第23話 もう逃げない
あとから知らされたことだが、エルセはあれからまる二日も眠っていたらしい。
ティリクがあれほど凄まじく泣いていたのも、もしかしたら二度と目覚めないのではと不安だったためだとか。
かなり無茶をした自覚はある。
助けるにもギリギリだったとウォルザークも言っていた。魔力枯渇を起こしかけて命が無事だったのは、運がよかっただけだと。
だから、これほどの反動も仕方がないのかもしれない。
「うぐぐ……」
ベッドボードにしがみつきながら、何とか体を起こす。腹に力が入らず、これだけで息切れしてしまった。
意識が戻ってからの数日、エルセはほとんど体が動かない生活を余儀なくされていた。
洗面所まで歩くにも半刻ほどかかってしまうため、トイレにも満足に行けない。
もはや自身の尊厳を守りきれるかという、極限の戦いに身を置いている状態だ。
「無理をするなと何度も言っているのに」
「あっ」
抵抗する間もなくフワリと持ち上げられ、エルセの体はティリクの腕の中にすっぽり収まっていた。
好きな相手にいわゆるお姫様抱っこをされて、ときめかないはずがない。
だがこれこそが、尊厳を遵守する戦いだ。
このままここで力尽き、トイレまでの往復を彼に任せるようになってしまったら、エルセの中で何かが終わる。
「あの、本当にありがたいですけど、私も少しは歩かないと。筋力が落ちて寝たきりになっちゃいますから」
「もし、君がベッドから起き上がれなくなったとしたら……私が付きっきりで介護をしていられるな……」
病んでる。発言に闇を感じる。
体が動かない問題に付随して、もう一つの問題が発生していた。
エルセがすぐに目覚めなかったせいで、彼の過保護に拍車がかかってしまったのだ。
離れていたせいで危険な目に遭わせた。
このままエルセがいなくなったらと思い悩み、彼は自分を責め続けたらしい。
「トイレか? 食事か? もしも汗をかいて不快なら、体を拭くものを用意しよう」
看護してくれる気持ちは嬉しい。
嬉しいが、溺愛がすぎる。
「本当に大丈夫ですってば! 先生はお仕事に戻ってください!」
今日は決して休診日ではないのだ。
毎日この調子では、医院が閉鎖に追い込まれそうで怖い。
ティリクは渋々といった様子でエルセを下ろしながらも、側を離れなかった。
「大丈夫だ、受付にゾフを置いている」
またゾフが犠牲に。
エルセは遠い目になりかけた。
せめて、彼が経営する料理店のためにも、かき入れ時の昼前までに解放してあげたい。
「でも、急患が来るかもしれませんし、ゾフさんじゃ対応しきれないですよ」
「急患は、魔物の大発生前に比べるとだいぶ減ったぞ。森の散策は続けているが、負傷した動物は見かけなくなっている」
「! そうなんですね……」
本当に、全てが終わったのだ。
ほとんどベッドの上で生活していたエルセにも、ようやく実感が込み上げてくる。
ユリは浄化をやり遂げたのだ。
アリオも、グレンダも、被害を最小限に食い止めるために尽力していた。街の人々も。
全ての人の頑張りがあったからこそ、こうして平穏を取り戻すことができたのだろう。
体調が戻ったら、彼らに会いに行きたい。そう素直に思える自分が嬉しかった。
シアやティルも元気だろうか。
またモフモフに埋もれたいなと感触を思い出しうっとりしかけていたエルセに、ティリクは続きを口にした。
「魔物の大発生直後は患者が増え、一人ではなかなかたいへんだったが」
「え、そうなんですか!?」
よく考えてみれば、魔物の大発生を防げたからといって、動物がみんな無傷で済んだとは限らない。
むしろ発生地だけあって、森に棲む動物達の方が被害が大きかったに決まっている。
エルセは二日寝たきりで戦力になれなかった。もしや多数の動物が命を落としたのか。
ティリクは顔色を読んだのか、エルセの頭を安心させるように撫でた。
「何も心配はいらない。手の届く限りではあるが、救える命は全て救えた。そこはまた手術をゾフに手伝わせてだな……」
「手術助手まで押し付けたんですか!?」
エルセは彼を遮るように驚きの声を上げた。それはさすがに、責任が重すぎるのではないだろうか。
「あいつは元々料理人だから、繊細な作業は向いている。手先も器用だ」
なるほど。繊細な飾り付けがされた料理を思い出せば、確かに十分務まりそうだ。
けれどティリクは、そこではっきりと顔をしかめた。
「だが、傷付いて苦しむ動物を見ていられないと手術中に泣くから、不衛生で追い出さざるを得なかった。全く、患者の体に入ったらどうするつもりなのか」
「ゾフさん……」
エルセから謝ろう。
どうせティリクは感謝も告げていないだろうから、エルセが平身低頭するしかない。
「ティリク先生、一刻も早くゾフさんを帰してあげてください」
「だが……」
「お昼休憩に来てくれれば十分です。一緒にごはん、食べてくれるんですよね?」
エルセが甘えても無理があるとしか思えないのに、彼には効果てき面だった。
「分かった。栄養価が高くおいしいものを、全身全霊を賭けて作ろう」
全身全霊を賭けるのは大げさすぎる。
そう思ったけれど口には出さず、やたらとキリッとした表情で部屋を出て行くティリクを、無事に見送るのだった。
