第22話 あわいの地にて

 目を覚ますと、辺り一面真っ白だった。

 エルシア・フォードとして死んだ時にも、似たような光景を見た気がする。

『そう、あれは……』

 確か、ウォルザークだ。彼と初めての対面を果たしたのは、こんな場所だった。

「……その通り。ここは生と死が交わる場所。地界に堕ちた魂を、新たに生まれ変わらせる場所だ」

 視線を動かすと、そこには今まさに思い出していたウォルザークがいる。

 彼は幼げな顔立ちに似つかわしくない難しい表情を浮かべ、エルセを見下ろしていた。

『あれ? 魔王陛下?』

 口が動かないから、声が出せない。

 なぜか全身も動かせず奮闘していると、ウォルザークは呆れながら指を鳴らした。

 すると何かに押されるようにして、体が強制的に起き上がる。まるで雲がかたちを変え、エルセを支えているかのようだった。

 再び彼が指を鳴らすと、今度は椅子のようなものが出現し、ウォルザークはそこに腰を下ろす。不思議だ。

「魔力の枯渇でまた死ぬつもりか、馬鹿者」

 そういえば喋れないのはエルセだけのようで、彼は座るなり苦言を呈した。

 そして、ようやく現在の状況を思い出す。

 魔物の大発生の最中、ティリクの下に駆けているところだった。

 そこで魔物に襲われ、――エルセの代わりに彼が大怪我を負ったのだ。

 魔力を全て注ぎ込んでも足りなかったけれど、街の人々の祈りの力が届いたおかげでティリクを助けることができた。

 先ほどのウォルザークの説明から察するに、エルセは死に近い状況にいるのだろう。

 ティリクを救えたのだから上々の結末と言えるけれど、目の前の魔王陛下に迷惑をかけたのは間違いないようだ。

『……すみませんでした。お世話になっているのに、死にかけてしまって――』

「全くだ。我がそなたの魂をこの世界に保護しなければ、あのまま死んでいたぞ」

『助けていただいて、ありがとうございます。お手数おかけしました……』

 平謝りするしかないエルセは、彼との会話が成立していることが不思議だった。魔王陛下というのは本当に何でもありだ。

 ウォルザークは、やがて鷹揚に頷いた。

「まぁよい。可愛い娘のすることだ。地界に戻った時、ゆっくり茶に付き合ってもらおう。茶菓子には我のとっておき、きんつばを用意しておく」

 表情筋すらまだ動かせないため、エルセは内心で愛想笑いを浮かべた。

 愛娘扱いもとっておきのお茶菓子も、感謝すべきなのかいまいち分からない。それとも彼らしい冗談か。

「それでどうだった、人間界は? そなたにとって恐ろしいことばかりだったか?」

 ウォルザークの瞳は、エルセのものより濃い紫色をしている。

 高貴な深い色なのに、注がれる眼差しはどこまでも慈しみに満ちている。

『陛下……ウォルザーク様。ありがとうございます。あなたのおかげで、私はたくさんのことに気付けました』

 エルセは、人間界での出来事を思い出す。

 期間で言えばまだ二ヶ月程度。泣きじゃくりながら人間界に転送され、当初は森を出ることさえ恐ろしかった。

 シアを助け、ティリクと出会った。

 彼は誰よりも優しく頼りになって、時々対応に困るほど過保護だった。

 それから日々は怒涛のごとく過ぎていき、前世で縁のあった者達と次々に遭遇した。

 ひと目を憚らず泣くグレンダ、皮肉げな態度に真摯な人柄を隠すアリオ。

 無邪気で前向きで、けれど深い悩みを心に秘め続けていたユリ。

 出会えてよかった。人間界に行ってよかったと、今なら断言できる。

 それは考えられないほどの心境の変化だ。

『……それはそれとして、泣いている相手を強制転移させるのはどうかと思いますけど』

「ハッハッハ、少しは言うようになったではないか」

 文句は言ったものの、ウォルザークには心から感謝している。

 エルセ自身が、エルシア・フォードの人生を、あまりに蔑ろにしていた。

『エルシア・フォードの死の真相を調べろと命じたのも、過去と向き合うようにという意図だったんですね』

 エルセの言葉を受け、ウォルザークは笑みを静かなものに変えた。

 至高の紫が、銀色の睫毛にけぶる。

「それに気付けたのなら、もう分かるだろう。……エルシア・フォードは、なぜ献身を尽くしたにもかかわらず、地界へと堕ちてしまったのか」

 その答えは、人間界で暮らす内に気付いていた。体が動かないので自嘲の笑みも作れないけれど。

『私の心が……あまりに醜かったからではないでしょうか』

 エルシアという前世に向き合い、自分がいかに身勝手だったか思い知った。

 誰か助けてほしい。分かってほしい。救ってほしい。愛してほしい。

 強欲で、なのにそれを誰かに伝えることもできず。

