安楽章第2節「叶わぬ夢を語るひととき」

『マーメイド・バブル』。アトランティスの長閑な景観に馴染んだそのダイナーは、老若男女が利用する老舗店である。一般人だけでなく保安官やお忍びのシスター、輸送トラックの運転手など幅広い客層が集うのが特徴と言えるだろう。もちろん、セツナも例に漏れずダイナーでは常連客の一人だった。

 しかし、パラダイムシフトが発生しイヴを妊娠してからはパッタリと足を運ばなくなっていた。まさかそのイヴと訪れることになるとは思いもしなかっただろう。

 もともと、『マーメイド・バブル』は特段有名店というわけでもなく、人魚の涙をモチーフにした看板も既にボロボロ。経営難に直面する寂れた店と思われてもおかしくないほどだった。それでもそこに人が集まるのは、ダイナーの女将であるルルの人情とその娘ポポの愛嬌によるところが大きい。ルルとポポの親子が経営するダイナーが提供する料理は特徴がなく味気ないと感じるかもしれないが、老舗ならではの根強い活気が常に店を賑わせていた。

 パラダイムシフトはそんな賑わいにも黒い影を落としていたが、それを完全に拭い去ることはできなかったようだ。

 セツナが店内に入ると、カウンター席とテーブル席には老人や若者らがバラけて座っていた。その誰もがくたびれた様子で、料理が盛られていたであろう皿には汚れが固まり切っていた。

「セツナ……?」

 カウンターに突っ伏しながら若い客と話していた少女は、顔を上げて呟いた。信じられないものを見るかのように目をパチクリさせ、彼女はカウンターの内側から出てくると、セツナの前に立つ。

「ちょっとセツナ! 大丈夫だったの? ここ最近めっきり来なくなったから心配してたんだよ?」

 うす汚れたエプロン姿の少女の名前はポポ。『マーメイド・バブル』の看板娘だ。

「ごめん。色々あってさ……そっちは?」

 セツナとポポはそれほど仲が良かったわけではない。ただ、ポポに対して無愛想な客はセツナくらいしかおらず、悪い意味で目立っていたのだ。それから二人は奇妙ながらも親しい間柄になっていた。

 久しぶりに顔を見ると、なんだかんだと言ってセツナも安堵する。彼女が無事かそうでないかは正直関係のないことだが、いなければいないで夢見が悪いことに変わりはない。ポポの安否を確かめるのが怖かったのも、セツナがダイナーに足を運ばなかった理由の一つでもあった。

 そんな彼女の悪い予感は、残念ながら当たってもいた。

「ママがいなくなったよ。最近ね」

 ポポは母のことを思い出し、目を伏せて話す。辛いことを思い出させてしまったかもしれない。

「そう……残念ね」

 ダイナーを経営していたのはポポとルルの親子二人だったが、その実ポポは手伝いに過ぎない。店の経営のほとんどはポポの母親ルルの手腕に他ならない。そのルルが失踪してしまったからこそ、今の店の状況があるのだろう。

 店内にはまだ十数人の人が残っているが、とても賑わっている様子とは言えない。おそらく、ルルがいた頃はもう少し明るかったはずだ。セツナが知る彼女は、少なくとも弱音を吐く人物ではなかった。客に対しても、きっと喝を入れてくれていたはずだ。だからこそ、これだけの人数がダイナーには集まっているのだと、セツナは信じたい一心だった。

「はじめは怖かったけど、今はみんながいるからそうでもない。みんな店のことを手伝ってくれてるし、なんとかなってる」

 ポポが語る通り、幸いにも争いごとが起きるような事態には発展していないらしい。状況が状況なだけに店の食料を狙った強盗が現れてもおかしくはない。それがないのは、やはりダイナーを愛する常連客の存在が大きいだろう。

 母を失ったポポも、おそらくはかなり救われているはずだ。

「何か食べる? 卵くらいならすぐに焼けるよ」

 相変わらずの愛想笑い。セツナにはそれが無理に作ったものに見えたが、それを指摘するのは失礼というもの。せっかくダイナーに顔を見せたこともあって、彼女は素直に甘えることにした。

「お願い」

「おっけー。空いてる席に座って待ってて?」

 セツナの気遣いに反して、ポポはどこか楽しげに厨房へ向かう。久しぶりのお客さんに振る舞う料理。たとえ厳しい状況下でも、どれだけ質素なものでも、やはり腕が鳴るものなのだろうか。

 セツナはカウンター席ではなく窓際に沿って進み、奥から二番目のテーブル席へ座る。いつも彼女が座るのは窓際の一番奥だが、そこには既に誰かが座っていた。彼は眠っている様子で、机には食べかけのパンの他に空の酒瓶が倒れている。

 いつもは陽気な曲を垂れ流しているジュークボックスも動いておらず、ひっそりと静まり返った店内。席に腰掛けたセツナは、窓際から外を見やる。

 外はまだ灰の雨が降っているが、先ほどと比べると勢いは弱くなったように感じる。とはいえ、出歩いている人影はない。灰が降っている中を好んで出歩く住人はセツナ以外、ほとんどいないだろう。だから、店内の客の内の何人かはずっとセツナに不審な視線を注いでいた。

