歩いて洗面所に向かう。そして、寒さに堪えながらそこで不恰好な顔を洗う。


 洗い終わったら、次は朝食—— 「朝食」と言っても一切れの食パンとコーヒーを準備するだけだが——の準備。缶ビールに支配された冷蔵庫の下から食パンを出す。トースターのコンセントを入れ、焦げた金網の上に食パンを置き、熱量を調節するダイヤルを最大まで捻り、時間を調整するダイヤルをちょうど5分を指しているところで止めた。


 その間に、コーヒーの準備をする——つもりだったが、いざ棚を見てみるとそこには何もなかった。そこで昨日、全て使い切ったことを思い出す。そこにある空白を埋めることができないもどかしさからなのか、それとも単にコーヒーを飲めないという事実に対して悲しみを抱いているからなのか、少しだけ憂鬱になった。



 私は、諦めていた。何もかもうまくいかないとこの日々や生活に。


 いっそのこと、人でも殺して刑務所にでも入ろうか。オーバードーズでもして、死んでしまおうか。なんて、実現する勇気もないのにそんなことを考えるほどだった。


 陳腐で月並で平凡な——だからこそなのか真っ黒な憂鬱が、部屋のそこら中に埃のように積もっていくような気がしてままならなかった。きっとあの空っぽな棚にも、目には見えないだけで、きっと存在しているのだと思う。この団地だってそうだ。一つ一つの部屋に分け与えられていたはずの幸せは、気づかないうちにいつしか憂鬱に埋まっていく。


 そんな考え事をしているうちに、トースターから食パンが焼けた事を知らせるチンという軽快な音が部屋に響いた。トースターを開けると、そこには黒く焦げた食パンがあった。


 嗚呼、憂鬱だ。


 その黒焦げのパンを見て思った。このトースターの性能といったら、本当に最悪である。同じ時間にタイマーを設定しても、急に温かくなったり、その逆もまた然り。そんな不幸続きの、この生活にせめてもの彩りや幸色の飾りをつけるため、朝食はベランダで食べることにしている。


 焦げたパンを乗せた皿を手に持ち、ベランダの椅子に座る。外は晴れていた。眩しいほどに鮮烈な青に、少しだけ目の奥が痛くなる。誰にも届くことのない"いただきます"を唱えて、私はパンを口に運ぶ。最初はサクサク、という軽快な音だったが、途中からザクザクという固い食感に変わり、それと同時に不快な苦味が口全体に広がった。食べ終わる頃には口の中は、乾燥に侵されていた。


 そんな不快感を払拭するために、遠くの青空を見ようとしたその時。どこからか運ばれてやってきた一枚の桜の花びらが落ちてきた。その桜は、春の季節を思い出させた。けれど"春"というには、冬の寒さに似た物がまだ抜けていなくて、冷たい風が肌に降り注ぐ。その風の匂いで、ふと昔のことを思い出した。遠い記憶のような、古い記憶のような。しかし、その全てに彼の匂いが染み付いていた。


 


 優しかった彼。


 話しかければいつでも笑顔で接してくれて嫌な顔ひとつもしない。落ち込んでいるときには、優しく声をかけてくれた。


 私が恋をした彼。


 本当に簡単な女だな、と自分でも思った。ただ直接彼に話しかけるほどの勇気なんてものは私には存在しなくて、ただ目で追ってばかりだった。


 それでもどうにかして、彼に対する自分の想いを伝えたかった。言葉では無理なのはわかっていたから、文字でなら伝えられると思った私は、小さな紙とボールペンを用意して早速書こうと思った。


 けれど文字は文字で難しかった。一体何から書けばいいのか。どうやったら不自然ではないのか。もしかしたら、彼に不快な思いをさせてしまうのではないか。そんな音もなく現れた不安を押し殺して、書いた一文が「貴方のことが好きです」という単純すぎて、でも確かな感情を表したものだった。


 その一文が書かれた紙を、私はおもむろに手に取った。そして、紙を持ったまま握りつぶした。最近切ったと思っていた爪は、既に伸びていて、その爪が皮膚に押しつけられるたびに、痛みを感じた。クシャクシャにして手の痛みに我慢できなくなった頃、ゴミ箱に捨てた。そんなことを、10回は繰り返したと思う。

 


 その後も、彼との距離は1センチも縮まりはしなくて、ただ彼の事を胸の奥で押さえつけるだけで精一杯だった。そして同時に、彼を見るたびに胸の奥底を、誰かにギュッと握られているような気がして、どこか苦しくて仕方がなかった。


 

 私は、まだ彼に捕らわれている。


 彼が今、何処で何をしているのか。彼が今どんな気持ちで過ごしているのか。


 私にはわからない。けれど、たった一つだけわかることがある。それは、彼はきっと幸せだということだ。なんの根拠も確証もない。ただ、そう思った。


 食べ終わったパンのカスが落ちた皿を持って、台所へ向かった。フローリングはまだ冷たくて、少しだけ痛かった。


 そして色褪せた茶色の引き出しから、小さな紙とボールペンを出す。


 今までに残してきた後悔を。行き場のない未練を。いつか消えることを願って「貴方のことが好きです」というありきたりで。陳腐で。月並で。平凡なたった一文。それをただ、真っ白な紙に今日も書く。書き終えたところで、手の中で握り潰す。


 痛さや温かさ。そう言った感覚が無くなった頃、私はゴミ箱に向かってそれを投げた。クシャクシャになったその紙はゴミ箱に入ることなく、道端に捨てられたビニール傘のように横たわる缶ビールの近くに落下した。なんだか今の自分を見ている気がして、滑稽に思える。けれど青空の鮮烈な青に反射して、その様さえも美しく見えた。でも、それでも。やはり私は、また心の中で思うのだろう。













 嗚呼、憂鬱だ。


 

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