森の悪魔と明るい少女

水渡暦斗

前編

 その森の奥には、悪魔が住んでいると言われていた。酷く濁った魔力が渦巻き、平常な人間では近づけない、それどころか、高い魔力を持った者ですら気をやられる、魔の森。そこがそうなっているのは、森の奥に、昔から悪魔が住んでいるからなのだと、その国では伝えられていた。


 それを、彼は知っている。森の奥に住む彼は、自分がそういう風に言い伝えられていることを、知っている。


 だから、そんな自分の前に、何者かの気配があることを、信じられなかった。


「おにいさん、みんながいってるのひと?」


 可愛らしい声、まだ年端もいかない少女の声。


「僕かい? そうだね。君の言うとおり、この森に住んでいる悪魔だよ」


 青年にしか見えぬ男は、優しい声でそう答えた。


「ふつうのひとにしか、みえないのに?」


「そうだね。でも、みんなが僕のことを悪魔と呼ぶんだから、きっと僕は悪魔なんだよ」


 自虐的な笑みを浮かべ、彼はそう答えた。


「ところで、君はなんでこんなところに来たんだい?」


 こんなところ、というのはまさしくだ。腐敗しながらも、おぞましい色をした葉を付けた木々が立ち並び、それらが日の光を遮るこの森に、少女一人で来るなどと、彼には信じられなかった。


「みんながいうっていうのをしりたくて、おしろをぬけだしてきちゃったの」


「お城っていうことは、君はお姫さまか、良いところの御嬢さんかい?」


「わたしはだよ! おとうさまがおうさまなの!」


 元気な声で答える少女に、さて何と言ったものか、と彼は悩んでいた。


「そうか……。それじゃあ、君のお父さんとお母さんは、お城から君がいなくなってとても心配していると思うよ」


 え? という顔をした後に、少女は今気付いたような声を出した。


「で、でもにはいってきたから、だいじょうぶだよ! ……だいじょうぶかな?」


「ははっ、君も心配なんじゃないか。ほら、お父さんとお母さんが心配で泣きださないうちに、早く帰った方が良いよ。それに、こんなところにいたら気が滅入ってしまうからね」


 彼は大木から立ち上がり、その少女へと歩を進める。


「途中までは送って行くから、そこから先は、お城の見える方へ向かって帰るんだよ」


「うん、ありがとうね、おにいさん」


 きっと満面の笑みで答えたのだろう。そんな少女と手を繋ぎながら、彼は森の出口まで、少女を送って行った。





 どれほどの月日が経ったか彼にはわからなかったが、ある日、異形の獣と戯れていた彼の前に、珍しく人の気配があった。しばらく前に、感じたことのある気配が。


「お久しぶりです、森の悪魔さん。覚えてる?」


 僅かに聴き覚えのあるその声に、しばし考えた後、ふと思い出した。


「あぁ、しばらく前に来たお姫さまかい?」


「覚えていてくれた、っていうよりも思い出したみたいね」


「ずいぶんと強気な声になったね。前とは大違いだ」


 異形の獣を撫でながら、彼はフフッと笑った。


「もう八歳だもん」


「そんなに小さかったのか、前に来たときは」


「えぇ。確か五歳のときよ」


 よくそんな年で、と彼は漏らす。


「でも、そのくらいってわかるものなんじゃないの?」


「それはね、僕は目が見えないから」


 一瞬間をおいて、そうなの? と恐る恐る聞いてきた。


「そうなんだよ。僕のこの魔力のせいでね。コイツは森や動物を変質させるだけじゃなくて、僕自身も蝕んでいるんだ」


 目は見えず、音も透き通ったモノではなく、味は感じず、匂いもわからず、感覚も鈍い。それを聞いた彼女は、ならばどうやって声を? と問う。


「この森には、魔力が充満しているだろ? 声を発した時にでる魔力の揺らぎで、君の声や、周りの物音を感知しているんだよ」


「そうなの……、それじゃあ、私の綺麗なドレス姿も見せられないのね」


「君は今、ドレスでここに来ているのかい?」


 信じられない、とでも言いたげな声音である。


「そうなの! 『明るい太陽のような髪のお前に合うように』って、お父様とお母様が私にプレゼントしてくれたの!」


「何でわざわざ、そんな綺麗なドレスを着て僕のところに……」


 彼女は笑みを浮かべて、自信満々に言うのだ。


「だって、私みたいに綺麗な人に見合う綺麗な黒髪の人なんて、アナタくらいしか知らないもの」


 しばし、呆然とした。そして彼は、お腹を押さえて笑い出した。


「ははっ、そうか、君に見合う綺麗な黒髪なのか、僕は……。それは、とても光栄なことだな……。あぁ、光栄なことだ、お姫様」


「ふふっ、えぇそうよ、とても光栄なことなんだから」


 そんな彼に釣られるように、少女も声を上げて笑った。





 少女は、十日ほど間を置いて、その度にはやって来ていた。


「でね、私の十歳の誕生会だっていうのに酷いのよ! 好きに物も食べさせてもらえず、ただ下心丸出しの男の話し相手ばっかり!」


 少女の十歳の誕生日に、貴族の男が自分をアピールするための会。少女には、自分の誕生日パーティをそうとしか捉えられなかったという。両親がどう思ってそのパーティを開いたかどうかは別として。


