第26話 誰が聖女を殺したの

 鐘の音が聞こえる。

 誰かの死を悼んでいるのだろうか。

 エルセは、調度の一つもないガランと無機質な部屋で待たされていた。

 ユリはフロイシスを呼びに行っているためこの場にはいない。ここから先は聞かない方がいいだろうと、同席を断っていた。

 一つだけある小さな窓から王都を眺める。魔物の大発生など軽々と乗り越えて活気づく街が、エルセは好きだ。

 こうしてフロイシスを待っていると、エルシア・フォードだった時のことを思い出す。

 待たされるのは当たり前だったし、ひどいと待ちぼうけで終わることもあった。

 強く瞑目し、再び毅然と顔を上げる。

 彼とも真っ直ぐに向き合わなければ。

 カツン、と靴音がして振り返る。

 靴音はその一度きりで止んだ。きっと、足が進まなかったのだろう。

「――エルシア……?」

 燃えるような深紅の赤毛に、同色の瞳。

 まるで太陽の化身がごとく精悍な美貌を誇るのは、ロアーヌ聖国の王太子、フロイシス・ロアーヌその人だ。

 端整な美貌には磨きがかかり、五年前より体格もがっしりしている。明晰な頭脳と運動能力の持ち主だから、どちらの才も順調に伸ばしたのだろう。

「お呼び立てしてしまい申し訳ございません、フロイシス殿下。ところでなぜ、そのように青ざめていらっしゃるのですか? まるで死人でも見てしまったかのよう……」

 カツン。

 エルセの方から一歩距離を詰める。

 フロイシスの顔色がさらに悪くなった。

 当時のフロイシスの行動に違和感を持ったのは、エルセではなくユリだった。

『異なる世界の少女がやって来るなど、本来ならばあり得ないこと。それはつまり、唯一神のみになせる御業。ユリは、神がもたらした奇跡以外のなにものでもない』。

 これは、彼女の立場を慮っての発言。

 だが実際、フロイシスは優秀だ。

 考えなしの発言を不自然に思うべきだったし、ユリが『唯一神の愛し子』でエルシアが『偽の聖女』であるという認識の広まりの早さも、疑うべきだったのだ。

「あなたは、故意にエルシア・フォードを貶めた。ユリ・イイヅカと結ばれるため、噂を操って彼女を孤立させた」

 優秀だが、王太子の責務を全うさえすればいいという傲慢な考えが根本にある、フロイシスらしいやり方だった。

 エルシア・フォードだった時、どれほど心ない言葉を向けられたか。

 エルセは銀の髪を耳にかけながら、ことさら優雅に微笑んでみせる。

「エルシア・フォードは魔族として転生しました。あなたは、この結果に満足ですか?」

 聖人ではなく、魔族。

 ずっと怯えているようだったフロイシスが、突如哄笑を上げた。

「魔族……魔族だと? あのエルシア・フォードが? ハハッ、落ちぶれたものだな!」

 魔王の娘であることや魔力を使えることに関しては、あえて口を噤んでおく。魔族にとって至高の紫をまとっていることも。

 異形と成り果てていないことから察するのが先か、ユリから聞かされるのが先か。何はともあれ、エルセにはどうでもいいことだ。

「……そうまでして、エルシア・フォードを貶めたかった理由は?」

 これだけ盛大に嘲笑している相手に愚問かもしれないが、念のために確認しておく。

 フロイシスは笑いが収まらない様子で、肩を震わせながら答えた。

「父上からの覚えめでたく、国中から慕われていた。私はエルシア・フォードが――そなたが、ずっと目障りだったのだ」

 エルセを射貫く深紅の瞳は、ひどくぎらついていた。彼が隠し持っていた凶暴性を、初めて目の当たりにする。

 おもむろに、彼がこちらへと歩き出す。

「ユリは、どんなに聖力が強くても、いつも私を頼ってくれる。無邪気で従順な女だ。可愛げのないそなたとは違ってな」

 フロイシスは獲物をなぶるような振る舞いだったが、エルセは逃げることなく真っ向から見つめ返す。

「あぁ、その目だ。その目が大嫌いだった。私におもねることも媚びることもしない、ただ温度のない眼差し。そなたはいつだって私を見下していた……!」

「そんなつもりは……」

「ならば、なぜすがらない!? 泣きながらすがりつけば、私とて少しは優しくしてやったものを――……」

 勝手なことを言い立てるフロイシスの手が伸びてくる。

 しかしエルセに恐怖はなかった。どうせ今日も、彼がどこかに潜んでいるはずだから。

 予想通り、迫るフロイシスの腕は、寸前で容易くひねり上げられた。

「――そんな身勝手な理由で、彼女に冷たく当たっていたのか!」

「ティリク先生」

 エルセは安堵とも呆れともつかない声で、彼の名を呼んだ。

 ティリクの隠密活動に磨きがかかっているが、御使いの力を無駄使いしているような気がしてならない。

「貴様のせいで、彼女がどれほど辛い思いをしたか……その幼稚な嫉妬心のせいで!」

「先生、私は大丈夫ですから」

 宥めるように肩を叩くと、ティリクの方が悔しげな顔をしていた。

「なぜ君は落ち着いていられるんだ! 私は許せない! この男に跪いて謝罪をさせなければ、気が済まない!」

 なぜ、と言われても、フロイシスに対するわだかまりも何もかも、ティリクがまるごと受け止めてくれたから。

 復讐や恨みなど、エルセにはどうでもよくなってしまったのだ。

 この場でそれを伝えればややこしい展開になりそうなので、今は言わないが。

「いいんです。だって、心が伴っていなければ、謝罪など無意味ですから」

 もちろん、許すつもりはない。

 けれどフロイシスを詰ることができないくらい、エルシアも身勝手だったのだ。先ほどの彼の主張を聞いてそれに気付いた。

 エルシア・フォードだった時、一度だって彼の気持ちを考えたことがあっただろうか?

