第25話 罪と赦し

 すっかり体調が戻ったエルセは、久しぶりに王宮を訪れていた。

 テーブルには紅茶と焼き菓子。そしてそれらの向こうでは、以前よりずっと打ち解けた雰囲気になったユリがくつろいでいる。

「またこうして平和にお茶ができるようになって、本当によかったわよねー」

 淑女の見本のようだった姿勢も崩している。聖女としての自信も出てきたのか、いい意味で肩の力が抜けたらしい。

「全部、ユリが頑張ったからですよ」

 どれほど怖くても、彼女は逃げ出さなかった。最終的には完璧にやり遂げてみせた。

 純粋に他者を思いやる強さと優しさがある。それは昔から変わっていない……いや、むしろ以前より上回っているかもしれない。

 ユリがいたずらっぽく笑う。

「あれ、エルセ? 私には敬語じゃなくていいのよ?」

「か、からかわないでください……」

 エルセは恥ずかしくて目を逸らした。

 せっかく気を付けていたのに、彼女の前でボロを出してしまった。

 もしもティリクに知られたら『私にもぜひ』とか言い出しそうなので、できればこの二人を会わせたくない。

 ユリは、ティーカップを両手で包みながら肩をすくめた。

「結構可愛かったけどなぁ。『してんじゃねぇっぺ!』みたいな?」

「私はそこまでひどい訛りじゃありません! それはうちじゃなく、さらに辺境にある隣の集落の訛りですから!」

「実在してるの!? ごめんなさい、冗談のつもりだった!」

 訛りに関してはからかわれたくない。

 エルセにしては強めに抗議すると、彼女は空気を察して話を戻した。

「でもね、実際のところ、私一人じゃどうにもならなかったと思ってるわ。みんなが頑張った結果よ」

「そうかもしれません。今日も、街で多くの騎士団員を見かけましたよ」

 騎士団は、街の人々の避難や魔物討伐などでてんてこ舞いだったらしいが、今も近衛の半数ほどが人的支援を行っているという。

 ちなみにグレンダの姿も、ここに来る途中で目撃している。

 あの危急時での聖女呼ばわりに不穏な予感がしたので、すぐさま身を隠したが。

「アリオ・プレーリオさんも、被害のあと処理を手伝っているそうですね」

「あれ、よく知ってるわね?」

「彼の商会を訪ねたら不在とのことで、部下の方からその理由を聞きました」

 プレーリオ商会は現在、魔物の被害にあった家屋などを無償で建て直しているそうだ。

 無償、という点がさすがというか、ロアーヌ聖国屈指の商会の名は伊達じゃないとエルセも感心させられた。

「そうなの。とても助かってるんだけど、『こういう時にこそ恩は売っとくものだ』って。もうこっちは戦々恐々よ」

「さ、さすがの逞しさですね……」

 エルセは頬が引きつるのを感じた。

 うっかり感心していたが、予想の斜め上を行く商魂だ。

「そう……アリオさんと会っているの……」

「その、たまたま話す機会がありまして」

「あなたが、わだかまりなく話せたのなら、よかったわ」

 ユリが大人の顔で笑う。

 エルシア・フォードとアリオのぎこちない関係を知っていただけに、彼女にも憂いがあったのだろう。

 慈愛に満ちた優しい眼差しを向けられると非常に居たたまれないけれど。

「アリオさんだけでなく、グレンダ様にも会いましたよ。魔物に襲われかけたところを助けてもらいました」

「魔物に!? 大丈夫だったの!?」

 ユリは血相を変えたので、エルセはすぐに言葉を継いだ。

「はい、助けていただいたおかげで無傷で済みました。……そんなに心配しなくても、私は魔族ですよ?」

 魔族に堕ちてしまった『半端者』の元人間は、人間界でも忌避される傾向が強い。

 元々が罪を犯した魂だし、そもそも人を堕落させんと人間界に来る者が多いためだ。

 もちろんエルセにそんなつもりはないが、魔族と知られれば何をされるか分からない。

 エルシア・フォードという前世だけでなく、魔族であることも隠しているのはそのためだ。打ち明けるのは信用できる相手のみ。

 ユリにならば話しても大丈夫だろう。

 将来的に国の頂点に立つ身であれば天界や地界についても学んでいるだろうし、何より彼女は友人だ。

「それに見ての通り、私は少し特殊なんです。魔王陛下に魔力を与えられ、彼の養い子となりました。なので、元人間でも魔力を持っています。魔力由来ですが、未だに癒やしの力を使えるんですよ」