「君は一国のお姫さまだもの、仕方ないよ」


「でも、もうちょっとちゃんと私を祝ってくれても良いんじゃないの!? 祝うより先に好みの男性や、自分の家の話よ!?」


「なるほど。それが嫌で、パーティを抜け出してここに来たわけか」


 そうだね、と彼は一息。


「僕は何も、君を祝えるものを持っている訳じゃないんだけれど……」


 そう言いながら、手のひらに魔力を渦巻かせ、氷の花を作り出した。


「……このくらいしか、渡せるものが無いんだ。それに僕の魔力で作った花じゃ、きっと───」


 言い終える前に、少女はその花を手に取った。


「そんなことないわ。とても綺麗、私、この花好きよ」


 少女の言葉は、とても嬉しそうで、そんな彼女の反応が嬉しくて、


「ありがとう」


 と言った。


「いいえ、ありがとうを言うのは私よ。ありがとう、森の悪魔さん」


 その声から、彼女が満面の笑みであることは、疑いようも無かった。





 草や小枝を踏む音で、また今日も彼女が来たのだと、彼は気が付いた。


「あら、前までは気付かなかったのに」


「最近耳の調子が良いんだ。君の声も、今日はとても綺麗に聞こえる」


「そう? なら、今度私が音楽を聴かせてあげるわ。せっかく耳が聞こえるようになったんだもの」


 嬉しそうに語る少女に、彼は一言。


「楽しみにしているよ」


 自分の本心を口にした。





 少女の演奏するバイオリンを聴いた彼は、特別な言葉をかけることはせず、


「あぁ、とても良い音だ」


 そう呟いた。彼のその言葉に、とても満足気な少女は、バイオリンをケースに仕舞った。


「わざわざ僕のために、そんな重い物を持って来させてしまって、ごめんね」


「良いのよ。私、アナタに会うのがいつもとても楽しみなの」


 ふと何かを思い出したような声を、少女はあげた。


「私はついこの間十三歳になったけど、アナタは幾つなの?」


 少女の問いに、彼は少し困ったような顔をした。


「僕は、もう自分が何歳なのか、誕生日がいつなのか、覚えていないんだ。もう何百年も、この森で、ずっと一人でいたからね」


 彼のいる森には、季節は無い。この森は、森の外とはもはや違う世界なのだ。だから彼には、少女が来るまで、日にちや昼夜の感覚が、全く無くなっていた。


「なら、私と出会った日が、アナタの誕生日ってことにしましょう!」


 彼は少女が何を言っているのか、一瞬わからなかった。


「だって、それまでアナタは、誰にも見つからずにいたんでしょう? それって、死んでるのと一緒だもの……」


 少女のその言葉で、彼女の言いたいことを、彼は理解した。


「なるほど。それなら確かに、君と出会った日が、僕の誕生日だ」


「……でしょう?」


 僅かに震えた声でそう答える少女。きっと、自分の言ったことで彼を傷つけないか、心配だったのだろう。


「アナタが喜んでくれるなら、アナタの誕生日に毎回、私が演奏してあげるんだけど……」


 少し不安な声音の少女に対し、彼はパァっと笑顔になって、


「本当かい!? ありがとう、とても嬉しいよ!」


 そんな彼の、初めて見せた無邪気な反応に、少女は声を出して笑った。





 少女が十五歳になったのと同じ年、彼の誕生日祝いの演奏と共に、一冊の本を持ってきた。


「感覚が鈍いって言っていたから、読めるかわからないのだけど」


 そう言って少女が渡した本には、文字と一緒に細かな凹凸が付いている。


「手で触れて読む文字か。最近はこういう物もあるんだね。それで、こちらの紙がその表かい?」


「えぇ、そうよ。表を触れてもわからなかったら、私が教えてあげるわ」


「ありがとう。次までに頑張ってみるよ。僕だけじゃ難しかったら、その時にお願いするね」


 彼は、昨年彼女がプレゼントしてくれた木箱に、大事そうにそれらを仕舞った。





 お姫様が十八歳になる頃には、だいぶ落ち着いた雰囲気の女性になっていた。それでも、元の活発さは残ってはいるが。


「結婚できるようになってから二年も経っているのだから、いい加減相手を決めたらどうだって、お父様がうるさいんですよ」


 笑いながら話す彼女は、もう少女と呼んでいいものか悩ましいほど、大人の女性らしくなっている。


「僕も、こんなところに来てないで、早く旦那さんを見つけるべきだと思うけれどね」


「あら、私がここに来るのが嫌なんですか?」


 意地悪い声音の彼女に、困ったな、とでも言いたげな笑みを彼は浮かべた。


「意地悪はこの辺にしましょう。ところで悪魔さん? アナタ、最近は匂いもわかるようになってきたって言ってましたよね?」


「あぁ、そうだね。それがどうかしたかい?」


「実は、アナタに振る舞おうと思って、料理を作って来たんです」