 婚約しても気を許さず、寄り添おうと努力もしなかった。彼からどんな仕打ちを受けても、乾いた気持ちにしかならなかった。

 傲慢な言い分を聞いたって結局同じ結末をたどるだけだっただろうが、分かり合う努力くらいはすべきだったのだ。

 胸の裡の不満をはっきり告げなかったフロイシスも、分かり合おうとしなかったエルシアも。お互い様だったのだ、きっと。

 ティリクが我がことのように怒ってくれた。もうそれだけで十分。

 ティリクを引き離すと、エルセはフロイシスに視線を移した。彼は、突然現れた謎の人物に戸惑っているようだ。

 もうきっと二度と会うこともないので、最後に言いたいことは言わせてもらおう。

「私があなたを許すことは、永遠にないでしょうが。――せめてあなたがこの先、国民にとって誇れる聖王となれますように。私が望むのはそれだけです」

 許さないが、関わりたくもない。

 これ以上、彼のせいで不幸になる人が増えないよう願うばかりだ。

 フロイシスに背を向けて歩き出す。

 すると、彼はうなるように呟いた。

「そなたは……生まれ変わっても同じだ。私のことなど、歯牙にもかけぬのだな……」

 足を止めかけたが、エルセは振り向かずに歩いた。今さらどんな話し合いも無意味だ。

 部屋を出ると、意外な人物が待っていた。

 知りたくないこともあるだろうと、エルセの方から同席を断ったユリだ。

 ティリクはまた姿を消している。

「ユリさん、聞いてたんですか……?」

「一応、婚約者だもの」

 彼女はやけに明るく笑った。

「魔王陛下の娘にひどいことをしたのだから、もしかしたらフロイシス様ってば、死後は地界直行になるのじゃない? しかも今度は自分が虐げられる番? つくづく馬鹿なことをしたわよね」

「……ユリさんは、それでいいんですか?」

「愛していたって罪は罪だから」

 ユリは潔く言い切ったあと、急に情けなく眉尻を下げた。

「でもね、いいところもあるのよ。魔物の大発生の時、フロイシス様は私を守ってくれたの。私が怖がってるからって、神官長様達を抑えていてくれて」

「……えぇ。あなたへの愛は、疑いようがありませんね」

「えへへへへへ、分かる?」

 長年の疑問が解消されたというのに、ユリに晴れやかさはなかった。

 当然だ。エルセにできるのは、彼女が信じる愛を肯定することくらい。

「まぁ、せいぜい長生きしてもらって、地界行きを引き延ばすしかないわよね。魔王陛下が話の分かる方なら、フロイシス様について行くこともできるのだし」

 聖女は、何ごともなく天寿を全うすれば聖人となれる。

 けれどユリの口振りから察するに、その権利を放棄するつもりのようだ。

 逞しく強靭な愛に思わず笑みが溢れる。

「えぇ。そこに関しては保証します」

 フロイシスが長生きすることで、少しでも過保護な者達の怒りが和らぐことを祈ろう。ウォルザークだけでなく、部下の双子も怪しいところなので。

 フロイシスのためじゃない。

 彼を愛し抜く覚悟を決めている、勇敢な友人のために。


   ◇ ◆ ◇


 暑さも下火になってきた最近は、朝晩が肌寒く感じるようになった。

 早朝に目覚めたエルセは、窓の外にうっすらと霞がかかっていることに気付く。

 この霞を見るようになったら、少しずつ冷え込みが増していき、ロアーヌ聖国に秋がやって来るのだ。

 エルセは地界から着てきた外套を肩にかけると、住居を抜け出した。

 何かに呼ばれるように森へと近付く。

 すると、熊の親子待ち構えていた。

「シア、ティル。おはようございます」

 肌寒くなってから、彼らのモフモフはますます魅力を増している。エルセは顔を埋めながらシアを抱き締めた。

 今日は医院から少し離れてしまっているため、ごはんを用意してあげられない。

 どんぐりでも落ちていればいいのだが、さすがにまだ早いだろう。

「こんなに撫でさせてもらってるのに、何だか申し訳ないような……あぁ、何て素晴らしいモフモフ……」

 思考能力を奪う毛並みの罪深さを感じながら、うっとりと目を閉じる。

 そのままどれほど時間が経っただろう。

 再び目を開けた時、エルセはいつの間にか鬱蒼と繁る森の中にいた。

 束の間、言葉を失う。確か、森の入口にいたはずだったのに。

 シアとティルは変わらず側にいる。

 だからこそ、夢でも見ているかのような錯覚をしてしまう。

 ――夢? 夢といえば、あの時も夢の中みたいだった……。

 エルセが思い当たった時には、彼はもうすぐそこに佇んでいた。

 霞にかすむ銀色の長い髪と、濃い紫の瞳。エルセの養い親である、ウォルザークだ。

 シアとティルが彼の下へと駆けて行く。

 彼は穏やかな表情で熊の親子を受け止めた。そしてその手を、エルセにも向ける。

 ゆっくりと伸ばされた手を、エルセは無言のまま取った。

 そうして、霞に包まれた森から、生きものの気配はなくなった。



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