第24話 幸せと向き合う時

「……以前に、アリオ・プレーリオと話していたな。物陰から付きまとっているのなら、それはただの変態だと」

「しっかり聞いてたんですね……」

 あれほど距離があったのにとは思うけれど、もはや驚かない。

 ぎこちない体を動かし、エルセは丁寧に頭を下げる。

「ええと、陰口のようになってしまって、すみませんでした」

「いいんだ。君は否定してくれたし、むしろ勝手に盗み聞きをしたこちらが謝るべきなのだから。アリオ・プレーリオは許さんがな」

 気安く背中を叩かれたことを思い出したのか、ティリクは忌々しげに眉をひそめる。

「許さんが……一部否定できないとも思っている。私は、生まれ落ちた瞬間からエルシア・フォードを見守っていた」

 どういうことかさっぱり分からない。

 生まれ落ちた瞬間と言えば、あの農村での貧しい暮らしや、役立たずと両親に罵られていたことまで知られているというのか。

 だが、なぜ?

 エルセの疑問に、彼は慎重に答えた。

「私は、前世の君……エルシア・フォードの守護天使だったのだ」

 守護天使。

 その名の通り、神が人間を守り導くためにつけた御使いのことだ。

 小さな子どもにも、どんな悪人にも守護天使はついていて、善を勧め悪を退けるよう導くとされている。

 だが、先ほどエルセは見てしまった。

 ティリクの背中に、二対四枚もの羽があったことを。

 四枚羽の御使いは高位の存在で、二枚羽の御使いを管理する立場だと聞いたことがある。それほど稀有な存在がエルセを守護するはずない――と考えかけ、ふと気付く。

 そうだ。聖女とは、特別な存在だった。

「もしかして私が……聖女なのに私が、地界に堕ちてしまったから……先生は天界にいられなくなったんですか?」

 震えそうになるエルセの肩を、ティリクがすかさず支えた。

「それは違う。私自身が、人に紛れて生きることを選択したんだ。天界にいれば、いつかまた他の人間の守護を任される日が来る。――私にはもうできないと、確信したから」

 彼の手から温もりが伝わってくる。

 それを、どこか懐かしいように感じた。ずっと心の支えにしていたような。

 ティリクが、そっとエルセを抱き寄せる。

「私は、あまりにエルシア・フォードに心を傾けすぎていた。もう、見ていられなかったんだ……君が傷付き泣く姿を」

 胸がじんわりと熱い。

 間違いない。この優しさに覚えがある。

 当時のことを思い出しているためか、するりと解けるように正解へとたどり着いた。

 そうだ。偽の聖女ではないかと国中から疑われていたエルセは、毎日疲れきっていた。

 すると時折、部屋の窓辺に小さな白い花が置かれていることがあった。

 折れそうだった心を唯一支えてくれた、誰かの労り。あれは……。

「エルシア・フォードに何度も花をくれていたのは――ティリク先生だったんですね」

 温もりに身を預けながら問うと、彼は少し体を離した。

 見上げると、ティリクは作り損なったみたいに不器用な笑みを浮かべている。

 誇らしいような、それでいてどこか悔いているような。

「私は、君を傷付ける人間が許せなかった。神を恨みさえした。なぜ、見守ることしかできないのか。側にいれば慰められるのに。触れることも、抱き締めることだってできるのに――と。守護天使という立場から、あまりに逸脱しているだろう……?」 

 守護天使は神が人間のためにつけたのだから、否定など許されない。

 神の行いを否定する。それは、堕天だ。

「だから私は天族であることを捨てたのだ。唯一神に天界を追放されても、仕方がないのだと理解している。……あの方を、裏切ってしまったのだから」

 それは、違う。

 エルセは直感で思った。

 分かった気がする。

 ティリクは、ともすれば堕天する寸前だった。だから天界を飛び出した。

 そして唯一神もそれを分かっていたから、止めなかったのではないだろうか。

 天族としてのティリクを護るため、勝手な行動すらも許した。

 それは、追放とは違う。もっと優しい感情から生まれた選択肢だ。

 目の前に跪くティリクは、ひどく辛そうな顔をしている。

 だから、エルセは自分から手を伸ばし彼を抱き締めた。

 恐れ多いのではと弱気な思考が頭を掠めたけれど、すがるような抱擁を返されて思わず笑みをこぼす。

「……私は、あなたが神を裏切ったなんて思ってませんよ。もしかしたら唯一神も、こうして私達が出会うことを見通していたのかもしれません」 

 人と守護天使という不可侵の関係ではなく、新たに出会い直すことを。

 ティリクが天界にいたままでは、きっとこんなに近くにはいられなかった。

 彼も同じ結論に行き着いたのか、子どものように目を瞬かせた。そうして、嬉しそうに破顔する。

「あぁ、そうだな……そうかもしれん……」

 ぎゅうぎゅうくっついていると幸せで、心が満たされていくようだ。

 けれどエルセはある恐ろしい事実に気付き、音を立てて目を見開いた。

 愕然とする。

 こんないかにも相思相愛な雰囲気をかもし出しておきながら、互いに決定的な言葉は何一つ告げていないのだから。

 ――どうしよう。好きって言うには絶好の機会? でも、私の思い違いで先生は単に友愛を感じてるだけなのかもしれないし……それを言い出すなら私だって、初めて優しくしてくれた相手を好きって勘違いしてるだけかもしれないし……。

