第27話 二人だけの幸せを

 昼ともなれば、太陽が照りつけ気温が一気に上昇する。朝の冷え込みが嘘のようだ。

 エルセは本日、半休を使って午後から出かける予定を立てていた。

 私服へと手早く着替えを済ませてから、医院の方に顔を出す。

 ティリクに一言挨拶をして出かけよう。そう思っていたのに、待合室から何やら怒号が聞こえてくる。

「無理! 今日は本当に無理だって!」

「何て言いつつ、今までも何とかなってきただろうが」

「今まで以上に無理なんだっつの! たとえお前がロイスの命の恩人だろうと、さすがに今日だけは頷けねぇ!」

 ……見てはいけないものを見てしまった。

 エルセは現実逃避がしたくて、医院の扉をそっと閉じる。

 すると、向こうから強引にこじ開けられた。目の前には憐れなゾフの泣き顔。

「あっ、やっぱエルセちゃんだった! おい、エルセちゃんからもこの先生に何か言ってやってくれよ! こいつ、マジで最近職場放棄が多すぎる!」

「放棄ではない、委任だ。そして馴れ馴れしくエルセちゃんと呼ぶな」

「委任っつーのは契約なの! 契約は双方の同意が得られなければ成立しないの! お前は国語と法律を勉強し直せ頼むから!」

 ティリクが職場を放棄しようとしているのなら、十中八九原因はエルセだ。

 半休の取得は被雇用者の当然の権利なのに、何だかそこはかとない罪悪感が湧く。

 出かけるなら一緒に。他の男性と話す時はティリクも交えて。

 そう約束したのはエルセの方だが、彼がいるとややこしくなりそうだから、今回だけは見逃してもらうつもりだったのに。

「そもそもお前がさっさとツケを払えば、私も仕事を押し付けたりしない」

「ツケ!? ロイスの手術代は払ったぞ!」

「手術を手伝ってもらった時、どれほど備品を破壊したと思っている。……なぜ手先は器用なのに、器具を割ったり落としたりできるのか、私には皆目分からん」

「善意で手伝ったのに普通請求するか!?」

「何? ではゾフは、器具の弁償を拒むためなら目の前の命を見殺しにしてもいいと思っているのか?」

「そういうことじゃねー!」

 初めて仕事を押し付ける現場に立ち会ってしまったが、想像を絶する惨さだ。

 ゾフはティリクを恨んでもいい。というか、なぜ未だに付き合いを続けているのか、はなはだ疑問だ。

「ひでぇよー! 今日は愛する妻との結婚記念日なのにぃー!」

 約束の時間は刻々と迫っている。

 エルセはどうすべきか迷った。今日は約束を取りやめるしかないのか――。

「……ゾフ。私は、お前だけが頼りなんだ」

「……え?」

「お前ほどの友人は、他にいない。面倒見がよく情に厚く、動物達にも好かれている。いざという時頼りになる――そんな男はゾフしか知らない」

「え? そ、そうかぁ? そんな褒められると俺も困っちまうけどよ……」

 何だか一転、急激に幸せそうだ。

 お邪魔虫にはなりたくない。エルセは迷いを振りきると、ゾフから目を逸らした。

「い、行ってきます……」

 逃げてしまった。

 これで、エルセも同罪だ。




 アリオが経営しているのは、街の中心近くに構えた中型店舗だった。

 女性向けの衣料品や装飾品だけでなく、店の右側はケーキや焼き菓子が売られており、飲食もできるようになっている。

 若い女性で満席になっている簡易カフェを横目に、階段を上がるよう案内される。

 彼の部下とは思えないほど柔らかな物腰の女性で、頭を下げてばかりで若干挙動不審なエルセのことも決して馬鹿にしなかった。

 アリオは執務机で書類を確認していたが、彼の部下がエルセの訪問を告げるとすぐに立ち上がった。

「よう、前にも訪ねてくれたらしいな。わざわざ悪かったよ。それに、今日はこっちから呼び立てるみたいになっちまって」

「いえ、立て込んでると聞きましたから」

 今日アリオと会う約束になったのは、以前訪ねた時に対応してくれた彼の部下達の気遣いの結果だ。

 わざわざアリオ在室の日を調べ、エルセのために時間を確保してくれたのだった。

 そこまでしてもらうわけにはいかないと固辞しようとしたのだが、なぜか部下達は譲らなかった。

 会いたいのはエルセの方なので助かったけれど、彼らの行動理念が謎すぎる。なぜあそこまで使命感に燃えていたのか。

 部下の女性は、紅茶と焼き菓子を供するとすぐに退室していった。

「あんたが店を訪ねてまで俺に用件なんて、珍しいな。何かあったのか?」

 アリオは紅茶を飲むと口を開いた。

 用事というか、エルセは魔物の大発生の時に交わした約束を果たしに来たのだ。

「あの、全てが終わったら事情を話すと、以前約束したので……」

「あぁ、そんなもん、話したくないなら別にいい。王都が無事で済んだのは、たぶんあんたらのおかげなんだろ?」

 彼が即座に返した言葉に、エルセは拍子抜けした。アリオには気負った様子などなく、間違いなく本音のようだ。

「そ、そんなことないですよ。ユリや色んな人達の頑張りがあったからこそです」

「当代聖女様を呼び捨てか。へぇ、ふーん」

「ふーんって何ですか……」

 彼女と仲良くなったことの何が面白いのか、やたらとニヤニヤしている。

 ユリとは正反対の反応だ。

「じゃあ、一つだけ。――エルセ・ソルブリデルは、一体何者なんだ?」

 エルセは彼の問いに肩を揺らした。

 人は、転生をする。

 それはイースティルという世界において当たり前の考え方だ。

 けれど輪廻転生とは、一般的には生まれ直しのこと指す。

 前世の記憶も罪も何もかも洗い流し、生まれる瞬間からまた新たな人生をはじめる。それが、大半の人に与えられる運命。

 死んだ時の姿や記憶を保っているのは、天族か魔族に転生した者と相場で決まっている。そしてエルシア・フォードは聖女だったのだから、本来なら聖人となり天界で暮らしているはずなのだが――。

