安楽章「叶わぬ夢を語るひととき」

安楽章第1節「叶わぬ夢を語るひととき」

 世界がこうなってしまってから、いったいどれだけの時間が経っただろう。

 パラダイムシフトが発生したあの日から、アトランティスには夜が訪れなくなった。大抵の人は暗闇や闇夜に対して少なからず、得も言われぬ恐怖を抱くもの。しかし今となっては、その闇が恋しくさえ感じる。

 現在のアトランティスは黒い太陽に照らし出され、闇とはかけ離れた状況だ。だが、町を包む静けさに平穏や安寧といったものは感じられなかった。

 一人、また一人と相次いで住人が失踪するという怪異現象が町に混乱をもたらしたのも最初だけだった。それは決して人々が怪異に慣れたからではない。得体の知れない超常現象に怯える人々はいつしか姿を消し、残された者の殆どは希望を見失っていたのだ。

 しかし。

 たった一人。

 彼女だけは違った。

「……どうして掴めないのかなぁ」

 灰の雨が降りしきる町中で、少女は楽しげに道を歩いていた。両手を空へかざし、降ってくる灰を掴もうとする。少女の手に触れた灰はすぐに溶けてしまい、生暖かい感触だけを残す。

 そうして手のひらを見つめてしょんぼりとするイヴの後から、もう一人の少女が歩み寄る。

「どうしても」

 セツナは、イヴから目を外して空を見上げた。彼女の黒髪にも灰が付着していて、頬に触れる度にくすぐったそうに眉をひそめる。

「雪っていうのに似てるんだ」

「雪?」

 ふとそう呟いたセツナにおうむ返しするイヴ。

「そう。水が凍ったものが空から降ってきて、道に積もるの。たくさんね」

「へぇ」

 イヴは雪というものを生まれてから一度も見たことがない。雪といえば、道に白いカーペットを敷いたような雪景色が印象的だが、二人が見ている景色は似て非なるもの。彼女達の頭上から降ってくる灰は、道に落ちてもすぐに溶けて消えてしまうのだ。

 セツナの話を聞きながら、イヴは不思議そうに周囲を見回す。彼女の目に何が思い描かれているのか、セツナには分からない。もしかすると、セツナが知る雪景色とはまったく異なる景色を想像しているかもしれない。

「雪が降った日には、積もった雪を使って雪だるまを作ったり、雪で作ったボールを投げ合ったりするの。雪合戦ってね」

 話しながら歩き出すセツナに、イヴも置いて行かれないように足早に近寄る。

「雪合戦? なんだかとっても楽しそう」

 もちろん、イヴは雪合戦というものを知る由もない。それでも彼女が興味を示したのは、単に言葉の響きが心地よかったからだろう。セツナが幼かった頃にも、そうやって言葉を覚えてきた。時に、人はそれを馬鹿の一つ覚えと呼ぶのだが。

「でも、これは雪とは違う」

 いくらセツナが雪のことを説明して、雪合戦という遊びを教えても実際にすることはできない。そもそも、話を聞いたイヴが想像するものが正しいとも限らない。

 なぜなら、彼女たちの頭上から降るそれは、雪ではなく灰だからだ。

「じゃあこれって何?」

 問いかけに、セツナは大して悩む素振りを見せず淡白に言う。

「さぁね」

 セツナはマフラーをして口元を埋めているため、イヴから見た横顔で表情を探ることはできない。昔の世界のことを話してくれるセツナはいつもそうだった。彼女はどこか遠くを見つめ、朧げに見える文字を淡々と読み上げるような────そんな、曖昧で幽かな響き。

 イヴは、セツナが見ているその景色を見ようと想像するのが好きだった。

「んー……」

 尤も、それが灰であると答えたところで、「灰ってなに?」とイタチごっこになるのは目に見えている。セツナ自身、その灰が何であるかについては正直よく分かっていない。彼女の数少ない友人であるマルグリット・グランチェスターは、魔力の残滓ざんしか何かだと推察していたが、確証があるわけでもない。

 そんなことを考えていると、後ろからセツナを呼ぶ声がする。隣を歩いていたはずのイヴは、いつの間にか背後にいたらしい。呼ばれるまま振り向くと、イヴは握り込んだ拳を開いて振りかぶっていた。

「えいっ!」

 イヴの手のひらには少しの灰が積もっていて、わずかではあるがその形を保っていた。それはイヴの手のひらを離れると瞬く間に空気中に溶けてしまい、セツナに届くこともない。おそらく、話に聞いた雪合戦の真似をしようとして、頑張って灰を集めたのだろう。セツナからすればあまりにも虚しい出来事だったが、イヴは心の底から楽しそうに微笑んでいた。

「えへへ、雪合戦ってこんな感じ?」

 セツナは、イヴに何と言葉をかければいいか分からなかった。いや、いつもの彼女なら冷たく突っぱねるところだったはずだ。それを思い留まり、しばしの間黙りこくる。まるで鳩が豆鉄砲を食ったような彼女の状態に首を傾げたイヴ。そして、セツナは逡巡から我に返ると深いため息を吐いた。

「ほら行くよ」

 踵を返すセツナの背中を見て、イヴは少しだけ肩を落とす。彼女は心の中で反省する間もなく、再びセツナの隣へ急ぐ。そこまできて、二人の間には気まずい空気が流れていた。

 きっと自分が考えていた雪合戦と、本物の雪合戦は違うものだったのだ。だからセツナをガッカリさせてしまった。とはいえ、これでイヴが懲りることもない。むしろ、彼女は前向きに考えるように努めていた。

 いつか、本物の雪合戦ができるといいな────と。

 こうして二人で肩を並べ、同じ道を歩き続ける限りきっと叶うはず。

 彼女がイヴに語り継いだ景色は、この道の先にはきっとある。

 そう信じて気を持ち直したイヴはふと問いかけた。

「そういえばどこに行くの?」

「秘密」

 間髪入れずに返すセツナ。

「むぅ、セツナってケチだよね」

 思い返してみれば、セツナは目的地を告げていない。二人で散歩に出ることは何も初めてではなく、もっと言えば目的地を言わないのもいつものこと。とはいえ、セツナは必ずイヴをどこか知らないところへ連れて行ってくれる。この前に連れて行ってくれた公園はとても楽しかったし、また行きたいと思っている。だからこそ、今回はどこに連れて行ってくれるのか密かに楽しみにしていた。

 頬を膨らませていたイヴに、セツナは困ったように言う。

「そんな言葉、どこで覚えてきたの」

ですー」

 ぷいっとそっぽを向くイヴ。ケチという言葉はさておき、今の言葉は間違いなくセツナ自身の真似だろう。

「…………まったく」

 そんなやり取りを続けていると、二人は開けた通りに立ち並ぶ店の一つダイナーへ差し掛かる。

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