 恋愛経験はないため、正解が分からない。

 エルシア時代、神殿勤めの少女達から聞きかじった耳年増でもあるため、なおさら選択に迷ってしまう。 

 相手から好きと言わせた方が、後々優位に立てるとか。言葉にして確認し合わなくても恋ははじめられるとか。

 割り切った関係もあるとか、心の伴わない恋は自分が辛くなるだけとか。

 そもそもティリクは天族で、エルセは魔族。制約は多く、エルセもじき地界に帰らなければならないだろう。

 前途多難、という言葉が脳裏に浮かんだ。

「エルセ?」

 ぐるぐる考え込むエルセを、いつの間にかティリクが覗き込んでいた。毎回顔が近い。

「すまない。食事の途中だというのに長話をして、疲れさせてしまったな。……分かった。ここはやはり、私が食べさせよう」

 何やらまたキリッとしているが、何も分かっていないと言いたい。

 恥ずかしいことを真顔で言うし、声をかけてきた女性相手に相談を持ちかけるし、改めてティリクは変わっていると思う。平然と尾行や盗聴をするのもどうなのか。

 完全無欠の存在だと思っていたのに、案外欠点だらけなのかもしれない。

 ――そんなところも好きだけど……。

 エルセははたと気付いた。

 そうか。それが『特別』に想うということなのだ。

 誰かの『特別』になりたいと願うばかりで、これまでは誰かを『特別』に想ったことなどなかった。

 気付いた途端、伝えたいと思った。

 言葉にしなければ想いは伝わらない。優位かどうかなんて関係ない。

 たとえティリクが友愛しか返してくれなくても、エルセの中にあるのは間違いなく『特別』なのだから。

 ぐるぐる迷う臆病な自分を丸ごと受け入れて、前に進もう。

 怖いし緊張で心臓が壊れそうだけれど、エルセは真っ直ぐにティリクを見つめた。

「――好きです、ティリク先生」

 微笑んで告げると、彼は目を見開き硬直した。スプーンがテーブルへと落ちる。

「……今、何と?」

「先生が好きと言いました」

「私の妄想じゃなく?」

「はい。先生が好きなんです」

 そんな妄想をしたことがあるのかとまた残念な部分を一つ知ったが、やはり好きだとしか感じなかった。

 ティリクは忙しなく視線を彷徨わせる。

「自分で言うのも何だか、私は君に関することだとかなり重いぞ? 一人で出歩かせるだけで心配で堪らなくなる男だ」

「これからは、なるべく二人で出かけるようにしましょう」

「他の男と楽しそうにしているのも嫌だ。たとえゾフでもだ」

「たとえで名前が出るって、ゾフさんへの信頼が厚いですね……。誰とも話さないでいるというのはさすがに無理なので、ではその時は先生も話に交ざってください」

「――もう、取り消すことはできないぞ」

 彼の声が鋭くなる。

 まるで、最後通牒のようだった。

 逃げるなら今しかないと、澄んだ青い瞳が告げている。まだ逃がそうとするほど優しいのだ。

 エルセは淡い紫の瞳をゆっくりと一度瞬かせ、静かに笑みを広げていく。

「――――離さないで」

 ティリクはもう躊躇わなかった。

 獰猛な獣のような、荒々しいまでの抱擁を受け止める。

 彼の体は熱く、そのままエルセまで溶けてしまいそうだった。ティリクに馴染んで溶けていきそう。

 余裕のなさは恥ずかしいものではない。

 エルセも真っ赤になった頬を、もう隠すことはしなかった。

「無理だ……こうなったらもう、四六時中こうして触れているしか……」

「フフ、それは重症ですね」

 目を離したくない、から華麗な進化を遂げたらしい。好きだ。

 耳許でティリクが熱っぽく呟く。

「ずっと、好きだった……だが想いを伝えれば、きっと優しい君は私を受け止めようとする。縛り付けてしまうだろうと……それだけは駄目だと……」

「先生……」

 怖がらずに向き合ったら、ティリクのことがよく見えるようになった。

 それは、彼の中にもある臆病さ。

 溢れんばかりの愛情と、僅かな恐れ。想いのあまり相手を傷付けるかもしれないという恐怖は、歪んでしまえば側にいられなくなるからこそのもの。

 きっと世界中の誰もが、同じ不安を抱えているのだ。だから惜しみなく愛を告げる。

 エルセも、力いっぱいティリクを抱き締め返した。

「大好きです、ティリク先生」

「私なんて全力で愛している」

「そこは生きていくためにも、余力を残しておいてくださいね……」

 誰でもいいから愛してほしいだなんて、やはり昔のエルセは間違っていたのだ。

 勇気を出して幸せに向き合ったら、エルセは初めて大好きな相手の『特別』になれた。

『特別』に想うから『特別』を返してもらえるのだと、知れた。

 こんなにも心が満たされることだと。


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