 そう言って差し出された箱からは、彼がもう何百年も感じていなかった温かさが感じられた。


「僕のために、わざわざ?」


「えぇ。お口に合えばいいんですけど」


 ソワソワしているのが、近くにいるだけでわかる。そんな彼女が作ったという料理を、彼は丁寧に口に運んだ。


「うん、かなり味付けは濃いけど、とても美味しいよ」


 彼の感想に、笑顔で美味しそうに料理を食べる彼に、彼女は、とても嬉しそうに笑った。





 お姫様の二十歳の誕生日だと知らされていたその日、彼は目が覚めると、とても驚いていた。


「まだとてもぼやけているけど、目が見えるようになってきたの!?」


 彼の知らせを聞いて、お姫様もとても驚いた。


「あぁ、最近は身体の調子がどんどん治っていったけど、まさか目まで見えるようになるなんて思わなかった」


「これはとても喜ばしき事よ! えぇと、嗚呼、何故私はアナタに対する祝いの品を何人と積もっていないのかしら!?


 まさか私の誕生日に、こんな素晴らしいお祝いをしてもらえるなんて思わなかったのよ!」


 彼の目が見えた事を「お祝い」と言い、自分が何も返せないと、どうしましょう、と慌てふためく彼女の姿が、影だけでも見えて、彼には、それが可笑しくて、つい笑ってしまった。


「悪魔さん、来て早々で悪いのだけれど、今日はもう帰らせてもらうわね。次に来るときは、パァっとお祝いしますから!」


 そう言い残して、彼女はこの森の中を駆けて行った。





 彼女の二十歳になった年の、彼の誕生日。再び彼女が来たときには、彼の眼はもう、完全に治っていた。


「もう何百年も前から見えていなかったからわからなかったけれど、この森は、もうこんなに綺麗になっていたんだな」


 紫色に腐った木々などそこにはなく、大きく育った大樹が葉をつけ、木漏れ日が線となって、大地に降り注いでいた。


「えぇそうよ。目の見えなかったアナタに、いつ言おうかずっと悩んでいたの」


 美しい女性だった。藍色のドレスを纏った、よく知る声の女性。煌々たる黒く長い髪が、彼の目を引いた。そして白い肌に灯るルビーのような紅い瞳が、とても美しかった。


「でもこの森以上に、君はとても、美しいね」


 優しい声、朗らかな声、慈しむような声。彼女はくすぐったそうな笑みを浮かべた。


「えぇ、とても美しいでしょう。綺麗な黒髪が似合う、とても美しいドレス姿でしょう」


「確かに、気の強い君に、綺麗な黒髪はとても似合っているよ」


 ありがとう、と言うと、彼の方に手を置いて、それでね? と言う。


「アナタへの誕生日プレゼント、私のこの綺麗なドレス姿だけじゃないのよ! 明るい髪のアナタに似合う服を持ってきたの!」


「僕の……服……?」


「えぇそうよ! だからほら、早く川で身体を流してきて!」


 ぐいぐいと押され、半ば無理矢理服まで脱がされた彼は、困った人だなぁ、とぼやきながら身体を流した。


 彼女がプレゼントしてくれた服は、彼にぴったり合うサイズで、明るい髪の彼にとても似合う、純白のタキシードだった。


「こんなところで、汚してしまわないだろうか」


「気にしなくて良いのよ、もうアナタにあげたものだもの。そんなことより、一緒に踊りましょう?」


 ダンスの作法なんて知らない彼を、彼女は常にリードして、彼女の鼻歌に合わせて、日が暮れるまで踊り続けた。





 彼女が二十四歳になった日、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。


「私ね、もうここに来れなくなってしまうの」


 そんな、とでも言うような顔をした彼に、彼女は泣きそうな笑顔を向ける。


「ねぇ、お願いがあるの。私ね、私……アナタのことを、とても愛しているの……」


 気付いていた、といえば嘘になる。何故なら彼は、その感情を、酷く長い間、忘れてしまっていたのだから。


「嗚呼、そうか……。愛してくれていたのか……。そうだね、確かに、この気持ちに名前を付けるなら、愛している以外にはないのかもしれないね……」


 噛みしめるように、彼女の送ってくれた言葉を口にして、彼女の眼、しっかり見た。


「だからね、お願いがあるの。私に、アナタがいた証を刻んで欲しいの」

 その言葉の意味がわからないほど、彼は鈍感ではない。


「本当に、僕で良いのかい?」


「あたりまでしょう? アナタが良いのよ。アナタが、いのよ」


 その日の夜に、彼女が彼と一緒に見た月は、とても綺麗だったと言っていた。





 それから一年ちかくが過ぎても、彼女が言っていた通り、彼女はこの森に姿を現さなかった───

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