第20話 二人の聖女

 それは街の人々にとって、突然はじまった災厄だった。

 王都の北を守るように広がるなだらかな山が、目に見えて枯れていく。

 季節は夏。それは明らかな異常だった。

 恵みの多い場所だったため、逃げ惑うようにしておびただしい数の鳥が飛び立つ。

 空を真っ黒に染め上げるような不気味な光景だった。

 街の人々はその時になって、異変が一つでないことに気付く。

 夜でもないのに空が薄暗い。

 それどころか灰が厚く積もるかのように、少しずつ暗さが増していくようだった。

「いやあぁぁっ!!」

「何が起きてるんだ!?」

 人々は混乱の極みにあっても、ただ家族を抱き締めるしかできなかった。

 だって逃げようにも、どこへ?

 鳥達も逃げ惑って、頭上を旋回するばかりだった。

 その内に、また一人が声を上げた。

「――川が!」

 恐ろしいものほど確かめたくなるのは、なぜだろう。理解をして安心を得たいのか。

 人々は戸惑いながらも顔を見合わせ、こぞって川沿いへと足を向ける。

 そうしてたどり着いた先では、誰もが叫ぶこともできず立ち尽くした。

 ゆったりと流れ、王都中を潤すテナ川が。

 水底の魚さえ見通せるほど澄みきった、清き流れが。

 上流からジワリジワリと、血の色に染まっていくではないか。

「一体王都は……どうなってしまったんだ……? いや、ロアーヌ聖国自体が……」

「もしや滅びの予兆なのか」

「この国はもうおしまいだ……」

 国全体の危機ならば、もはや逃れることなどできないのだろう。等しく死が訪れる瞬間を、ただ漫然と受け入れるしかない。

 逃げ場はないのだ。恐怖心が麻痺して、人々はやがて絶望に侵食されはじめていく。

「ロアーヌ聖神殿に行けばいい!」

 叫んだのは一体誰だったか。

 それに呼応するかのように、一人の女性が明るい声を上げる。

「そうよ、私達には癒やしの神殿がある!」

 戸惑いつつ、人々の瞳にも光が戻りはじめる。それは一筋の希望だった。

「そうだよ……唯一神が、きっと我らを救ってくださるはずだ。それに神殿には聖女様がいらっしゃる」

「神殿だ。神殿に向かおう」

 そう思い立つのは一人や二人じゃない。

 神殿ならば、聖堂ならば。

 きっと憐れな信者を守ってくれる。


   ◇ ◆ ◇


 エルセは、ぞろぞろと歩く人波を掻き分けながら進む。

 もっと混乱するのではと危ぶんでいたが、街は異様なほど静かだった。

 これも全て、アリオの仕業だろうか。だとしたらあまりにも仕事が早い。

 同じ方角を目指す人々の目的地は、おそらく神殿だろう。そのためか人の流れはやけに整然としている。

 暗くなっていく空も、山や森に住む鳥獣達も心配だが、淡々とした人々を見ているとなおさら胸が痛くなった。

 生命力に満ち溢れた表情、鮮やかな日常。

 普段の様子を知っているからこそ、これがどんなに異様な光景か分かる。

 けれどエルセは歯を食い縛ると、また流れに逆らって進み出した。

 何とかしたい気持ちを抑え、王宮へ。

 この状況を打開できるのはユリだけだ。

 癒やしの力で瘴気を浄化できるのも、人々の希望になって心を救えるのも。

 ――ティリク先生は計画通りに結界を張ってる……私は、私にできることを……!

 別行動を反対されたけれど、彼を納得させるほどの時間もなかったので静止を振り切って駆け出してしまった。

 多少の罪悪感はあるが、エルセは自分が正しいと信じている。一人だけ、彼の側で安穏としているわけにはいかない。

 ティリクの結界だっていつまで保つか分からないのだし、ならばユリの様子を見に行く方がまだ役に立てる。

 彼女はまだ浄化をはじめていないようだ。

 先ほど聖堂も確認したけれど姿はなかった。だとしたら、残る可能性は王宮だ。

 ユリはもう、このひどい光景に気付いているだろうか。

 息を切らしながらたどり着いた聖王宮は、いつもとまるで雰囲気が違った。

 人の気配が全く感じられない。おかげで悠々と進めるけれど、使用人達は逃げてしまったのだろうか。

 ――騎士達もいないなんて考えられない。もしかして、魔物と戦ってる……?

