第19話 はじまる
ステンドグラスから差し込む瑠璃色の光が、少女の白い簡素なドレスを染め上げていく。その周囲に敷き詰められた白い花も。
装飾の少ない棺の蓋は硝子製で、眠る彼女の姿がよく見えた。
どこにでもいそうな茶色の髪。永遠に開くことはないけれど、瞳の色は緑色だった。
エルシア・フォードは以前に見た時と変わらず、綺麗なままで横たわっている。
それをじっと凝視していたエルセは、肩を落としてため息をつく。
前世の自分とどんなに向き合ってみても、ティリクへの疑惑を晴らす糸口など見つからない。分かっていたことだけれど、今日の参拝は無意味だった。
――やっぱり、思い出せない……。
エルセに似た人を忘れられないと聞いた時、それがエルシア・フォードである可能性を真っ先に否定したのは、彼に全く覚えがなかったからなのだ。
あれほど鮮烈な容貌なら、一目見ただけで忘れられない。その結論が覆らないのなら、やはり前提条件から見直すべきか。
たとえば、昔は全く異なる容姿だった。元天族ならば姿を変えるくらいできそうだ。
だがその場合、なぜそのままの姿でエルシアと会えなかったのかという新たな疑問が生じてしまう。
あとは、エルセの記憶に穴がある可能性。
エルシア・フォードの記憶は、幼い頃のものから大体を覚えている。
それは、一般的に人が記憶している容量と大差ないだろう。興味のあったこと、より印象に残っていることは鮮明に思い出せる。
――だからこそ、ティリク先生のことも忘れるはずないと思うんだけど……あの綺麗な顔をぼんやりとも覚えてないなんて、そんなことある……?
祭壇に跪いたまま考え込んでいると、順番を待つ後方から迷惑そうな声が上がった。
「お嬢さん、あとがつかえているんだが」
「あ、すみません」
行列の先頭にいることを忘れていた。
慌てて立ち上がろうとしたが、咄嗟のことで足に力が入らない。
エルセはよろめいて転びそうになったが、誰かが腕をしっかりと支えた。
一瞬、ティリクの顔が浮かぶ。
けれどそこにあったのは、彼とは似ても似つかない不機嫌そうな顔で。
「鈍臭いな、何やってんだよ」
「あ、アリオさん……」
褐色の肌に精悍な顔立ちの青年、アリオの姿がそこにあった。
そのまま自然と聖堂の外に誘導され、ホッと一息つく。
側廊は、神殿の庭に通じている。
夏のギラギラと強い日差しが途端に勢いを取り戻した。緑の多い中庭は時間帯のためか誰もいない。
「そんで何してたんだ、こんなとこで?」
アリオが、エルセの腕を離しながら怪訝げに訊ねる。
答えに詰まったのは、彼に詳細を話していないためだ。エルシア・フォードとの繋がりには勘付かれているが、エルセについては名前以外何一つ打ち明けていない。
口籠るエルセを見下ろし、彼は鼻で笑う。
「もしかして、自分の顔を眺めに来たのか? 意外に自己愛強いんだな」
「なっ……」
ひどい誤解に絶句してしまう。
五年が経過し、大人の体格となった知り合い見下ろされるのは当然のことなのに、彼が相手だと何となく釈然としない。馬鹿にされているからか。
「あなたこそ、なぜ聖堂にいるんですか?」
月命日は過ぎているし、アリオは神殿に足繁く通うほど信心深くもなかったはずだ。
「神殿はうちのお得意様なんでね、発注された備品類を納品に来たんだよ。聖堂に寄ったのはついで」
そういえば、神殿と取引をしていたのは昔からプレーリオ商会だった。
エルシア時代、彼と神殿で会ったことはただの一度もないので、出入りするようになったのはここ最近なのだろう。
自分の商会も持っているのに、こういった下働きのような仕事を未だに引き受けているというのは意外だ。
「で、本当はどうなんだよ。今日はやけに思い詰めた顔してるじゃねぇか?」
成り行きで一緒にいるだけなのに、アリオは的確に痛いところを突いてくる。