 心から訴えれば、分かり合える人はきっといたはずなのに。エルシアは勝手に失望して死んでいった。

 聖女と称えられるのがおこがましいほど、心が醜く歪んでいたのだ。

 けれどウォルザークは、エルセの解答に緩く首を振った。

「我は言ったはずだぞ。お前の魂は穢れているにもかかわらず、死の瞬間まで美しいままだったと」

『……そうでしょうか? 恨む気持ちや怒りもありました。だから、私は地界に堕ちた』

「いいや。――お前が堕ちた理由は、死因にあったのだ」

『死因?』

 馬車にひかれそうになっている子どもを庇って、死亡。決して地獄に墜ちるような死因ではないと思うが。

 疑問を見透かすように、ウォルザークの視線がエルセを貫いた。

 胸の表面をザラついたもので撫でられるような、心許ない不安感に襲われる。その先は聞きたくない――。

 ウォルザークは情け深い眼差しのまま、けれど一切の容赦なく続けた。

「あれは――消極的な自殺であろう」

 告げられた瞬間、頭が真っ白になった。

 ……唯一神の教えには、禁忌とされる行いが三つある。

 汝、欲に溺れることなかれ。

 他者への尊敬を忘れることなかれ。

 そして――自ら命を絶つことなかれ。

 エルシア・フォードの哀しい最期が脳裏をよぎった。

 地面に叩き付けられた衝撃。降りしきる雨と、頬に当たる石畳の冷たさ。突き飛ばした子どもの泣き声。濡れた衣服の重さと、車輪に潰された青林檎。

 薄れていく意識を満たしていたの失望だった。けれど瞳を閉じる瞬間、確かに心を掠めた感情は……『安堵』だった。

 ずっと孤独だった。

 辛かった。人の顔色ばかり窺って、そのくせ誰かの『特別』にもなれない人生だった。

 ……あぁ、これでようやく終わらせることができる――。

『そうね、そうだったわ……』

 ストンと、納得が胸に収まった。

 誰が聖女を殺したの。

『――――それは、私。私が殺した……』

 ひどい顔をしていたのかもしれない。

 立ち上がったウォルザークが、労るようにエルセを抱き締めた。

 小さな体で、抱き締めるというよりは抱き着くという状態だったが、背中を撫でる手付きからは親の愛にも似た慈しみを感じる。

 エルセは遠慮することなく体を預けた。

 普段ならば謝って離れているところだが、体を動かせないから都合がよかった。何も我慢せず存分に甘えられる。

『エルシア・フォードを……私の人生を救ってくれて、ありがとうございます』

 あのまま終わってしまえば、エルシアは永遠に惨めなままだった。

 このやり直しは、エルセにとって救いだったのだ。人間界で死の真相を調べたことも。

『私、あなたの下に転生できてよかったです。ウォルザーク様……お父さん』

 口にするのは恥ずかしくても、今なら伝わると分かるから、心の中だけで。

 抱き締められた体勢のままだから、ウォルザークの忍び笑いが体に響く。

 それはからかいを含むものではなく、いかにも機嫌のよさそうなものだった。

 しばらくすると彼の方から離れていく。

 嬉しそうな笑みが、からかい交じりのものに変わった。

「ほれ。自らの行いをしっかり反省できたのなら、早く戻るがよい。あの嫉妬深く執着心の強い天族が待っておる」

 ウォルザークが指を鳴らした途端、エルセの体が少しずつ淡い光へと変化していく。

 やや驚いたものの、彼がおかしな真似をするとは思えない。信じて大丈夫だろう。

 養い親へと笑みを返すのを最後に、エルセの姿はあわいの地から消えた。


   ◇ ◆ ◇


 ゆっくりと目蓋を動かす。

 体がずっしりと重い。先ほどまでは一切なかった倦怠感がのしかかって来て、人間界に戻ってきたのだと嫌でも分かる。

 何より……眼前にティリクの泣き顔があったから、一気に現実に引き戻された。いくら何でも近すぎではないだろうか。

「ティ、リク……せ……」

 エルセは軽く咳き込んだ。口を開いたが、喉が張り付いたように声が出てこない。

 滂沱と涙を流すティリクは気が動転しているのか、なぜか背中を叩いた。できれば水が欲しいのだが。

 視線だけで何とか伝えると、彼はグラスになみなみと注いだ。多い。

 それでも、どうやら思っていたより喉が渇いていたらしい。

 大量の水を一気に流し込むと、エルセはようやく人心地ついた。

 ティリクを見上げると、彼は涙腺が崩壊したみたいにポロポロと涙を溢している。

 綺麗な涙だ。

 綺麗だと、出会った時も思ったのだった。

 けれど、とにかく今は。

「心配かけてすみません、ティリク先生。……ただいま、帰りました」

 泣き続ける彼を、ウォルザークにしてもらった時のように、優しく抱き締めた。


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