第21話 祈り
絶望しかけた人々にとって、それはまさに救いだった。
神殿の敷地内、正殿に面した広場は項垂れた人で溢れ返っている。その正殿の正門から、一人の女性が進み出た。
艷やかな黒髪をなびかせ、颯爽と歩く聖女。漆黒の瞳も凛と前を向いている。
絶望を跳ね返し毅然と立つ姿はあまりに美しく、また神々しかった。
「聖女様だ……」
「あぁ、聖女様よ……あの方がいれば、きっと何とかしてくれるわ……」
色めき立つ人々を、聖女は手を上げるだけで制した。広場は静まり返る。
「人々よ。この国に住まい、この国を愛する隣人よ。ロアーヌ聖国は今、未曾有の危機にあります。瘴気から生まれし魔物達が、この国を蹂躙しようとしているのです」
人々のどよめきが大きくなる前に、聖女は続ける。
「どうかご安心ください。私には、瘴気を浄化する力があります。魔物の大発生は必ず抑えられるでしょう」
将来の国母となる女性は、安堵する一つ一つの顔をしっかりと見つめてから微笑んだ。
「けれど、私一人ではこの災厄に打ち勝てないかもしれません。だからみなさん、共に祈ってくださいませんか。今、あなた方の力が必要です。唯一神への祈りこそが、瘴気に打ち勝つ力となる」
きっと何とかしてくれるはずと誰かに責任を押し付けるのではなく、全員で困難を乗り切ろうと。
聖王国の民は、常日頃から唯一神に祈りを捧げている。そんな簡単なことでいいならばいくらでもできる。
だが、人々の顔には僅かに憂いがあった。
自分達はこれまで、あまりに聖女に頼りきりだったのではないだろうか。
無力であることを言い訳にして、厚意の上にあぐらをかいて。
ほんの少しの怪我であっても神殿に駆け込んでいた。そうして治してもらえることを、どこか当然のように感じていた。
聖女といえども普通の少女なのに、その忙しさや苦労など考えもしなかった。
そういう一人一人の怠慢や傲慢が、エルシア・フォードという聖女を殺したのに。
聖堂で眠る綺麗な状態の遺体を見て、少しの罪悪感もなかったかと言えば嘘になる。
偽の聖女という噂を信じ、何度も助けてくれた彼女から背を向けた。
あぁ、きっと天罰が下る。いずれ、愚かさが招いた罪で身を滅ぼす。
だって自分達はよってたかって、あの控えめな笑顔の少女を殺してしまった。
その上、真の聖女だと祭り上げ、彼女が死したあとにまで、浅ましくも許しを乞おうとしているのだ。
「俺達なんかに……本当に、できることがあるのかな……」
誰かの呟きに、当代の聖女は微笑んだ。
「できます。一人一人ができると信じることで、救われるものがあるように」
その言葉を受け、やがて誰もが深く頭を垂れはじめる。
人々は心から祈った。
大地に緑がみなぎることを。あまねく命が輝けることを。唯一神に愛されし国が、本来の美しい姿を取り戻すことを。
……そして、聖女エルシア・フォードの魂が安らかにあらんことを。自分達のためではなく、ただ優しかった少女のために。
人々の祈りが満ちていく。
一つ一つの祈りには些細な力しかなくても、それはやがて大きな奔流となる。
◇ ◆ ◇
エルセは、医院に向かって走っていた。
あそこにはティリクがいて、瘴気を結界で必死に食い止めている。
時折、不気味な鳴き声が聞こえてきて足がすくむ。それでも走った。
魔物だろうが怖がっていられない。孤軍奮闘しているティリクを助けたい。
行きがけには、側にいてもできることはないと考えていた。それが正しいとも。
けれど、ユリと話して気付いた。
何の力もなくても、支えになることはできる。いや、何もできなくたっていい。
彼がそれで安心できるのなら、ただ側にいるだけで十分だったのだ。