彼に話す必要はない。だが、誰かに話を聞いてほしいという気持ちもある。
「……偶然でも、会えてよかったかもしれません。また、アリオさんとお話したいなと、思ってたので」
「は?」
「ちょっと、相談したいことがあるんです。一人で考えるのも限界があって」
「あぁ……そういうこと」
アリオはやけに疲れた顔で、癖のあるダークブロンドを掻き上げた。
「あんた、昔から友達いなかったもんね」
「皆無ではなく、少しくらいいました! と、思います……けど……」
「そういう後ろ向き、もういいから。特別に無料で聞いてやるから、ウジウジせずにサクッと話して」
本当に口を開けば嫌みしか言わないけれど、無料という点を考慮すれば優しくしてもらえているのだろう。
時間延長で有料になってしまう前に、さっさと話した方がいい。
「その、エルシア・フォードだった時に会った覚えはないのに、相手はこちらを知っている。……なんてことがあり得ますかね?」
こんな質問をすれば、ますますエルセの正体を不審がられるだけだろう。
もしそこを追及されたら、ここまで話したのだし正直に打ち明けよう。
そのくらいの覚悟を決めていたのに、アリオはしばらく考えたあとに人を食った笑みを浮かべた。
「物陰から聖女様をじーっと見つめてたとか? まぁ、その場合確実に変態か犯罪者だと思うけど」
エルセはつい半眼になってしまった。
「それ、ほぼ同じ意味合いですよね」
「アホだな。変態は人に迷惑をかけなきゃ、ただの善良な変態なんだよ」
「善良な変態って……」
本当にエルシア・フォードを物陰から見つめていたなら、それは実害があったとは言えないのか。
何の参考にもならなかったと遠い目になるエルセに、彼は腹を抱えて笑った。
「もしかして、未だにその変態に付きまとわれてるのか? あんたって運悪いよなぁ」
「全然面白くないですよ……」
というか、ティリクが変態だなんて失礼すぎる。彼は素敵な人だ。
金色の目映い髪も、澄んだ青い瞳も、雑踏に紛れていようとすぐに見つけられる。
なぜなら、周囲の人々も彼に見惚れて遠巻きになってしまうから――。
「……んん?」
遠く側廊で、どよめきが起こっている。
よく見るとその中心に、思い描いていた姿があった。そしてそれは迷いのない足取りで近付いてくる。
「ティリク先生……」
「遅いから迎えに来た。もう用事は済んだはずだ。エルセ、帰ろう」
遅いといってもまだ日が落ちるような時間ではないし、出かけてから二時間程度しか経っていないはずだ。
エルセは頭が痛くなってきた。
「先生、またついて来てたんですね……?」
用事が済んだことを確信している辺りが、特に怪しい。何なら医院を出たところからずっと尾行されていたかもしれない。
黙秘するティリクに代わり声を上げたのは、苦しそうに笑い続けるアリオだった。
「ハハハッ、やっぱ付きまとわれてんじゃん! これがさっきの話の奴なんだろ? 一人で出かけさせてもくれねぇとか、明らかに束縛強めじゃん。あんた絶対苦労するな」
ティリクは腕を組んでアリオを睨んだ。
「何なんだ君は。初対面の相手に対し、失礼にもほどがあるぞ」
「失礼とかあんたが言ったって説得力ねぇっての! たとえ付き合ってても、ずっと張り付いてるなんて異常だから!」
不機嫌そうなティリクの背中を、アリオが遠慮のない力で叩いた。
何となくゾフとのやり取りを彷彿とさせるのは、ティリクの近寄りがたい雰囲気をものともしないからだろうか。彼も精神が強い。
「なぜただ側にいるだけで、誰も彼もが付き合っていると決め付けるんだ? 君のような人間全員に言って回りたいんだが、私は単に彼女のためだけに生きているだけだ。それの何がいけない?」
「付き合ってないのにそれかよ!? 何がいけないって全部がヤバい! むしろヤバみを念押ししてるだけだから!」
