安楽章第3節「叶わぬ夢を語るひととき」

『マーメイド・バブル』で食事を済ませたセツナとイヴは、帰り道を歩いていた。あの後、ポポはセツナに積もる話を聞かせようとしていたが、さっさと出てきてしまった。あまり思い出話は好きではないし、ポポのことを励ましてあげられるほど出来た人間でもない。元より、セツナは無愛想な人間だ。他人と必要以上に親しくなることはしない。

「ねぇ、また食べに来る?」

 反して、イヴはすっかりダイナーを気に入った様子だった。

 セツナもダイナーには世話になった以上、あれこれと文句を言うのは気が引ける。

「気が向いたらね」

「やった」

 珍しく素直に頷いてくれたセツナに、嬉しそうに跳ねるイヴ。イヴはもっとポポと話をしたがっているようだが、その願いは叶わないだろう。

 現実問題として、そう何度もダイナーに顔を出していてはポポにとって負担になるだろう。料理を要求するのはもってのほか。イヴを連れて行ったのが初めてであったことと、ポポに心配をかけたことへの償いの意味を兼ねての今回だ。それを何度も繰り返すのは違う。

 あまり考えたくはないが、母親のルルが失踪して次にポポがいなくなるのも時間の問題だ。少なくとも、セツナはその現実に直面したいとは思わない。それが、彼女が必要以上にダイナーに留まらなかった理由の一つでもある。そう言えば、体の良い言い訳にはなる。

 そう。結局、彼女が人と距離を置きたがるのは孤独に怯えているからに他ならない。いつかなくなってしまう関係を続けていても、心に傷を抱えるだけ。しかも、その傷はすぐには痛みを感じず、傷に気づいた時に初めて痛み出すのだ。そして、その時というのは決まって別れた後に陥る。

 歩道橋を登るイヴの後に続いてセツナも階段に足をかける。歩道橋を渡る意味はなく、大通りを横切れば済む。ただ、イヴが高いところを歩きたいがために通っている。

 セツナは、イヴともいつの日か別れることを確信していた。イヴの言う通りにするのは、決してその思い出作りではない。

 イヴの正体を知っているセツナは、できる限りイヴの機嫌を取らなくてはいけないのだ。イヴが真実を知って、世界を危険に晒す脅威にならないように。何も知らない内の彼女を殺せば済むことだが、セツナにはそれができなかった。

 だから責任を持って面倒を見る。あれだけ他人との親交を避けてきたセツナが、子どもを育てる。

 その中で、彼女は自分を見つめ直すことになった。なぜなら、イヴはセツナの生き写しだから。

「ねぇ、恋って何だと思う?」

「急になに?」

 歩道橋をゆっくりとしたスピードで進んでいたイヴは、セツナに唐突な質問を投げかけた。

「本で読んだの。男の人と女の人が恋に落ちるんだって。でも、わたしは恋したことがないからよく分からなくて」

 セツナとイヴは記憶を共有しないが知識を共有する。その共有も欠如したものではあるが、文字を読むことはできた。当然、幼い頃のセツナがそうだったように難しい漢字は読めず、間違った読み方を同じようにする。例えば、喫茶店をきっちゃてんと読むのは、幼い頃のセツナと全く同じ。

 そんな知識を用いて、イヴは本を読んでいた。基本的にセツナは彼女の性格もあって多くを語りたがらない。そこで必然的に、イヴは町の図書館にある本を読むようになったのだ。

 おそらく、恋についても本の中から学んだのだろう。

「恋は、その人とならずっと一緒にいたい、その人の為なら何でもしてあげられるって思えることよ」

「へぇ」

 納得したふうに頷いて見せるイヴ。当然と言うべきか、イヴが抱えた疑問は幼いセツナが抱えていた疑問でもある。それに答えられるのは本人ならば当たり前。

 だが、セツナとイヴは同一人物ではない。親と子の意見が食い違うことと同じように、時にセツナには考えもつかないようなことに気づくことがある。

「じゃあ私たちって恋してる?」

「は?」

 それは幼さゆえの気づきか。

 はたまた、ただの勘違いか。

「だって、わたしたちはずっと一緒だし、あなたの為だったら何だってしてあげるし。セツナはどう?」

 人差し指と中指を立てて、歩道橋の手すりを歩かせるイヴ。彼女は自分がセツナに恋をしていると打ち明けるが、セツナは彼女の言葉に取り合おうとしなかった。

「……これは恋じゃない」

「うーん…………」

 否定されてなお、深く悩み続けるイヴ。どこまでも素直で、どこまでも愚直。まるで、小さい頃の自分を見ているような錯覚。

「その内分かるようになる。きっとね」

 しかし、それは錯覚であって事実ではない。

 二人の間にある奇妙な結びつきの正体が何であるか。セツナはよく知っているからこそ、イヴの言う恋を否定した。彼女が恋を経験することなんて、万が一にもあり得ないことなのだ。

「じゃあわたしたちが恋をしてないなら、ずっと一緒にいられないの?」

 一緒にはいられない。

「……うん。私たちはずっと一緒にはいられない」

 頭の中で言葉を反芻し、セツナは事実だけを探る。錯覚でない、事実だけを手繰り寄せて。

「そっか」

 セツナの言葉を真に受けたイヴは、がっくしと肩を落とす。

 そんな彼女を慰めることも励ますことも、セツナにはできない。二人は親子であって親子ではない。

 しかしだからこそ、セツナはその錯覚を保つ必要があった。

「でもね、恋人同士じゃなかったら一緒にいちゃいけないわけじゃない。家族や友達も一緒にいるもの。だから、私はあなたのそばから離れたりはしない」

「本当?」

 立ち止まって俯いていたイヴがようやく顔を上げる。彼女の表情はまさに、孤独に怯える少女そのものだった。

「うん。だから約束してくれる? あなたも私から離れないって」

 その言葉が本心から来るものだったのか。

 その言葉は本心を騙すためのものだったのか。

「うん! もちろんだよ」

 頷くイヴに微笑みかけ、セツナはぎこちなく手を伸ばす。

 錯覚を事実とすり替えるための────────目に見えるものが事実であると確かめるための手。


 その手はイヴの頭を優しく撫でた。


 彼女が唯一、誰かから触れられる瞬間────イヴはそれが大好きだった。


 彼女には恋人がいない。友達がいない。真の親もいない。いてはいけない。だから、セツナは彼女の居場所であり続けなければいけない。

「さ、帰ろう」


 彼女が自分の居場所を見つけてしまった時、二人は一緒にはいられなくなる。


「でもさぁ、やっぱりわたしはあなたが好きだし、これって恋と同じ気持ちだと思うんだけど」

 二人の繋がりは恋ではない。

「違うよ」


 セツナが魔界との間に授かった忌まわしい繋がり。

 真実を知ればいずれ、世界を冒す死神になる。

 だから、彼女は知るべきではない。


「変なの」




 自分が魔界から生まれた、忌まわしい子どもであることを。




 イヴはセツナとしか話すことができず、認識されることもない。唯一自分の存在を認めてくれる相手は、誰でもない親であることは至極当然の事実である。だがもし、イヴがセツナを母であると認識しなかった場合、彼女が初恋の相手になる可能性も十分にある。

 では、に置き換えたらどうだろうか。二人はお互いに血を分け合った存在であることを知る由もない。そんな彼らが出会って恋に落ちる────なんてことも、まかり間違えばあり得るのかもしれない。

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