 ティリクにしか打ち明けていないことを、全て話した。

 彼女は驚愕に目を見開き――けれどすぐ、じっとりとした半眼になる。

 おかしい。思っていた反応と違う。

「体のどこも変化していないのはそのためなのね。よく分かったわ。魔界では尊いと習った紫色の瞳なのも」

「ユ、ユリ?」

「魔力を使って他者を癒やせるということには驚いたけど、あなたらしいとも思うわ。稀少な力についても含めて、話してくれたこと自体はすごく嬉しい」

「あ、あの……すみません。怒ってます?」

 久しぶりに思わず謝ってしまった。

 淡々と話すユリから、ただならぬ迫力が漂っているためだ。

「あの、そうですよね。今回のことで、魔族に対する偏見がより深まってしまいましたよね。笑って話すようなことではありませんでした。以後気を付けます」

 エルセが謝ると、無表情を保っていた彼女の顔がくしゃりと崩れた。

「他人事みたいに言わないで。私は、魔族だから心配いらないだなんて口振りを怒ってるの。だって、あなた達だって大怪我をすれば死んでしまうんでしょう? ――冗談でも、そんなふうに自分を軽んじないで……」

 エルセは呆然と目を瞬かせた。

 今度こそ心から謝罪をしなければと思うのに、熱い感情がせり上がってきて、言葉が出てこない。

 魔族への差別は、ある。

 信仰が深いロアーヌ聖国では特に顕著だ。

 それが分かっているからこそ、唯一神のお膝元であるこの国には魔族が極端に少ない。

 けれどユリが王妃となれば、いつかこの国は変わるかもしれない。

 人間に害意を持たない魔族というのは、エルセ以外にもいる。

 いずれは、そういった者達の姿をロアーヌ聖国で見られる日が来るのだろう。

 それは、本当に大きな変化だ。

 魔物の大発生の日、ユリが震えて蹲っていた時のことを思い出す。

 一生エルシアに追いつけない。一生後ろめたい。そう、泣いていたことを。

 ――ユリは、魔物が怖かったんじゃない。たくさんの人の命が自分の肩にかかっている、その責任の重さを理解しているからこそ、震えてたんだ……。

 きっと彼女は、賢明で優しい王妃になる。

 ならばエルセも、できる限りその心の重荷を軽くできればと願う。

「……ユリ。私は今、不幸じゃありません」

 ゆっくり口を開くと、今度はユリの方が目を見開いた。

 テーブルの上に置かれた彼女の手に、そっと自分の手を重ねる。

「魔族になったのは、他の誰でもなく私の責任。それを不幸だと嘆いているわけでもない。――だからあなたも、過去を悔いるより幸せになって」

 穏やかな声音を意識して語りかける。

 真っ直ぐに伝えることを願い、しっかりと目を合わせて。

 彼女の黒い瞳に、徐々に理解が広がっていく。一筋の涙が頬をなぞった。

 ティリクと同じくとても綺麗だと感じたのは、それが誰かのためを思って流れたものだからだろう。

「私は……あなたに謝りたかった。エルシア様に、ずっと謝りたかったの……」

 ユリが俯くと、漆黒の髪がサラサラと流れ落ちていく。表情は見えないけれど、華奢な肩は小さく震えていた。

「あなたのせいではないのに」

「私の存在が、エルシア様を追い詰めてしまったのは、事実だもの」

 それこそ、突然異世界に来てしまったユリが苦しむ必要のないことなのだが、彼女が後悔を吐き出すに任せ耳を傾ける。

「でも私は、アリオさんみたいに強くないから、聖堂には行けなかった。怖かったの。あなたと会うのも、あなたを称える街の人々や巡礼者に会うのも……」

 ユリは、再会したエルセをお茶に誘ってくれた。恐れつつも向き合おうとしてくれた。

 強い彼女が向き合えなかったことと言えば、一つしかない。

 思い悩み目を逸らそうとした。だから、二度と王宮に来るなと告げた。

「あなたに対して、許すも許さないもありません。もしそれでも罪があると感じるのなら、それはあなたが自身を許せないだけなんでしょう」

 ユリがゆっくりと顔を上げる。

 ようやく、彼女を長年苦しめていた不安から解放してあげられる。

 時間がかかってしまった。それには、エルセ自身にも覚悟が必要だったから。

「――フロイシス様と、お話をさせてくださいませんか?」

 静かに聞き入れるユリの濡れた瞳には、諦めにも似た安堵が宿っていた。


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