 魔物との戦闘に駆り出されて警備が手薄になっているのだとしたら、ティリクの結界が限界に近付いているのかもしれない。

 エルセはますます足を急がせた。

 ひと気のない回廊を、以前訪れた時を思い出しながら進む。

 ユリの私室は、このような状況下だというのに静かだ。王族や神官長が彼女の下に詰めかけていることを想像していたのに。

 念のため扉を叩いても応答はない。

 エルセはゆっくりとドアノブを回した。

 太陽が隠れているせいか、カーテンの閉じ切られた室内は夜のように暗い。

 けれど、かすかな衣擦れの音を捉えた。

「ユリさん……?」

 段々と暗闇に慣れてきた目が、部屋の片隅でビクリと動く何かを見つける。ブランケットの固まりだ。

 エルセは静かに近付くと、慎重な手付きでブランケットの中を覗き込んだ。

 ユリだった。

 手足を丸めて震えている彼女の髪は乱れ、顔には恐怖が張り付いていた。

「無理。無理よ。私には無理。無理なの、絶対できない……」

 ブツブツとうわ言のように呟く内容は、以前に聞いたものと同じ。

 もしも、聖女にしか解決できない問題が起こったら。

 ……ユリは、自分はエルシアではないから無理だと答えていた。

「ユリさん、あなたならできます……」

「無理よ!」 

 耳を塞いで拒絶した彼女の顔が、グルリとこちらを向いた。

「――そうよ。ねぇ、あなたが何とかしてくれればいいじゃない。できるでしょう? だって、本物の聖女だもの」

 目の焦点が合っていない。

 何とか正気を取り戻すように、エルセは彼女の肩を強く揺さぶった。

「今の私は、魔族です。魔力しかない私には、瘴気を根本から浄化するほど強大な力はありません」

 ユリの瞳が呆然と見開いた。

「あなたにしかできないことです。ユリさん、どうかお願いします」

 人々を救えるのは彼女しかいない。

 祈るような気持ちでいると、ユリはエルセの手を振り払った。

「できないってば! 私はエルシア様みたいにはなれない! だって、偽の聖女って評判が立っても、エルシア様の人気は衰えなかった! 今じゃ国中の人が言ってる! ――偽物は、私の方だったんじゃないかって!!」

 ユリの訴えに、エルセは言葉を失った。

 そんな話、誰からも聞いたことがない。

 エルセが知っている噂は、どちらも本物の聖女だったというもののみ。グレンダもそう言っていた。

「そんなことない……」

「言ってるのよ! みんなが陰で罵ってるの、私は知ってるんだから!」

 荒んだ目で言い捨てた直後、ユリは途端に勢いをなくした。

「ねぇ……何でこんなことになるの? 他の聖女の時みたいに、何も起こらなければよかった。そうしたら、私は何もできないって知らずに済んだのに」

 彼女の心の痛みが、無力を嘆くことしかできない自分のものと重なる。

「私って、この国を救うために異世界に来たの? 家族や友達を置いて? 何が聖女よ。本当に天界で聖人として暮らしているなら、助けてくれたっていいじゃない。そもそも、あの時のフロイシス様の宣言からして、不自然だったわ……」

 ほとんど支離滅裂だ。

 けれど、あの時のフロイシスの宣言、というのが何のことかは分かる。 

『異なる世界の少女がやって来るなど、本来ならばあり得ないこと。それはつまり、唯一神のみになせる御業。ユリは、神がもたらした奇跡以外のなにものでもない』。

 あれは、ユリの立場を確固たるものにするための発言だったはずだ。

 彼女に想いを寄せていたフロイシスにとってはどんな方便であろうと構わなかっただろうし、実際当時のエルシアもあの主張は正しかったと納得している。ただの方便だったとは微塵も思っていない。

 なのに、何が不自然だったというのか。

「公の場で、あんな考えなしな発言をする人じゃない。今だからおかしいって分かるの。あれじゃまるで、エルシア様を陥れようとしていたみたい……」

「――」

 ユリは、それを不安がっていたのか。

 あの当時、彼の発言は瞬く間に浸透していき、彼女は『唯一神の愛し子』と呼ばれるようになった。

 流れは当然にしても、噂の広がり方はあまりに早かったと言える。

「私は一生、エルシア様に追いつけない。後ろめたさは一生なくならない。こんなの、聖女なんかじゃない……」

 ユリの憂いは分かった。理解できる。

 けれどエルセの中にふつふつと込み上げるのは、怒りだった。

 決して無力じゃない。この状況を何とかできる力を持っているのに。

「……いい加減にせい!!」

 ユリの居室にエルセの怒声が轟いた。

 彼女はポカンとしているけれど、どうにも止められそうにない。

「できるかできないかの問題じゃねぇ! ――死に物狂いで、やらねばいかん!!」

 荒い呼吸が、静かな部屋に響く。

 落ち着きを取り戻すにつれ、エルセは徐々に冷や汗が止まらなくなった。

 勢い余って敬語が吹き飛んだ。

 代わりに、エルセの故郷の方言が顔を出した。何てことだ。

 しばらくの沈黙の末、ユリが弾けるように笑い出した。

「嘘でしょ! そ、そんな綺麗な顔で訛るとか……ギャップが……! あ、もしかしてずっと敬語を使ってた理由ってこれ!? 私てっきり、嫌われてるとばかり……」

「嫌ってないです。嫌ってはないですが、今はそんなことを話してる場合じゃありません。神殿には救いを求める人が大勢集まってるんですから」

 笑うなら、あとで思う存分笑えばいい。

 誤解をさせていたようだし、その時は甘んじて受けよう。とにかく時間が惜しい。

 手を握ると、彼女もギュッと握り返してきた。その手はもう震えていない。 

「……うん、そうよね。何だか、肩の力が抜けた気分」

 ユリは深呼吸をすると、いたずらっぽく目を細めた。

「私達って、話さなきゃいけないことがまだいっぱいあると思わない?」

「はい。全てが終わったら、その時には」

「あの時は、二度と来ないでなんて言ってごめんなさい。……エルセ。また、会いに来てくれる?」

 ほんの少し臆病さの覗く問いに、エルセは笑みを返した。

「――もちろんです、ユリ」

 敵対する聖女同士でなく、将来の王妃と魔王の娘としてでもなく。

 ただの、対等な友人として。




 

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