早く会いたい。無下にしてしまったことだけは謝って、そうしてユリを説得できたと報告するのだ。きっとたくさん褒めてくれる。
その時、道端の草むらが動いた。
飛び出してきたのは小型の魔物だ。エルセの膝にも届かない体長だが、赤いぎょろりとした一つ目が禍々しい。
背中に蝙蝠のような翼が生えていて、思いもよらない速さで襲いかかってくる。
身構えることもできずにいたエルセを庇うように、広い背中が立ちはだかった。
「うおおぉぉっ……!」
小型の魔物の攻撃を受けたのは、グレンダだった。
「グレンダ様!」
彼は危なげなく魔物を弾き飛ばすと、再び大剣を振るう。立ち向かってきた魔物を一刀の下に両断した。
「ありがとうございます! でも、グレンダ様がなぜここに……」
「友人から、魔物が出現するかもしれないと報せを受けたのだ!」
「え、もう……?」
これは、もはや仕事が早いなんて言葉では片付けられないかもしれない。
騎士団まで動かしたあの皮肉っぽい商人の手腕に恐れ入る。
「近衛なのに、フロイシス殿下のお側を離れていいんですか?」
グレンダは職務に忠実な人間だ。
いくらアリオの忠告があっても、フロイシスの側を簡単に離れたりしないだろう。
なぜかグレンダは、『よくぞ聞いてくれた』とばかりに頷いた。
「殿下ご自身がおっしゃったのだ、『今は民を優先させるべき時』と! あぁ、何と高潔なことか! 自分はあの方にお仕えできて、世界一の幸せ者だ……!」
「はぁ、そうですか……」
何やら感銘を受けているようだが、国の上層部しか知らない話をするため、単に側にいられると邪魔だったのではないだろうか。
冷たくされた覚えしかないので、ついうがった見方をしてしまう。
――きっと国民にだけは優しいんだ。国民にだけは……。
エルセはおざなりに頷き、再び走り出そうとする。
それを引き留めたのはグレンダだった。
「待て、一人でどこに行くつもりだ! 不安ならば俺がついて行くぞ!」
「いいえ、あなたはここを守ってください! 私は街外れの動物病院に行かなければなりません! 目の付くところに騎士の鎧があった方が、街の方々も安心でしょう!」
神殿に集まりつつある人の輪から外れ、エルセは街を飛び出そうとしている。勝手な行動という自覚はあるので、街を護る戦力を自分のために割くのは気が引ける。
当たり前のことを言っただけなのに、グレンダはこれにも感動したようだ。
「な、何と美しい博愛精神……! まるで、君自身が聖女のよう――……」
「それでは私は先を急ぐので! 本当にありがとうございました!」
彼の言葉は聞かなかったことにして、エルセは今度こそ走り出す。
この後に及んで聖女とはどんな皮肉だ。
少しずつだが、空気が浄化されていくのを感じる。
ほとんど夜のような暗さだったのに、今はおぼろげながら景色を捉えられる。
山や川がどんな状態か確かめに戻る暇はないけれど、きっと先ほどまでに比べ改善しているはずだ。ユリは頑張っているのだろう。
街の外れまでもうすぐ、というところで、何かが弾けたような感覚があった。
はっきりと空気が変わった。
ティリクの結界が破られたのだ。
エルセはさらに足を早めた。肺が破れそうでも、足がもつれそうになっても、走るのをやめない。
早く。少しでも早く――。
ようやく医院の白い建物が見えてきて、エルセは足を止めた。
そこに折よく、ティリクが医院から顔を出す。彼はエルセに気付くと目を見開いた。
まるで、時間がゆっくりと動いているようだった。
こちらに向かって駆け出すティリク。そのやけに切迫した表情。緊急手術をしている時みたいだ、とぼんやり思う。
たくさんの命を救ってきた彼の手が伸びてくる。何かを叫んでいるかもしれない。
――逃げろ?
