あるゆきの日のこと

@satoyaukita

短編

男は、凍えそうになりながらも自転車を漕いだ。一月の北海道は、ありえないほど寒い。

手袋を着けていても手がかじかんでくるのである。

 それでも男はペダルを回す。何の為にかは自分でもよくわかっていなかった。

 降り積もる雪が男の道を邪魔する。車も、自転車も、歩いている人は誰もいない。自分がこの世界に一人ぽつんと取り残されているような気分である。

 それでも男はペダルを回した。

 もはや歩くことすらままならないほどの横風と雪を受けながら、男はただ、前へと進んだ。

 思えば、自分と雪とには数多くの因縁があった。記録的な大雪をもたらした、ゆきの日の札幌に自分は産み落とされた。そして自分を産んだ両親は、同じくゆきの日に車に轢かれて死んだ。また、自分の妻の浮気現場を偶然発見してしまったのもゆきの日であったのだ。

 毎年、冬が来ることがとても煩わしかった。

毎晩、寒さに耐えながら、古びたアパートの一室で夜を過ごさなければならなかった。

 いつの間にか妻は自分に愛想をつかして浮気相手とともに出て行った。会社もリストラされ、もう金は底をついていた。一日一日が男にとって、生きるか死ぬかの戦争だったのである。

 だが、それも今日で終わる。もう冬を越す必要はない。

 ゆきの日に産まれ、ゆきの日に死ぬ。

 なかなか洒落たことだと男は思った。

 今にもパンクしそうな自転車を男は漕いでいく。自分でもどこに向かっているのかは分からなかった。ただ、道なき道を進んでいく。

 札幌から、小樽まで来ただろうか。自転車はもう使い物にはならなかった。

 男はそれを乗り捨て、歩き出す。吹雪で視界がぼやけて歩くのもままならなかったが、

それでも男は前へ進んだ。

 その男の表情には、もはや狂気が垣間見えた。

 一歩一歩、足を前に出すたびに死へと近づいていると男は感じていた。

 やがて、男はとうとう降り積もった雪のクッションの上に倒れ込んだ。

 これでようやく楽になれる。倒れた名もなき男の頬からは笑みがこぼれていた。


 しかし、男の目論見は失敗に終わった。

 クマの毛皮で作られたような分厚い布団で男は目覚めた。

ここがどこかは分からない。小さな木造の民家の様だった。男の傍には囲炉裏が置かれており、グツグツと何かを焼いていた。

 男は起き上がると、家の中を見回しながら出口を探した。

 「起きたか」

 男は驚き、慌ててその声の主を探した。すると、一人の少年が毛皮を繕いながら座っているのを見つけた。

少年は、視線を男に合わせることなく言った。

 「こんな日に外を出歩いてるなんて、馬鹿なのか、お前は」

 少年の物言いは高圧的だった。男は返事することなく、かすれた声で言った。

 「お前が俺を助けたのか?」

 少年は頷いた。

 「そうだ。そのまま捨てておこうかとも思ったんだが、俺の家の前で死なれては困るからな」

 男は舌打ちすると、少年を睨みつけた。

 「なぜ俺を死なせてくれなかったんだ」

 「だから言ってるだろ。別にお前を助けたわけではない。死にたいなら早く出て行って俺の家の前じゃないところで勝手に死んでくれ」

 すると男は、自分自身に失望したように大きくため息をついた。

 「親はいないのか」

 「いない。どっちも死んじまった。今は俺一人でここに暮らしている」

 男は驚いたように目を見開いた。

 「ここは二十一世紀だぞ。孤児なら保護されるだろ」

 「こんな人里離れた場所に役人なんか来ねえよ」

 少年は繕った毛皮を着ると、男の顔を興味深げに見つめた。

 「俺はあまりよその人間と会ったことはないが、お前んとこの人間はいつもこんなにやつれた顔をしているのか」

 「俺は例外なんだよ」

 「なぜだ」

 男は困った。もはや、話す気力さえ自分にはなかった。

 そういえば、自分はなぜ死のうとしていたのだろう。少年の純粋な目を見て男はそう自分に問いかけた。

 それは、自分という存在の意義が分からなくなったからなのだろう。男はそう結論付けた。

 「君はなぜ一人で生きているんだ。そんなことをしなくても、国はちゃんと君の衣食住は保障してくれるぞ」

 「俺は誰からの助けを借りるつもりはない。今までそうやって生きてきた。自分の力だけで未来を切り拓いていくんだ」

 少年の目は輝いていた。しかし、男は納得がいかず、少年に反論した。

 「ガキごときに何が出来るっていうんだ。誰かの助けを借りなければ、俺たちは生きていくことはできない」

 「つまりお前は誰の力も借りることが出来なかったから死のうとしたってわけか」

 男は黙りこくった。図星だったのである。

会社に見捨てられ、妻に見捨てられた自分に誰も手を差し伸べてくれる者はいなかった。

 だから自分は死ぬ。自分がなぜ死にたいのか男はようやくわかった。孤独だからである。

 そして、この少年もそうなのだ。両親に死なれ、少年は一人殻に閉じこもった。その寂しさを紛らわせるために少年は一人で生きていくと自らを鼓舞して、自分の本当の気持ちから逃れているのである。

 自分と少年は似た者同士なのだ。

 しかし、少年は男と違い、前を向いていた。孤独でも、少年は必死に生きていこうとしているのだ。そう思うと、男は自分の事が恥ずかしくなってきた。ぶっきら棒に言った。

 「もう出ていけ。死ぬならここより遠い場所で死ねよ」

 男は少年に促され、ゆっくりと立ち上がった。そして、木製の扉を開けた。ギギーという、うざったい音がする。

 男は振り返り、また毛皮を繕い始めている少年の顔を見た。そして男は何も言うことなく出て行った。

 外は吹雪がやみ、小さな雪の結晶が静かに絶え間なく降り注いでいた。

 周りを見渡すと、どうやら男は山の麓にまで来ていたようだ。そこから市街地が一望できる。

 男は、その幻想的な光景に思わず心を奪われ、涙を流した。まるで男を励ますかのように、雪は優しく降り続ける。そして、先ほどまで自分が死のうとしていたことが不思議に思えてきた。男の自殺願望は吹雪とともにどこかへ行ってしまったのだ。

 そして、男はあることに気付いた。

 あの少年。あれは、よく考えてみれば幼い頃の自分だったのではないか。

 当時の自分は、両親に死なれ、孤独に日々を過ごしていた。それでも、あの時の自分は希望を捨てなかった。例え誰も助けてはくれなくとも、精一杯生きようとしたのである。

 男は慌てて後ろを振り返った。

 ない。

 先ほどまで自分がいたはずの少年の家は消えていた。男は驚きを隠せなかった。あれは幻だったのだろうか。しばらく男は、ないはずの家の陰を追った。

 しかし、やがて男は微笑んだ。

 「帰るか」

 男は呟くと、麓を後にした。男の足取りは軽やかだった。

 なぜ幼い時の自分が出てきたのかは分からない。だが、謎のままでもいい。ゆきは時に不幸をもたらすが、幸せをもたらすこともある。そして今日、ゆきは自分に奇跡をもたらしてくれたのだ。

 男は前へと歩き続ける。




















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