 相変わらず、何てことない顔で一番聞かれたくないことを聞いてくる青年だ。

 エルセは諦めにも似た気持ちで覚悟を決めると、真っ直ぐに顔を上げた。

「……私は、エルセ・ソルブリデル。魔王陛下から魔力を与えられたために、特殊な転生を果たしました」

 これだけで、彼にとっては十分だろう。

 アリオは夕焼け色の瞳を僅かに見開いたけれど、すぐに小さく笑った。

「魔王様は、優しいんだな。今の生が楽しいって、あんたの顔を見てりゃ分かる」

「……天族じゃなく魔族になったこと、いい気味って笑われるかと思いました」

「魔族に偏見ないし。人間にも魔族にも悪い奴はいるってだけの話だろ。つーか、そんな最低のこと言いそうに思われてんのか、俺」

 思っていたし、何なら彼の友人に実際その最低のことを言われている。

 目を逸らすエルセの頭に、アリオはテーブル越しに手を伸ばした。乱暴に掻き混ぜられて銀髪がくしゃくしゃに乱れる。

「なっ、ちょっ、何ですか?」

「あんたは勘違いしてるかもしれないけど、俺はエルシア・フォードが嫌いだったんじゃなく、自分が犠牲になればいいって生き方が嫌いだったんだよ」

 長い髪がほつれ、視界はほとんど塞がっている。その向こうで、彼が優しく微笑んだ気がした。

「今度は間違えるなよ」

「アリオさ……」

 エルセが目を見開いた瞬間、頭の上にあった重みが急になくなった。

「――馴れ馴れしくエルセに触るな」

 アリオの腕を掴むのは、冷たい表情をしたティリクだった。

 彼の登場を今さら驚かなくなっているが、こんなことに慣れるべきではないのだろう。

 アリオも、うんざり嘆息するだけだった。

「またかよ……つーか腕に覚えのある部下ばっかなのに、どうやってここに忍び込んだんだよ、この男。何でもありだな本当」

 ティリクの手を払い除けると、彼はエルセに半眼を向けた。

「この嫉妬深い男、どうにかした方がいいんじゃねぇか? あんたの忠犬か何かかよ」

「忠犬……」

 犬種はきっと大型犬に違いないなんて、それこそ神様に怒られてしまうかもしれない。

 エルセは慌てて妄想を振り払った。

「ティリク先生、ゾフさんは……?」

 恐る恐る聞くと、彼はしっかりと頷いた。

「至極幸せそうに受付を引き受けてくれたのだが、奴はつくづく変人だな」

「ゾフさん……」

 何よりティリクの質が悪いと思うのは、天族の特性ゆえに嘘を付けないという点。

 つまり彼がゾフに言っていたことは、懐柔するためのでまかせでも何でもなく、全てが本音なのだ。

 ――ゾフさん……一生嬉々として先生に振り回されそう……。

 エルセは遠い目にならずにいられない。

 ティリクの分の紅茶を適当に用意しながら、アリオが話を変えた。

「そういやあんた、前にグレンダに手巾をやったんだって?」

「え? いえ、貸しただけであげては……」

 エルセが首を傾げると、アリオは意地の悪い笑みを浮かべた。

「あいつ代わりにって、うちの店で特注品の手巾注文して帰ったぞ。隣国特産の刺繍が施された最高級の絹地に、黄金蚕の絹糸で編んだ最高級レースのやつ」

 隣国の独特な刺繍模様は伝統工芸として発達しているし、黄金蚕が生み出す金色がかった絹糸も稀少なもの。どちらもエルセですら知っているほど高価だ。

 顔からサッと血の気が引いていく。

「そそそんなの、受け取れません! 私が持っている服を全部合わせるより、絶対高価じゃないですか!」

 エルセの叫びに、なぜか男性陣は水を打ったように静まり返った。

 しんとした空気の中、アリオが躊躇いがちに切り出す。

「……そういやあんた今日、聖堂で会った時と同じ服を着てるよな」

「え? まぁ、そうですね」

 両肩にティリクの手が置かれ、エルセは彼の労りに満ちた眼差しと向き合わされる。

「エルセ、恥ずかしがらず正直に話してほしい。――君は今、服を何着持っている?」

「え? 上が二着、下が二着。あ、あとは以前ティリク先生が贈ってくださったワンピースドレスが一着あります」

 再びおかしな沈黙が流れ、エルセは首を傾げるしかなかった。