ゾフのためにも背に腹は代えられなかったとはいえ、少しエルセは後悔している。
テーブルに並ぶ料理はどれもおいしそうだけれど、いかんせん量が多い。
健康でなおかつ空腹であっても食べ切れない品数が、そこにはあった。
甲斐甲斐しく食事の準備を調えていくティリクを見つめる。エルセの膝にはナフキンが置かれ、ジュースに紅茶、水などが注がれた各種グラスが用意され。
甘い笑顔でスプーンを口許まで運ばれては、もう我慢できなかった。
「……何度も言いましたけど。このままじゃ私、一人で何もできなくなっちゃいます」
「あぁ、問題ないな。むしろ望むところだ」
「望まないで……」
つんつん、とスプーンの先で唇を突かれるけれど、ここで絆されるわけにはいかない。絶対に負けられなかった。
エルセはキッとティリクを見据えた。
「私がもし寝たきりになったら、休診日に出かけられなくなっちゃうじゃないですか! 私、先生と色んなところに行きたいです!」
これは、我ながらいい説得法だと思った。
扱いに段々慣れてきたのかもしれない。
究極の選択でもあるまいに、ティリクはひどく難解そうに頭を抱えていた。
若干呆れつつ彼の返答を待っていると、思いもよらないことが起こった。
バササッ
「…………へ?」
エルセは目の前で起きた光景に、空いた口が塞がらない。
ティリクの背中に、純白の羽が二対広がっている。淡く光を放つ羽は、エルセが寝起きしている部屋には少々手狭なようだ。
「せ、せせ、先生……翼が……!」
翼が復活している。
驚くべきことなのに、ティリクは確かめるように羽を少し動かしただけだ。
「本当だな。今、心から望んだら出てきた」
「え? 心からって……」
「これさえあれば、君をどこにだって連れて行けるからな」
……前言撤回。彼の扱いに慣れる日なんて、きっと永遠に来ない。
何てしょうもない理由だ。
「ま、前に、翼は剥奪されたとか言ってませんでした?」
「人間界に下ると同時に背中から消えたから、剥奪されたものだと解釈していた。実際に、出そうとしても出せなかったしな」
「そんな、興味の薄い……」
エルセはクラクラしてきた。
穢れを払うといわれる、奇跡の羽。
ティリク以外の天族に会ったことがないため、エルセが実際に羽を見るのはもちろんこれが初めて。
せっかくの機会なのに、ティリクの態度は感動とはほど遠い。
――そういえばあの白い世界で、ウォルザーク様もティリク先生を『元』を付けずに呼んでいたような……。
追放処分を受けるような罪を犯したのではと勝手に考えていたが、どうやら見当違いだったようだ。
いや、翼を剥奪されたと聞けば堕天したと考えるのが当然だろうが。
こっそり取り戻したスプーンで、優しい味わいのスープを飲む。野菜の甘みがじんわりと体に染み渡っていく。
おいしい。目の前には相変わらず非日常が広がっているけれど、素朴な日常は心の安定剤の役割を果たした。
今度はスープの中で柔らかく煮込まれたパスタを食べ進める。すると、ティリクがため息をついた。
「だが、やはり悔やまれる。どうせなら魔物の大発生の時に復活してくれれば、少しくらい役立てることができたものを」
あの時穢れを払う力があれば、ユリの浄化にも役立ったかもしれない。
けれどそれはそれとして、エルセは大いに焦った。何と不敬なことを言うのか。
「ゆ、唯一神はいつも人間界を見守ってくださっているんですよ! もし今の台詞を聞かれていれば、今度こそ本当に翼を剥奪されちゃうかもしれません!」
「こんなもの、あってもなくても……」
不遜な態度を崩さないティリクの言葉が、ふと途切れる。
「……君は、翼がある方がいいと思うか?」
「え? まぁ……綺麗ですよね。先生によく似合ってます」
「では、なくならないよう気を付ける」
「切り替え早いですね……」
翼を消し、気を取り直して食事をはじめるティリクを見つめ、エルセは微笑んだ。
本当に、分かりやすいほど想ってくれる。
エルシア・フォードの死に関わっているのではという疑惑は、もう完全に捨て去った。
自身が心の底で死を望んでいたことはウォルザークとの会話で判明したし、何より彼だけはエルセを傷付けないと確信できるから。
だからこそ、逃げずに聞こう。
「……ティリク先生。先生は、エルシア・フォードを知っていますよね」
この国でエルシアを知らない人間はいないだろうし、天界でも『堕ちた聖女』としては有名かもしれない。
だが彼の言葉の端々から感じるのは、そういった薄い繋がりではなく、もっと揺るぎない関わりだった。
エルセは確信に迫る。
「先生が失った大切な人って、エルシア・フォードのことですよね? 私に先生の記憶は一切ないにもかかわらず、絶望するほどの思い入れがあった。――それはなぜですか?」
ティリクはスプーンを置き、顔を上げた。
澄んだ青い瞳がエルセを映す。
……もう、怖くない。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
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