後編
彼女が二十五歳になるはずのその日、彼の住んでいる森が、珍しく騒がしかった。遠くにあるはずの街から、ガヤガヤと何か聞こえる。
もう五感が戻っている、彼女がいつだったかくれたこのコートが、彼の魔力が外に漏れるのを遮断してくれる。わずかな気の迷いからか、或いは彼女と会えなかった寂しさからだろうか。彼はゆっくりと立ち上がり、いつも彼と一緒にいた、かつて異形だった狼を連れて、街へと向かった。
魔力など、数年前までのあの森に比べれば遥かに綺麗だというのに、その場の空気は、彼にとって居心地が悪かった。どこか、険悪な空気が漂っていた。
「あの魔女が、ようやく処刑される日が来たようだね」
街人の一人がそう言ったのが、聞こえた。
魔女狩りなど、まだそんなことをしているのか。彼は思った。だが同時に、まだこの時代に魔女がいたのかと思い、半ば好奇心に駆られて、彼は人の多い方へと向かった。
だが、街の人々の声を、通りすがりに聞く言葉が、彼を不安にさせた。麗しき姫を殺した魔女。国王を誑かした魔女。国の宝を喰らった魔女。その言葉全てが、彼を不安にさせた。連れてきた銀狼と共に、彼は王城まで駆けた。長年まともに動かしていなかった脚に鞭打って、息を切らしながら全力で走った。
あぁ、何でこんなに不安なんだと。
彼女が自慢していた、カッコいいでしょと言っていた黒髪の人なんて、この国には、誰一人としていないじゃないか。そう、心の中で叫んだ。
多くの人が集まっていたその場所は、本来はもう使われるはずの無かった、形だけのはずだった処刑場。
十字架に掛けられているのは、煌々たる美しき黒髪とルビーのように赤い瞳を持つ、白い肌の女性。
この国の人々が恐れる、悪魔の象徴たる黒髪の女性。
彼女に放たれる多くの罵声の中にあった言葉で、彼の脳裏に、彼女声が
『明るい太陽のような髪のお前に合うように』って、お父様とお母様が私にプレゼントしてくれたの!
だって、私みたいに綺麗な人に見合う綺麗な黒髪の人なんて、アナタくらいしか知らないもの
「嗚呼、そうだ。確かに彼女は、僕と出会って間もない頃、そう言っていた……」
えぇ、とても美しいでしょう。綺麗な黒髪が似合う、とても美しいドレス姿でしょう
アナタへの誕生日プレゼント、私のこの綺麗なドレス姿だけじゃないのよ!
明るい髪のアナタに似合う服を持ってきたの!
「出会ってしばらく経った頃、昨日のように思い出せる笑顔で、彼女は僕にそう言った……」
今にも火刑に処されようとしている彼女を見ながら、彼は涙を流していた。
この世界は、高い魔力を持ち、魔法の才に溢れた者は数少ない。そしてそういった者は、濁った魔力、穢れた魔力への抵抗力がある。
「だから、君は僕のところへ来ることができた……」
対して濁った魔力は、周りのモノを変質させてしまう。
「だから、僕のいた森は酷い有様だったはずだ」
だがその濁った魔力を、浄化することはできる。
「君は、僕の魔力を浄化した代償として、僕の魔力に侵されたのか……?」
周囲の人々に混じって掻き消されたはずの声。彼女は、その声に反応したように、こちらを見て、ほんのわずかに驚いたように見えた。
「ごめんなさい」
わずかに動いたその口で、彼女は確かにそう言った。
「君が謝ることじゃないんだ……」
その声は震えていた。両腕両脚を剣で突き刺され、胸に短剣を突き立てられたまま火刑に処される彼女を救うには、もう遅すぎるとわかっていた。それがわかっていたから、彼はただ、何もすることができなかった。
痛くはないのだろうか? 熱くはないのだろうか? あぁそうか、もう感覚が鈍くなっているんだ、僕もそうだったもの。そんなことを考えて、その場から動けないでいる彼に微笑みかけて、彼女は静かに、その目を閉じた。彼女が、もう自分の命を諦めたのだと、そう理解したから、彼もまた、彼女の命を諦めようと。
僕は、長い時間を独りで生きてきた。だから、これからも独りで生きていける、そう思っていた。
だけど、君と出会った。君と出逢った。
君といる日々は楽しくて、君の来る日が楽しみで。
僕はもう、独りでは生きていけなくなってしまって。
だから───
「
叫んでいた。駆け出していた。涙で滲んだ彼女に向かって、無心で駆け出していた。
何事かと、人々が彼へと視線を向けた。そんな視線を気にする余裕もなく、彼は泣きながら火の中に飛び込んだ。
「なんで……?」
掠れた声で問いかける彼女に、彼は何も答えず、胸の短剣を抜き、血を止めようと、彼女からもらった魔力を流れ込ませた。
何をしている、と声を荒げながら彼を離そうとする兵士に、
「彼女を助けるに決まってるだろ!」
そう怒鳴った。その声に反応して、彼と兵士の間に銀狼が立ち塞がった。
「君たちが大好きな姫様じゃなかったのか!? 君たちが愛した姫様じゃなかったのか!? なんで誰も、この娘を信じてあげようとしないんだ!?」
わかっている、自分のせいだと。
「僕が悪いんだ……、そんなことわかってるさ! だけど、だけど……」