 医院で働いている時は制服なので、私服が少なくても不便を感じないのだ。なぜ彼らが目を逸らしているのか分からない。

「ちなみに、エルシア・フォードの時はどうしていたんだ?」

「王宮に赴く時はドレスを贈っていただいていました。本当に身の丈に合わなかったのですが……あとは、基本的に神殿の制服を」

 ティリク達は、何かを呑み込むように虚空をあおいだ。

 それから視線を交わすと、全てを分かり合ったかのように勇ましい表情で頷き合う。

「よし、アリオ・プレーリオ。女性ものの衣料を山ほど注文させてもらおう。金に糸目は付けない」

「おう、任せろ。国中……いや、大陸中から極上の生地を取り寄せてやる」

「えっ! ちょっとお二人共、どうしたんですか? というか何で突然意気投合……ねぇ、ちょっと――……」




 エルセの訴えは黙殺され続け、夕方。

 アリオの店から解放されたのは、すっかりヘトヘトになってからのことだった。

 あのあと女性店員に採寸されたり、たくさんの織物を体に当てられたりしている内に、いつの間にかこんな時間になっていたのだ。

 茜さす石畳の街並みを、ぼんやりと眺めながら歩く。建物の濃い陰影と窓硝子のきらめきが芸術的な対比を作っていて、胸に迫るような美しさだ。

 少しずつ街外れに近付くと、人通りも少なくなってきた。

 エルセはポツリと呟く。

「……実は今朝、ウォルザーク様が迎えに来てくださいました」

 しばらく黙っていたティリクが、思い出したように口を開く。

「そういえば私も、翼が元に戻ったから天界に帰ることができるな」

「それを言うなら私こそ、エルシア・フォードの死の真相を調べ終わったので、地界に戻らなきゃいけないんですよね」

 どちらからともなく、二人の歩みは止まった。ティリクがエルセと向き直る。

 夕陽を浴びて輝く金髪と、青い瞳。

 それを真正面から見つめられるのは、エルセだけの特権だ。

「翼は、唯一神からの最後の慈悲かもしれない。ここで帰らねば今度こそ私は見離されるだろうが――エルセ。私が共にありたいと望むのは、君だけだ」

「私も、ここにいたいと願う場所は、あなたの側だけです。……ウォルザーク様にそうお伝えしたら、ものすごくいい笑顔で勘当されてしまいましたけど」

 でも、離れられない。離さない。

 エルセは、体温を分かち合うようにティリクの手を取った。

 素知らぬふりで歩き出すと、繋いだ手から彼の動揺が伝わってくる。

 過保護で独占欲も強いのに、ティリクは意外なほど奥手だ。天族ゆえの純真さなのかもしれない。

 エルセは魔族だからか、一挙手一投足に翻弄される彼を見ていると楽しく感じてしまう。清く正しく生きていたエルシア・フォードの頃にはなかった感情だ。

 もっと振り回したいという欲は、罪深いものだろうか。

「私の部下が、今度人間界に来るかもしれません。その、とても慕ってくれている子達で、どんな場所で暮らしているのか一度確かめておきたいと」

「面談か。いいだろう。受けて立つ」

「何で戦いみたいになるんです?」

 エルセが関わると急に過激になるティリクに、呆れつつも喜びが込み上げてくる。

 双子達には人間界に行くことを散々反対されたが、ウォルザークが有無を言わせずエルセを追い出してくれた。

 勘当を言い渡した彼の、嬉しそうな笑みを思い出す。

 こんなふうに自分の望みを貫いていいのかという不安は、少なからずある。

 けれど前世、誰にでも手を差し伸べる人生に疲れてしまったので、今世は少しくらい自分のために生きていいのではとも思うのだ。

 燃えるように赤く輝く森と見慣れた医院が見えてきて、エルセは頬を緩める。

 寄り添う二人の影が、石畳に長く長く伸びていた。



                 End


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誰が聖女を殺したの 浅名ゆうな @01200105

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