首を傾げた時には遅かった。
間近に迫ったティリクの端整な顔が瞳に焼き付く。押された肩の強さも。
吹き飛ばされたエルセは地面を転がった。
痛みなど感じる余裕もなく、弾かれたように体を起こす。
目の前が――――真っ赤に染まっていた。
血だ。のろのろと動く頭で考える。
見下ろす自分の服も血塗れだ。なのに、どこにも痛みを感じない。
何かが倒れる音がした。
見上げれば、ティリクが背を向けて立っている。そのさらに向こうには地面に横たわる狼に似た獣。
狼と違うのはその巨体と、恐ろしい長さの上顎犬歯。その姿が砂のように消えていくのを見て、エルセはようやく魔物だと悟る。
魔物に襲われかけたところを、ティリクが助けてくれたのだということも。
「先生、ありがとうございます……」
ヨロヨロと立ち上がりながら気付いた。
瘴気から生まれているからか、魔物は傷付いているのに血が流れていない。
では、この血は?
いつもより頭の働きが鈍い。一つ一つの物ごとを、単調に捉えようとしている。
それは、気付きたくないという防衛本能かもしれなかった。
ティリクの上体が傾ぐ。
エルセはそれすら、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
「――――先生!!」
見慣れた彼の白衣は、血で真っ赤に染まっている。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
ひどい出血量だった。
天族や魔族といっても、長命なだけで傷付かないわけではない。血も流すし、致命傷を負えば死ぬ。
死ぬのだ。
「先生! 先生、しっかりしてください!」
エルセはすぐさま癒やしの力を使った。
魔力がどんどん吸い取られていく感覚で、ティリクの重症度を知る。
魔物の牙が貫通したらしく、腹部にポッカリと穴が空いていた。
無残な噛み跡が彼の体に並んでいる。そのどれもが重傷と言っていいもの。
ティリクがうっすらと目を開いた。
「先生! 私が分かりますか!?」
呼びかけながらも治癒の手は緩めない。
彷徨う彼の瞳が、エルセの上で留まった。
「ティリク先生、ごめんなさい……私なんかのせいで、こんな……」
涙声になって、言葉が詰まる。
なぜかティリクは、少し笑った。
空のように澄んだ色の瞳が、こんな時だというのにとても綺麗だった。
「……君を、守れたなら……いい……」
我慢していた涙が、ポロポロと溢れた。
――違う。この人は、絶対に違う……。
魔物の大発生が起きる前は、エルシア・フォードの死に関係しているのではと疑念を持っていた。
けれど、疑いようがなかったのだ。
こんなにも想ってくれる人を。
エルセはいつだって護られていた。見守ってくれていると、確かに信じられたのに。
頭が割れるように痛み、視界がかすむ。
それは泣きじゃくっているせいではなく、魔力の限界が近いからだった。
それなのにティリクの容態は一向によくならない。命が砂粒のように、手の平からこぼれ落ちていく。
「いや……いや、いや……」
ゆるゆると首を振りながら、目の前に横たわる現実を拒絶する。
命を賭けたとしても、彼は助からない。
絶望が胸を覆いかけた、その時だった。
「――え……?」
エルセは、自身を包み込む淡く優しい光に気が付いた。
光の粒子は懐かしい気配に満ちている。
一つ一つに耳をすます。それは、たくさんの人達の真摯な祈りだった。
どうか、安らかに。どうか、幸せに。どうか、笑顔のままで――。
伝わってくる溢れんばかりの感謝に、エルセは泣きながら笑った。
「あぁ、みなさん……ありがとう、ありがとうございます……」
祈りは力になる。
柔らかく暖かな感情の奔流が、エルセに聖なる力を与えた。
その使い方は、とてもよく分かっている。
聖なる癒やしの力が、ティリクの体へと向かっていく。
光が傷口を包むと、みるみる内に穴が塞がっていった。それはまさに、奇跡そのものと言える光景。
聖なる光が消えると同時に、ティリクの顔に血色が戻ってきた。
呼吸と脈拍を確かめる。
……生きている。助けることができた。
エルセは肩の力を抜くと、ついでとばかりに彼の頬を撫でた。そうして目を細めて微笑むと――ティリクの隣に倒れ込んだ。
エルセは魔力を使い果たしていた。
ティリクの傷を癒やしている時も、ほとんど気力だけで動いていた。
少しずつ意識が、見上げる空が遠くなる。
視界いっぱいに広がる空には、確かに夏の青空が覗きはじめている。
エルセはやり遂げた笑みを浮かべてから、ゆっくりと目蓋を下ろした。
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