嗚咽を漏らしながら泣く彼の頬に、彼女はそっと触れた。
「ダメよ……。私があげた綺麗な髪が、焼けちゃってるじゃない……」
「……そんなことを言ったら、君だってそうだ。僕のあげた綺麗な黒髪が、焼けてるじゃないか」
互いに微笑み合う二人。しかし、彼女の命は、尽きようとしている。これが最後か、これが最期か。そう、諦めかけたその時。
「癒しの魔法は使えますか」
凛とした、女の低い声が響いた。振り返れば、濁った魔力に侵食されたであろう中途半端な黒い髪の女がそこに立っている。貴女は、と口にした兵士たちの反応からも、顔見知りなのだろう。
「使える……、と思います。ただ、僕は一度も使ったことがなくて……」
「使い方だけなら知っています。言う通りにしてもらっても宜しいですか」
女が駆け寄るのを、兵士は止めなかった。
「教えてください。それで、この子を救えるのなら」
誰だかもわからなかったが、彼女の味方であることは間違いない。彼は泣きそうな声で頼んだ。
「あの男を、
王妃だろうか。彼女が、国王らしき人にそう聞いた。だが国王は、
「……私は
彼女の父は、安堵したような声でそう口にした。
国王が止めなかったからだろうか。一人、また一人と、彼女を助けようとする者が声をあげた。その場にいた全員ではない。だが彼らは、最後まで彼女を信じていた人達だ。
「嗚呼、こんなにいるじゃないか。君が何も変わっていないんだって、信じてくれる人達が」
そして日が暮れた頃、彼女は静かな寝息をたてて、微笑むように眠っていた。
全ての事情を、推測ではあるがおおよそ本当のことだろうという前提で、悪魔と呼ばれた彼は国王に語った。
国王は怒りを見せず、ただ彼の話を聞いた。彼の話が終われば、静かに口を開いた。
「あの娘が変わっていくのを、私と妻、
国王は、彼女の姿が変わっていくのをずっと見ていた。全てを頑なに語ろうとしなかった娘への困惑。太陽のように明るく美しかった髪が、灰色に、そして黒へと変わっていく有様。だが、それでも国王は、
「ありがとう。娘の笑顔は、君がいたが
自分の娘を、信じていた。彼に、感謝の気持ちを伝えた。彼の横にいた姫様の侍従も、静かに頭を下げた。
国王のその言葉に、彼は耐えられなかったのだろう。
「ありがとう……ございます……」
泣きながら、上ずった声で、彼はそう口にした。
彼の眼から流れる涙を、傍らに座っていた銀狼が、慰めるように舐めた。
目覚めたばかりの彼女の目に飛び込んできたのは、東から昇る太陽の光だった。
「やあ、おはよう」
身体を起こす同時に聞こえてきたのは、聞き慣れた男の声。
「おはよう、悪魔さん」
そんな彼女の言葉に、彼は微笑み返した。だが、そんな彼の姿に、彼女は違和感を覚えた。
「ねぇアナタ、どうかしたの……?」
彼は椅子から立ち上がり、鏡を見てみると良いよ、と言う。
驚いた。自分の瞳が、一つだけ彼の色なのだから。彼の瞳もまた一つだけ、自分と同じ色なのだから。
「これで、片目だけなら、普通に見ることができるだろう?
耳も、片方だけなら、透き通って聞こえるだろう?
味を感じることは、たぶん薄くだけど、できるはずだ。
痛みは……どうかな。感じはするけど、たぶん鈍いと思うよ」
それだけで、彼の苦労を理解できた。
「きっと大変だったでしょう」
ふふっ、と笑って、彼は彼女に向き直った。
「別に、大丈夫だよ」
それよりも、と彼は言う。
「今日は、何の日だと思う?」
悪戯を思いついた子供のような笑みで、彼は問う。
「……アナタが助けてくれてから、どれくらいの日が経ったの?」
それは彼の問いに対する答えではなく、そして彼が返すのも、彼女に対しての答えではない。
「二十九歳の誕生日だよ。君の、二十九歳の誕生日だ」
四年、彼女が眠り続けていた時間。あの処刑の日から、彼が待ち続けた時間。彼女は、驚愕の表情を浮かべて、しかし、
「行こう、僕の姫様」
彼が差し出した手を取って、
「何? 何なのよ」
微笑みを浮かべながら、彼に引っ張られて、
「ねぇ、あの日の気持ちは、まだ変わっていないかい?」
そんな当たり前のことを訊く彼が、おかしくて、
「えぇ、変わってないわ」
思わず笑ってしまった。
空から降り注ぐ日の光に眩しさを感じながら、彼の肩を借りて庭に出た。そこには、父と母、彼女が変わってしまっても世話をし続けてくれた侍従が、親しかった人々みんながいて、みんなが驚いたような、嬉しいような表情をしていて。
「もう、いったいなんなの?」
彼女に振り返った彼が、真剣な眼差しで、言うのだ。
「僕と、死ぬまで一緒にいてほしい」
驚いたような顔、だけど次の瞬間には涙を流しながら、笑みを浮かべた。
「えぇ、喜んで」
それは、明るい彼女に似合う、とても綺麗な笑顔だった。
Fin
森の悪魔と明るい少女 水渡暦斗 @Reki_Mizu
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