あー面白いとアリオは涙まで拭っているけれど、エルセは全然面白くない。逃げたい。
遠い目をすると、小鳥が空を飛んでいた。
現実逃避にうってつけで軌道を目で追いかけていると、その小鳥は突然鳴いた。まるで警告を促すように、高く長々と。
その後訪れたのは、耳が痛くなるような静寂。騒がしい言い合いも終わっていた。
「大気の気配が……変わった」
ティリクの声音はやけに深刻だ。
「それって……」
エルセが訊き返そうとしたところで、聖堂の方から悲鳴が上がった。
そちらを見れば、拝礼に訪れていた人々が遠くの山を指差している。
山が頂上から、少しずつ変色していく――いや、枯れているのだ。
ついに、はじまる。
立ち尽くすエルセだったが、ティリクが肩に手を置いたことで我に返った。
「先生……」
「結界を張る。エルセ、医院に戻ろう。あの中ならば何かあった時も安心だ」
彼が安心と言い切るなら、おそらく医院には結界でも張ってあるのだろう。
エルセは厚意を無下にすることを申し訳なく感じながらも、首を振った。
「先生は戻ってください。私は……ユリさんのところに行ってみます」
断られると思っていなかったらしく、ティリクは無防備に目を見開いた。
「すみません、やっぱり気がかりで。魔物の大発生が起こるって、私はちゃんと伝えられなかった」
既に彼女が浄化をはじめているならそれでいい。ただ、確認だけはしておきたかった。
予想通りというか、ティリクは顔を険しくして反対する。
「駄目だ。結界を張るから、私はあの場を離れられない。君も動物達が心配だろう?」
「心配だけど、あの中なら安心だと言ったのは先生ですよね?」
そのまま返すと、彼は悔しそうに黙り込む。もう一息といったところか。
「先生。私が先生の側にいたって、残念だけど役には立てません。でも私だって、何かできることがしたい。今はこの危機を乗り越えるために、お互い力を尽くしましょう」
ティリクは答えない。
その沈黙を縫うようにして、アリオが話に割って入った。
「おい、話が見えねぇ。一体何が起こってる? あんたらはそれを知ってるのか?」
彼にどう説明すべきか。
考える時間さえ惜しく、エルセは真正面から向き合うと彼の両腕をがっしりと掴んだ。
「アリオさん。詳しい説明は後日しますが、これから街には魔物が現れ混乱するでしょう。けれどきっとこの試練を乗り越えられる。――そう、信じてくださいますか?」
助けなければならない命がある。誰かが動かなければ守れ無いものがある。
差し迫った状況におかれた時、エルセは普段の気弱を脱ぎ捨てる。
救うため。それしか考えられなくなる。
淡い紫の瞳が鮮烈に輝き出せば、強い覚悟の前に誰もが屈するしかない。
「……何か俺にできることは?」
アリオはそれ以上の詮索をやめた。
問い質すのを諦めたのは、時間がないことを察したからだろう。腹を据え迅速に動こうとする姿はとても頼もしい。
「できれば怪我人の保護と、街の人同士で衝突が起きないようにしてほしいんですが」
「うちを何だと思ってる。物資も人材も、うなるほどあるんだぜ?」
さすがプレーリオ商会を動かす側の人間。
不敵な笑みが大団円を引き寄せてくれるように感じる。
「あなたがいればきっと大丈夫だと、みなさん希望を捨てずにいられるでしょう」
「あんたは、大丈夫なんだな?」
「――はい」
大丈夫かどうかなんて分からなくても、うまく笑えなくても、強気に頷くのだ。
躊躇いや迷いは必要ない。
アリオは束の間もどかしげな顔をしたが、おもむろにエルセの頭を叩いた。
「まぁ、そこの犯罪スレスレ野郎に、せいぜい気張って助けてもらえ」
彼らしい皮肉っぽい激励に、エルセは今度こそ笑った。
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