 妙な居心地の悪さに腰を深く座り直す、その時だった。

「お嬢さん」

 トントン、と肩を叩かれる。

 背後を振り向くと、肩を叩いていたのは自身の黒い手帳。それを持つ皺だらけの手は、奥から三番目のテーブル席に座っていた老人のものだった。

「こいつを落とさなかったか?」

 彼────アンソニー・アストレアは、セツナが席につく前に落としていた黒い手帳を拾っていた。セツナは彼から手帳を受け取ってから、ぎこちなく礼を言う。

「……どうも」

 それだけ言って、セツナはすぐに自分のテーブルに向き直った。アンソニーとセツナはお互いに面識を持たない。だからこそ、アンソニーは見覚えのない彼女が何者であるかを思い出そうとしていた。

 セツナは受け取った手帳をペラペラとめくってからポケットへとしまう。手帳にはレミューリア神話に関する記述の他にイヴとの生活を書き留めた日記が綴られている。その中身を、彼は見たのだろうか。もし見たとしたら変わった人だと思われただろう。

 とはいえ、考えても埒が明かない。考えることをやめると、対面に座っていたイヴと目が合う。ポポが持ってきてくれるだろう料理を楽しみにしているらしい。落ち着かない様子のイヴを見かね、セツナは今一度ため息を吐く。すると、

「お嬢さん、一人かい?」

 背中を向き合わせたままで、アンソニーはセツナに声をかけてきた。

 なぜそんなことを聞くのか。この間、セツナはイヴと言葉を交わしていない。であれば、やはり手帳の中身を見たのだろうか。浮かび上がる複数の懸念に、セツナはなんと返すべきかを考える。だが沈黙が正解でないことだけはすぐに分かった。

「……どう思う?」

 咄嗟に出た言葉は不安定で、声も少し震えていただろう。それをどう捉えられるか、セツナには分からない。まして、お互いの表情も見えない状況だ。

 しかし、背後の席から聞こえてきたのはしゃがれた笑い声だった。

「はっはっはっ、俺も若い頃なら謎かけに付き合ってやれたんだがな」

 彼の反応から、まだ何かを読み取ることはできない。ただ冗談で言っているのかそうでないか、セツナは彼と繋がった緊張の糸を慎重に爪弾く。

「おじさんは一人?」

 対して、アンソニーは「あぁ」と肯定する。が、すぐにこう続けた。

「だがそうだと言い切ることもできん。いいかお嬢さん、真の孤独ってのは生きている限りは絶対に訪れ得ない。生きとし生けるものはこの大地という鳥籠に囚われ、その鳥籠から出て……真の孤独と、自由を得られるのは死ぬ時だけ」

「……」

 セツナは背中を向け合ったまま、アンソニーの声に耳を傾ける。

「この町の鳥籠は今、開け放たれていて……いつでも外へ出ることができる。だが、気をつけたほうがいい。向こう側に連れて行かれねぇようにな。向こう側の連中を心に思い描いた時には既に、もう取り憑かれちまう。生きたまま、二度と帰っては来れんぞ」

 アンソニーが言わんとしていることを、セツナは噛み砕こうとする。彼の言葉の裏に隠された真意を読み取ろうとして。そうする内、彼女はついに自分自身とを重ね合わせて考えた。

 しかし、彼の真意は思っていたよりも身近で予想外なことを示していた。

「俺が飼ってた鳥はもう逃げちまったんだ。あいつが鳥籠にいるまでは、俺もあのアトリエから出るつもりもなかったんだけどな」

 そう。彼は一匹の小鳥を飼っていたという。その小鳥が鳥籠を開けて逃げてしまい、孤独になった彼はダイナーへやってきたのだろう。

 セツナは後ろを振り返ろうとして、やめる。聞きたかったことを飲み込み、ぽつりと慰めの言葉をかけた。

「お気の毒に」

「お前さんは聞き上手だな。俺の話をまともに聞いてくれるなんて久しぶりだよ」

 アンソニーは満足げな表情を浮かべる。セツナからは見えずとも、その声色は確かに彼女の心を揺さぶっていた。

「なんでかな……」

 セツナは先ほどまで彼の真意を探ろうとしていた自分を思い返し、思わず首を傾げる。と、目の前に座っているイヴはセツナ越しにアンソニーの背中を見て言った。

「あのおじさん、すごくいい人そう」

 率直な感想はイヴの感想。だがセツナには、それがイヴだけの感想だと割り切ることができなかった。

 セツナの子どもであるイヴは、まさに彼女の写し鏡。セツナ自身が幼かった頃の物事の見方と同じ見方をする。それはつまり、彼女が幼い頃にしてきたこと────正しいことも間違いも────全てを繰り返す。

 考え過ぎかもしれないが、アンソニーの話は彼が飼育していた小鳥のことだけを指しているとは到底思うことができなかった。

「お待たせ!」

 卵を焼き終わったらしいポポが、大きな皿を片手にやってくる。そんな光景を見たのもいつぶりだろうか。

 テーブルに置かれた皿には食パンと目玉焼き、ベーコンの切れ端が申し訳程度に添えられている。もちろん、ここまで粗雑なレシピはメニューに載っていないが、自分たちが置かれている現状を考えれば十分に贅沢な部類に入るだろう。

「わぁ……すごい! これどうなってるの?」

 中でも対面に座るイヴが興奮したのは、目玉焼きの黄身が二つある双子だったことだ。

「セツナってば運がいいね。双子の卵が出たら、ママはチップを要求するけど私はそんなことしないからね」

 双子の卵。

 セツナとイヴ。

 彼女は久しぶりの料理を味わって食べた。お腹の子も、たっぷり味わえるように。

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